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馬場紀衣の「読書の森」

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書物の森は、つねに深いものです。林立する木々のあいだで目移りするうちに、途方に暮れてしまうことも珍しくないでしょう。新刊の若木から、自力では辿り着けない名木まで。日頃この森を渉猟…
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記事一覧

黒の服飾史|馬場紀衣の読書の森 vol.64

毎朝クローゼットから服を選ぶとき、どんなデザインの服を着るかよりも先に私の頭にうかぶのは、何色の服を着るか、だ。それが赤なのか青なのか黄色なのかでその日の気分が決まってしまうので、真剣にならざるをえない。ごく個人的に言って、何色の服を着るかは、これから始まる長い一日をどんな気持ちで迎えるかを決める至極重要な儀式なのである。 他人のクローゼットを片っぱしから開けてまわるなんて失礼なことはできないので、実際のところは分からないのだけれど、想像するに、誰のクローゼットにも必ず一着

股間若衆|馬場紀衣の読書の森 vol.63

信号機も電信柱も看板も街のなかにあるものはすべて街のなかにあるものらしく、その場所に馴染んでいるように見える。晴れの日も曇りでも風が強く吹いていても、そこにあるのが当然という雰囲気でそこにあり、そこにあることで安心感すら与えてくれるものたち。街を街らしくするための小道具はたくさんあるけれど、その中でも裸体彫刻というのは、すこし異質な存在だなと常々思っていた。 それはおそらく、この人たち自身(裸体彫刻)が困っているようにもとぼけているようにも見える表情をしているせいだと思う。

土と内臓|馬場紀衣の読書の森 vol.62

肉眼では見ることができないというのは、だからといって存在しないわけではなく、見えないというだけで確かにそこにはあるのだ。それはなんてドラマチックで胸の躍ることだろう。海の底、宇宙。行ってみたいけれど行きたくない(なぜなら帰って来ることができないかもしれないので)と思わせる世界の果てがいくつかあって、この度、ここに、土の中が新しく加わったことを報告します。植物について書かれた本を読むたびに、植物の世界は人類が登場するはるか昔から自給していたのだ、という当たり前の事実を、私は新鮮

「腹の虫」の研究|馬場紀衣の読書の森 vol.61

「腹の虫がおさまらない」というのは腹が立って仕方がなくて気持ちが昂っている状態をさすのだろうけれど、この場合、興奮しているのは私なのか、それとも腹の中にいる虫のほうなのかどっちだろう。そんなことを考えていると可笑しくなってきて、しまいには笑ってしまうのだけれど、この場合も笑っているのは私ではなくて、腹の中にいる虫だったりするのだろうか。「虫が好かない」とか「虫がいい」とか「虫の知らせ」とか、虫にまつわるいろんな言い回しがあるけれど、一体全体虫って何のこと。それって、どんな虫な

チベット高原に花咲く糞文化|馬場紀衣の読書の森 vol.60

森林限界よりも標高の高い場所。冷たく、乾燥したチベット高原に暮らす人々にとってヤクの糞(牛糞)はもっとも重要な生態資源だ。ヒトと動物の暮らしの関係を考えるとき、動物の毛皮や乳や肉が取りあげられることはあっても糞に注目することはそう多くないのではないだろうか。さらにいえば、牛糞の有用性についてこれほど詳しく書いた本というのも珍しいように思う。 この資源の乏しい高冷地において、牛糞の果たす役割は想像以上だ。牛糞なくして人は生き抜けない、と言ってもいい。それほどまでに牛糞は人々の

ヌードの東アジア|馬場紀衣の読書の森 vol.59

ストッキングを嫌う女性が増えているらしいけれど、この窮屈で脆い履物が私は好きである。窮屈なのは補正のためだし、脆いのは繊細ということだから。そして繊細なものは得てして美しい。デンセン(編んだ糸が切れて線上にほころびること)はまあ、薄さとやわらかさの代償と思えば許せる。とはいえ「何を美しいとし、何を美しくないとするか。それは、人間の生来の感性ではなく、後天的な学習の産物であるところが大きい」という著者の意見にも頷ける。 日本人のストッキングへの意識は、第二次世界大戦後のごく短

自在化身体論|馬場紀衣の読書の森 vol.58

デジタル化の進展によって人はこの先どこへ向かうのだろう。自動車や航空機による移動、製造機械に頼った生産、インターネットがもたらした情報通信。工業化のそもそもの目的はそれまで人間の肉体が担っていた労働を機械に置き換えることにある。機械は身体を酷使する苦役から人を解放してくれた。それはとても便利なことで、と同時に、私にはすこし怖いことのように思える。今さら怖がったところでどうしようもないのだけれど。なぜって、私たちはもうずいぶんと前から「脱身体化」の動きにのまれているのだから。私

