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馬場紀衣の「読書の森」

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書物の森は、つねに深いものです。林立する木々のあいだで目移りするうちに、途方に暮れてしまうことも珍しくないでしょう。新刊の若木から、自力では辿り着けない名木まで。日頃この森を渉猟…
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記事一覧

タイポグラフィ・ブギー・バック|馬場紀衣の読書の森 vol.57

マニアックな本だなぁ、と思う。でも、この本を嬉々として読んでいる人も、まちがいなくマニアックである。そしてこんなことをさらりと書ける著者に、私はくらくらしてしまう。なんの本かといえば、タイポグラフィ。書体、についてである。 書体について退屈な、つまらない印象を持つ人があるとすれば、その人はたぶん世界の、街中の、日常にあるものの半分も楽しめていない(と、ごくごく個人的に思う)。たとえ読書家でなくたって、人は文字に囲まれて生きているのだ。それはもう、音楽のように空間にただよって

子どもの文化人類学|馬場紀衣の読書の森 vol.56

ものすごく大切なことが、とてもていねいに、とても分かりやすく書かれている。子どもの育ちかたも育てかたも社会によってさまざまで、その子どもがもつ面白さや悩みや才能は親ですら計り知れないのだ、ということが実証的かつ直感的につづられた本だ。 たとえば極北の雪原に暮らす狩猟民ヘヤー・インディアンの子どもは、小さい時から自分のからだとどう付きあうべきかを学んでいる。冬になれば氷点下50度にもなるこの地で、テントをねぐらにする彼らのからだはしんそこ冷えきってしまうことがある。食物となる

髪をもたない女性たちの生活世界|馬場紀衣の読書の森 vol.55

ほんとうは失礼なことかもしれないのだけど、美しい女性を見ると振りかえらずにはいられない。ほんの一瞬、すれ違いざまに受けとることのできる美しさには、だいたい2種類しかないと私は思っていて、ひとつは肌が美しいこと。もうひとつは、髪が美しいことである。 それで、その、髪についての本である。体のなかでも髪、というのは異質な部分だ。人の一部でありながら血の一滴も流すことなく、いとも簡単に切り離せてしまえることが関係しているのかもしれない。それに、生き物じみているところ。目には見えない

小川洋子のつくり方|馬場紀衣の読書の森 vol.54

小川洋子の作家活動を最初から追いかけるには遅れての出発になってしまったけれど、これまで出版された全小説をすべて読むのに間に合ったことは、幸運だと思う。一読者として新しい小説を待つ楽しみと、くりかえし読むという喜びの、両方を味わうことができるのだから。 本書は、その小川洋子の作品と創作が語りつくされた一冊。なにせ海燕新人賞を受賞した「揚羽蝶が壊れる時」にはじまり、そして本来ならデビュー作になるはずだった「完璧な病室」から「掌に眠る舞台」にいたるまで、ほぼすべての小説についての

サイボーグになる|馬場紀衣の読書の森 vol.53

SF作家のキム・チョヨプは、15歳のときに神経性難聴と診断されて医師に補聴器をすすめられた。技能者がもってきた「耳あな型」補聴器は耳の中にすっぽりおさまる爪の大きさほどのもので、つけても目立たないようにデザインされていた。「眼鏡店のそれとは違って補聴器店の鏡は、補聴器が外から見えないことを確認させるために置いてあった。わたしは補聴器をつけていることをずっと隠していられた。そして、これからもわたしにはそうすることが求められるのかもしれない、という気がした」。この小さな機器にかぶ

人間性の進化的起源|馬場紀衣の読書の森 vol.52

長い、長い地球の歴史上のどの時点に自分が生きているのかを意識することはほとんどないように思う。人類は地球の環境を猛スピードで変えてきたし、でも、変えてきた気がするだけだ。この一、二万年のあいだの人類の文化進化は目覚ましいもので、私たちの祖先は都市をつくり、知識を百科事典にまとめ、栄養価の高い食べものを作り、音楽を奏でた。人類の目覚ましい文化進化の感触をこの身をもって経験するには一生は短すぎるが、その手触りをこの本が与えてくれる。 それこそ小さな体から身を乗り出して地球規模で

人体、5億年の記憶|馬場紀衣の読書の森 vol.51

ささやかなことだけれど「体」と「からだ」では、表記以外にもちがいがあるように思う。眼があり、脳があり、左腕と右腕があり、左脚と右脚があり、やはり左右に5本ずつ指がついている、そんな左右対称の構造をもつ「体」。たいしてその中央ともいうべき場所にある「こころ」をも含んだ「からだ」。そういえば「身体」という表記もある。こうした表記の揺れには、カラダのというものの曖昧さがよく表現されているように思う。そして私がつねに惹かれてやまないのは「からだ」なのである。 「からだ」について書き

