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馬場紀衣の「読書の森」

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書物の森は、つねに深いものです。林立する木々のあいだで目移りするうちに、途方に暮れてしまうことも珍しくないでしょう。新刊の若木から、自力では辿り着けない名木まで。日頃この森を渉猟… もっと読む
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記事一覧

『色のコードを読む』|馬場紀衣の読書の森 vol.26

「象の息」「ポテッド・シュリンプ」これ、なんのことか分かるだろうか。じつは、色の名前なのだ。ちなみに「象の息」は温かな灰色で、「ポテッド・シュリンプ(英国の伝統的なエビ料理)」はエビ色。変わった色の名前は他にもある。「デンマークの芝生」「パリの泥」「野ねずみの背中」。このあたりは、なんとなく色のイメージが浮かんでくる。18世紀の中国には「ラクダの肺」「したたり落ちる唾」なんていうのもあった。どんな色なのかさっぱり想像がつかないけれど、あまり美しい色ではなさそうだ。 とはいえ

『目に見える世界は幻想か?』|馬場紀衣の読書の森 vol.25

私たちの身のまわりでは、刻々とさまざまな現象が引き起こされている。しかし、それらは目に見える形では現れない。とはいえ、目に見えないからといって存在していないわけではないし、それどころか、かなり重要な働きをしている。この世界はとても巧妙に作られているのだ。 たとえば、もっとも身近な存在から物理について考えてみる。もっとも身近な、自分の身体について。人間が出す力について。手を使って動かすときは手や腕の筋肉が、足を動かすときには足の筋肉が、収縮したり弛緩したりすることで力が出され

『絵画は眼でなく脳で見る』|馬場紀衣の読書の森 vol.24

まずは、イタリア・トスカーナはガンバッシ出身の「蝋で肖像をつくる盲目の彫刻家の物語」からはじめたい。美術理論家のロジェ・ド・ピールは、この話をローマで知りあった信頼できる人物から聞いた実話として紹介している。 記述によれば、その知人はローマのジュスティニアーニ宮殿で50歳くらいの熟練した盲目の彫刻家がミネルヴァ像を模刻しているところに遭遇する。「見ていないのに、どうしてそれほど美しいものが作れるのか」そう質問すると、盲目の彫刻家はこう答えた。「何も見えないが、私の目は手の指

『ポルノ・ムービーの映像美学』|馬場紀衣の読書の森 vol.23

まず作品の数に驚かされる。それから、取りあげられる女優の数に驚く(ご丁寧に一人一人の解説までついている)。二度驚いて、それから、まだ映画を観るという喜びが残っている。 エロティック映画からハードコア・ポルノまで、エポックとなった作品を年代順に追いながら、ポルノ・ムービー100年の歴史を辿れるように構成されたこの本は、内容が充実しているぶん、ページ数もたっぷりとあって読みごたえは十分すぎるくらい。 世間では下品とか、下劣とか、とかく「下」の意味をもって表現されがちなポルノグ

岡田尊司『死に至る病』|馬場紀衣の読書の森 vol.22

記憶というのは曖昧で、覚えていることよりも、覚えていないことのほうがよっぽどおおい。infant(子ども)の語源は「語らぬもの」を意味するラテン語 infans なのだという。語ることのできない、この小さな生きものは、語ることができないために、蔑ろにされることがある。どうせ子どものときのことだから忘れているだろう、と大人は思うかもしれないけれど、人はしっかり覚えている。愛された、という記憶を。そして、愛されている、という事実は栄養となって子どもの全身を(精神的な意味でも)血液

頭木弘樹『食べることと出すこと』|馬場紀衣の読書の森 vol.21

いろんな意味ですっきりとした本だった。言葉の爽快感、とでもいうのだろうか。ものすごく大事なことが、ものすごく分かりやすく書かれている。もし食べることと出すことが奪われてしまったら、私はほんとうに困り果てて、かといって動くこともできないので、絶望するほかいったいなにができるだろう。 潰瘍性大腸炎という難病に襲われた著者は、以来、食事と排泄というあたりまえが、あたりまえにできなくなってしまう。潰瘍性大腸炎とは、大腸の粘膜に炎症が起き、潰瘍ができる症状で、患者数は20万人ほど。も

『肉食の終わり』|馬場紀衣の読書の森 vol.20

はじめに断っておくと、この本は畜産の問題に関する本ではない。畜産が社会に与える害悪や問題(国家経済・食料供給・自然環境……)について詳しく解説する、というのではなく、問題を具体的に解決するための方法を説いた本である。社会運動家たちによる成功例を概観しながら、歴史学、心理学、マーケティングなどの分野による証拠をもとに、取り組みの分析がおこなわれる。目的は、世界のモラルを正義へと向かわせること。著者の目は、畜産の、明るい未来に注がれている。 まずは畜産の事実。いま世界では100