タイポグラフィ・ブギー・バック|馬場紀衣の読書の森 vol.57

マニアックな本だなぁ、と思う。でも、この本を嬉々として読んでいる人も、まちがいなくマニアックである。そしてこんなことをさらりと書ける著者に、私はくらくらしてしまう。なんの本かといえば、タイポグラフィ。書体、についてである。 書体について退屈な、つまらない印象を持つ人があるとすれば、その人はたぶん世界の、街中の、日常にあるものの半分も楽しめていない(と、ごくごく個人的に思う)。たとえ読書家でなくたって、人は文字に囲まれて生きているのだ。それはもう、音楽のように空間にただよって

子どもの文化人類学|馬場紀衣の読書の森 vol.56

ものすごく大切なことが、とてもていねいに、とても分かりやすく書かれている。子どもの育ちかたも育てかたも社会によってさまざまで、その子どもがもつ面白さや悩みや才能は親ですら計り知れないのだ、ということが実証的かつ直感的につづられた本だ。 たとえば極北の雪原に暮らす狩猟民ヘヤー・インディアンの子どもは、小さい時から自分のからだとどう付きあうべきかを学んでいる。冬になれば氷点下50度にもなるこの地で、テントをねぐらにする彼らのからだはしんそこ冷えきってしまうことがある。食物となる

髪をもたない女性たちの生活世界|馬場紀衣の読書の森 vol.55

ほんとうは失礼なことかもしれないのだけど、美しい女性を見ると振りかえらずにはいられない。ほんの一瞬、すれ違いざまに受けとることのできる美しさには、だいたい2種類しかないと私は思っていて、ひとつは肌が美しいこと。もうひとつは、髪が美しいことである。 それで、その、髪についての本である。体のなかでも髪、というのは異質な部分だ。人の一部でありながら血の一滴も流すことなく、いとも簡単に切り離せてしまえることが関係しているのかもしれない。それに、生き物じみているところ。目には見えない

小川洋子のつくり方|馬場紀衣の読書の森 vol.54

小川洋子の作家活動を最初から追いかけるには遅れての出発になってしまったけれど、これまで出版された全小説をすべて読むのに間に合ったことは、幸運だと思う。一読者として新しい小説を待つ楽しみと、くりかえし読むという喜びの、両方を味わうことができるのだから。 本書は、その小川洋子の作品と創作が語りつくされた一冊。なにせ海燕新人賞を受賞した「揚羽蝶が壊れる時」にはじまり、そして本来ならデビュー作になるはずだった「完璧な病室」から「掌に眠る舞台」にいたるまで、ほぼすべての小説についての

サイボーグになる|馬場紀衣の読書の森 vol.53

SF作家のキム・チョヨプは、15歳のときに神経性難聴と診断されて医師に補聴器をすすめられた。技能者がもってきた「耳あな型」補聴器は耳の中にすっぽりおさまる爪の大きさほどのもので、つけても目立たないようにデザインされていた。「眼鏡店のそれとは違って補聴器店の鏡は、補聴器が外から見えないことを確認させるために置いてあった。わたしは補聴器をつけていることをずっと隠していられた。そして、これからもわたしにはそうすることが求められるのかもしれない、という気がした」。この小さな機器にかぶ

人間性の進化的起源|馬場紀衣の読書の森 vol.52

長い、長い地球の歴史上のどの時点に自分が生きているのかを意識することはほとんどないように思う。人類は地球の環境を猛スピードで変えてきたし、でも、変えてきた気がするだけだ。この一、二万年のあいだの人類の文化進化は目覚ましいもので、私たちの祖先は都市をつくり、知識を百科事典にまとめ、栄養価の高い食べものを作り、音楽を奏でた。人類の目覚ましい文化進化の感触をこの身をもって経験するには一生は短すぎるが、その手触りをこの本が与えてくれる。 それこそ小さな体から身を乗り出して地球規模で

人体、5億年の記憶|馬場紀衣の読書の森 vol.51

ささやかなことだけれど「体」と「からだ」では、表記以外にもちがいがあるように思う。眼があり、脳があり、左腕と右腕があり、左脚と右脚があり、やはり左右に5本ずつ指がついている、そんな左右対称の構造をもつ「体」。たいしてその中央ともいうべき場所にある「こころ」をも含んだ「からだ」。そういえば「身体」という表記もある。こうした表記の揺れには、カラダのというものの曖昧さがよく表現されているように思う。そして私がつねに惹かれてやまないのは「からだ」なのである。 「からだ」について書き