エロス身体論|馬場紀衣の読書の森 vol.50

人間は矛盾した生き物だ。そもそも、この「身体」が矛盾している。現代人は長らく「精神と肉体」とか「心と物質」だとか分かりやすい言葉で身体を説明しようとしてきたけれど、心身二元論も物心二元論も、あるいは心身一如論にしても、あくまで抵抗の姿勢としてあるにすぎない。身体について本当に語る言葉というのを、私たちはまだ持っていないような気がする。そういうわけで、私にとって身体というのは、いつも薄膜に覆われたわけのわからない存在である。世界と関係を結び、他者と触れ合い、出あうことだけが「私

日本の裸体芸術|馬場紀衣の読書の森 vol.49

羞恥心の歴史を分析したハンス・ペーター・デュルによれば、日本の社会において裸体は見えているのに見てはいけないもの、らしい。日常的に見る機会は多いのに、じっと見てはいけない。たとえ見たとしても、心に留めてはいけない。それって、すごく難しい。じっと見ることは不作法にちがいないけれど、あるものを、ないように振る舞うなんてちぐはぐだ。でも、このちぐはぐが日本ならではの裸体芸術を育んだともいえる。 本書によれば、そもそも日本には裸体美という概念はなかったのだという。裸体へと向けられる

頭上運搬を追って|馬場紀衣の読書の森 vol.48

人間て、美しいな、と思った。 若いとか、痩せているとか、目が大きいとか。美しいとされる規格は無数にあるけれど、そのどれともちがう、ほんとうの意味での美しさ。人が生きて、生活があって、労働のなかから生まれてきた生身の動作である。厳しくて強い、人間の姿を正面切って見つめる作者の目もいい。 「頭上運搬」というのは、言葉のとおり頭の上でものを運ぶこと。今のように自動車などでものを運べなかった時代、人が両手でものを運ぶのには限りがあるから、人はものを頭に載せて運んでいた。日本ではかつ

触れることの科学|馬場紀衣の読書の森 vol.47

触れることで気持ちのすべてを伝えられるなんて信じていないけれど、人に触れることで、不確かだった気持ちを言葉よりずっと的確に伝えることができるとは信じている。そういう確信めいた予感がある。誰かとの触れあいが、言葉を簡単に超えてしまうという経験を、きっとしたことがあるからだ。 感情伝達における対人接触の役割を調べた実験によると、内向きの感情(困惑、嫉妬)よりも外向きの感情(愛情、感謝)のほうが解読されやすいのだという。もちろん、触れあいに関する考えかたは文化や性差あるいは社会

味わいの現象学|馬場紀衣の読書の森 vol.46

「味」という言葉には、少なくとも二つの意味がある。英語でいうところのtaste とflavorがそれだ。辞典によればtasteには食べものを「味わう」ほかにも、「味覚」や「味」という意味がある。そしてflavorには「味わい」とか「風味」という訳語が当てられている。とはいえ、この二つの単語をきっちりと使いわけている人はそれほど多くないように思う。それどころか味をめぐる言葉の使い分けはとても複雑で、正解を知っている人がいるかどうかもあやしい。 ただ、重要なのは言葉の使いかたで

視覚化する味覚|馬場紀衣の読書の森 vol.45

スーパーマーケットで野菜を選ぶとき、私たちは外見で(というのは傷の有無や虫食いなどを気にしながら)新鮮さや美味しさを見分けているから、バナナが黄色であることやトマトが赤い色をしていることをいちいち疑ったりしない。だから、かつては赤茶色のバナナや紫色のトマトが販売されており、それが「当たり前」の色だった、と読んだときには驚いた。私はそんな色の野菜を見たことがないし、棚に並んでいるのを見た日には、なんだか子どもが色塗りをまちがえてしまったみたいだな、と思うだろう。 本書によれば

食べる西洋美術史|馬場紀衣の読書の森 vol.44

食事の席を描いた絵画はたくさんあるけれど、まずはレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』が思いだされる。捕縛される前日、キリストはエルサレムで12人の弟子たちと食事をした。身振りと表情によって表現された使徒たちのそれぞれの感情は、キリストがこの席で発言した衝撃的な内容によるものだけれど、私には彼らの会話よりもずっと気になることがある。世界でもっとも有名な晩餐の、そのメニューだ。食べることへの情熱がそれほどない人でも、テーブルの上になにが並んでいるのか「見よう」と目を細めたこと