『死体は今日も泣いている』|馬場紀衣の読書の森 vol.19

「死」は、人間にとってもっとも普遍的なテーマだ。でも、「死体」について考える機会はあまりないかもしれない。法医学者として日夜、死体と(物理的な意味でも精神的な意味でも)向きあっている著者はなにを考えているのだろう。 本書を手にした読者のおおくは、犯罪性の疑われるような死体に出合うことなく暮らしているだろうし、法医学の世界を映画やドラマで描かれるようなスリリングな現場だと思っているかもしれない。そのような読者の期待を、この本はことごとく裏切っていく。法医学の世界からあぶり出さ

藤井正雄『骨のフォークロア』|馬場紀衣の読書の森 vol.18

生きているものが死者へと向ける感情は、とても一言では言い表せないものがある。まず、死者への哀悼の念があるかもしれない。大切な人だったなら、愛惜も。それから、死という不確かな現象への恐怖をしみじみと感じるかもしれない。おそらく、腐敗していく屍体への嫌悪感もあるだろう。とにかく、複雑だ。わたしは死をまえにすると、今、この瞬間、こうして息をしている自分の生を、強く実感する。死の濃くなるとき、生もまた濃くなるように思う。 比較民俗学の視座から「骨」に関するフォークロア(伝承)をまと

『奥行きをなくした顔の時代』|馬場紀衣の読書の森 vol.17

「ヴァーチャルとは可能的に存在するものであって、現実に存在するものではない」とフランスの哲学者ピエール・レヴィは述べている。そして「ヴァーチャルなものは、アクチュアル化されることを目指しているが、それは実効的な、あるいは形相的な具体化という状態に置かれることはない」とも。 自己コンテンツ化された自分のことを考えるようになったのは、SNSが台頭してからだ。それ以前にも、舞台写真を撮影してもらう、という機会はあったけれど、これほどの「ままならなさ」は感じていなかった。誰もがタレ

田中ひかる『月経と犯罪』|馬場紀衣の読書の森 vol.16

昨今のジェンダー平等やセクシャリティをめぐる議論は、それに対して好意的であれ否定的であれ、無視できないものとなった。ここ数年、生理ムーブメントとでも呼べるような状況が注目を集めているのも変化のひとつだろう。実際、生理中の、あの「イライラ」は月経(生理)についてほとんど知らない男性でさえ知っているのだ。この期間に、落ちこんだり、涙もろくなったり、甘いものが食べたくなったりすることは、もうずっと女性たちの共通認識だった。とはいえ、歴史のうえで生理がどのように語られ、扱われてきたか

伊藤亜紗『手の倫理』|馬場紀衣の読書の森 vol.15

「さわる」と「ふれる」は、英語にすると、どちらもtouchになるけれど、ニュアンスは微妙にちがう。傷口はふれる、だけれど、虫にはさわれない、といった具合に。人はこの触覚に関するふたつのあいまいな動詞を、その都度、状況に応じて使いわけている。ところでtouchという単語には、かすめるような、相手を小突くような、ささやかな動作による印象を受けるのだけれど、これはわたしだけだろうか。 著者の伊藤亜紗さんは美学者で、これまでも身体をめぐる多くの著書を世に送り出してきた。そんな著者が

『心は機械で作れるか』|馬場紀衣の読書の森 vol.14

本書によれば、心の機械説を唱えるには二つの障害がある。一つは、意識。二つ目は、思考という現象だ。近年の「心の哲学」の関心事の中心は、まさにここにある。たんなる機械がどうやって意識をもつことができるのか。そして、機械がどうやって事物について考え、事物を表象できるのか、ということである。 まずは、この本の構成を知っておくことが読書の役に立つと思う。第一章では、表象、つまり何かを思い浮かべたりする心の働きに伴う問題が紹介される。第二章は、心理学の知見と思考の因果的性質をとりあげる

『衣服のアルケオロジー』|馬場紀衣の読書の森 vol.13

わたしの知り合いに、とかく朝の準備の早い人というのがいるけれど、大ブルジョワジーの社会では、「申し分ない」女性として認められるためには、衣装をひっきりなしに、ときには8回も、脱ぐことと着ることを繰りかえさなくてはならなかった。19世紀フランス社会に生きる女性にとって、身づくろいは、おおごとだったのだ。 身づくろい、といっても、髪をとかしてクローゼットから服を引っぱりだして、というわけにはいかない。自分の年齢、容貌、肌と髪の色、服と調和させた衣装を選び、なおかつ自分の財産や社