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日本のコミュニケーションを診る|馬場紀衣の読書の森 vol.28

数ヶ月ぶりに日本へ帰ってきた電車のなかで、駅で、通りで、とにかくあらゆる空間にキャラクターのイメージが氾濫していて、くらくらしてしまった。日本を離れているあいだも毎週のアニメは見逃さなかったし、漫画の新刊も手に入れた。発売が待ち遠しいゲームもある。そういうわけで、「日本はキャラクターの国である」という著者の言葉に私は激しく同意する。

日本社会でキャラクターのイメージがこれほど活用されるのには、いくつか理由がある。ひとつは、日本のキャラクターの由来は古代からのアニミズムにあること。それから、コミュニケーションにおいては情報量の多い教科書的なメッセージよりも人間や動物に似せたキャラクターのほうが感情移入しやすく、受け入れやすいということ。パーソナルなコミュニケーションが苦手な日本人の性格も無関係ではないだろう。「キャラ文化」は街だけでなく教室にも浸透している。

陽キャ、陰キャ、いじられキャラ、真面目キャラ……。生徒たちは自身が持つ性格の一側面を拡張してキャラとして身につけ、そのキャラを表出することで、生態系の中で単独の役割を果たす。この生態系の中でキャラは人格の一側面である以上に、集団に欠かせない専門的な役割を担っている。だから、集団において『他人とキャラが被らない』ことは鉄則だ。

問題は、実際の人間関係において単独の役割を押しつけてしまう点にある。複雑性をもたず、短絡的なキャラクターはステレオタイプ化された存在だ。特定のキャラクターをあてがわれた人物が、いつもそのように振る舞えるはずはない。もし嫌がる姿をみせてはならないのだとしたら、それはほとんど強制であり、義務に近い。


パント―・フランチェスコ『日本のコミュニケーションを診る』、光文社新書、2023年。


たとえばキャラ化されたことで、固有の自己同一性を保つことが難しくなる可能性がある。著者は、日常的な人間関係まで浸透した日本のキャラ化に警報を鳴らす。キャラ文化や建前などに頼った日本社会のコミュニケーション形式は「病い」に至るほどの気疲れを引き起こしかねないからだ。気疲れの原因は個人の性格も関係しているけれど、それ以上に文化習慣の影響が大きい。

「たくさんの友達が参加するパーティーにどんなキャラで臨めばいいか戸惑っている」というどこかで聞いたことがあるような日常的発言をイタリア人精神科医である著者が戸惑いをもって受け入れるのは興味深い。もしキャラが人間の一つの側面しか持てないのなら、自然体でコミュニケーションをとることはほとんど不可能だろう。

著者は欧米のコミュニケーションについても言及している。たとえば、欧米では建前は社交儀礼のような使いかたに限定されるということ。フォーマルな関係であっても、建前には他者を尊敬するニュアンスは含まず、互いの距離感が縮まれば建前を使うことはむしろ失礼になるらしい。一方で日本における建前とは「自身の欲求に対外的な価値判断を加え、集団や社会の期待に合わせて形成されるもの」と定義される。

本書は日本社会のコミュニケーションの特徴とその背景について書かれた本だが、人が人間関係に求めるものはどの国も変わらない。議論のベースになっているのはイタリアと日本の精神科医療に携わってきた著者の知見だが、内側から日本社会を見つめてきた読者も思わず膝をうってしまうような観点が本書にはたくさん詰まっている。



紀衣いおり(文筆家・ライター)

東京生まれ。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。オタゴ大学を経て筑波大学へ。専門は哲学と宗教学。帰国後、雑誌などに寄稿を始める。エッセイ、書評、歴史、アートなどに関する記事を執筆。身体表現を伴うすべてを愛するライターでもある。

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