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馬場紀衣の「読書の森」

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書物の森は、つねに深いものです。林立する木々のあいだで目移りするうちに、途方に暮れてしまうことも珍しくないでしょう。新刊の若木から、自力では辿り着けない名木まで。日頃この森を渉猟… もっと読む
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記事一覧

視覚化する味覚|馬場紀衣の読書の森 vol.45

スーパーマーケットで野菜を選ぶとき、私たちは外見で(というのは傷の有無や虫食いなどを気にしながら)新鮮さや美味しさを見分けているから、バナナが黄色であることやトマトが赤い色をしていることをいちいち疑ったりしない。だから、かつては赤茶色のバナナや紫色のトマトが販売されており、それが「当たり前」の色だった、と読んだときには驚いた。私はそんな色の野菜を見たことがないし、棚に並んでいるのを見た日には、なんだか子どもが色塗りをまちがえてしまったみたいだな、と思うだろう。 本書によれば

食べる西洋美術史|馬場紀衣の読書の森 vol.44

食事の席を描いた絵画はたくさんあるけれど、まずはレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』が思いだされる。捕縛される前日、キリストはエルサレムで12人の弟子たちと食事をした。身振りと表情によって表現された使徒たちのそれぞれの感情は、キリストがこの席で発言した衝撃的な内容によるものだけれど、私には彼らの会話よりもずっと気になることがある。世界でもっとも有名な晩餐の、そのメニューだ。食べることへの情熱がそれほどない人でも、テーブルの上になにが並んでいるのか「見よう」と目を細めたこと

嫉妬論|馬場紀衣の読書の森 vol.43

『嫉妬論』。なんて読みたくない本だろう、と思う。読んでしまえば気づいてしまう、と思い、気づいてしまうと苦しいし、苦しいからこそ手放したいのにそれができないから、やっぱり辛いのだ、と思う。 映画や小説に探さなくたって、私たちの周りは嫉妬の物語であふれている。それどころか嫉妬がどんなふうに自分の心を鷲掴みにするか、どんな気持ちを連れて来るかまで知っている。でも、その構造や性質についてはあまり話されてこなかったように思う。嫉妬感情に関していえば、これはもう冷静な他人に説いてもらう

男子という闇|馬場紀衣の読書の森 vol.42

人気のない夜道をひとりで歩いているとき。古臭い因習に遭遇したとき。思うことがある。男の子だったらよかったのに、と。「女の子だった私には、男の子の方が何かと楽なように思えたから」。これは、私の言葉ではない。この本の作者であり、女の子と男の子を一人ずつ育てる母親で、ワシントンポスト紙の報道記者でもある著者の言葉だ。そして、世の女の子たちの内なる声でもある。 アメリカでは男性の約4人に1人が生涯のうちに何らかの性暴力をうけたことがある、という衝撃的な事実がある。2015年の調査に

肥満男子の身体表象|馬場紀衣の読書の森 vol.41

セルバンテスの『ドン・キホーテ』を読んだ。私はこの物語がほんとうに好きだ。愛読する騎士道文学の影響を受けたキホーテは、狂った細い男で「あまりにひょろ長く、やせて、顔もこけて、脂肪がなく、柔軟性もなく、まるで結核で衰弱してしまったかのようにかなりやせ衰えている」。一方、飲食のために生きているサンチョ・パンサ(召使い)は「大きな腹部に、背丈が低く、長いすね」という姿。不自然にせりだした腹部というのは、つまり肥満体である。体をもたない実在のない小説の登場人物が、それでも物語を生きる

誘惑する文化人類学|馬場紀衣の読書の森 vol.41

悪魔への誘い、物品への誘い……「誘惑」という言葉には、甘美な響きがある。でもそれだけじゃない。誘惑という言葉には、危険なニュアンスもある。 人は自分の身体を安定したものとみなしがちだけれど、内外的な影響を受けて簡単に形を変えてしまえる身体の在り様というものは、不完全で不安定ともいえる。わたしと他者とを結びつけることを可能にするこの身体が、誘惑が、破滅を招くほど危険なのは、それが身体的な行為であるためだ。誘惑は、人をエロスの世界へ誘う。 たとえば舌や口や指を道具にして相手の

唇が動くのがわかるよ|馬場紀衣の読書の森 vol.40

舞台の出しもののひとつとして娯楽になるずっと前、腹話術は魔術のたぐいと信じられていた。これを古い時代の大いなる誤解と笑い飛ばしてしまえないのは、腹話術をしてみせた人たちが監獄に放りこまれたり、最悪の場合、死罪になったりしたからだ。そういうことが、中世の暗黒時代にはしばしば起こった。 「腹話術師」という言葉は、ラテン語の「腹の話し手(ventriloquus)」を意味する。その歴史は聖書にも言及があるほどに古い。書かれていることをそのまま信じるのなら、腹話術師は「穢れた悪魔に

パレードのシステム|馬場紀衣の読書の森 vol.39

不思議な懐かしさに覆われた小説だ。それでいて、なんだか床が抜けてしまったみたいに心もとない。終わりまでずっとそこはかとない不安にくるまれている気分だった。 うら若い現代アーティストの「私」は、亡くなった祖父に一目会うために10年ぶりに生まれ育った町に帰って来る。そこで会った従姉妹の「ねえ、知ってた、おじいちゃんってガイジンだったんだって」という言葉から、物語はゆっくりと動きだす。 自死だった祖父の部屋からでてきたのは、古い写真、絵葉書の束、どこの国の言葉なのか分からない記

生を祝う|馬場紀衣の読書の森 vol.38

題名のとおり、まさに「生を祝う」のである。 でもこの場合、生を祝っているのが親なのか子どもなのか、あるいは、祝福しているのはべつの誰かかもしれない。生を祝う第三者の存在を想像せずにいられないのは、おそらく自分の誕生の手触りを、誰もうまく語れないからだろう。 流行り病によって世界人口の三分の一が失われた時代を経て、人びとは死をより身近なものと感じるようになった。「いかに死ぬか」は自由の名のもとに大きなうねりとなり、やがて安楽死が合法となった世界。死の決定権を手に入れた人間が、

狙われた身体|馬場紀衣の読書の森 vol.37

人間には5種類の感覚があり、なかでも圧倒的に重視されているのは、いうまでもなく視覚だろう。たとえ見えなかったとしても、大きな音がしたり、匂いが鼻先をかすめたり、奇妙な味がしたり、触ることができれば周囲の異変に気づくことはできる。でも、そこにたしかに「ある」はずなのに、見ることのできないものにはどう対処したらよいのだろう。なんだか矛盾しているように聞こえるけれど、そういうものは案外たくさんある。たとえば痛み、たとえば病。 目には見えないのに存在しているとなると、目に見えている

美とミソジニー|馬場紀衣の読書の森 vol.36

ひっきりなしにお腹をしめつけるワンピースとか、気の抜けないヒール靴とか。メイク、ファッション、美容整形など女性がそうすることを社会から期待される美容行為のなかには、美しさと引きかえに身体への負荷を求めるものがある。こうした美容行為は男性による支配であり「有害な文化習慣」で、女性の従属を促進している。西洋中心的で男性中心的な価値観に美の規範を押しつけられた女性たちは、男性消費のフェティシズム的な興味に合わせて体を変形させているのだ。 という著者の痛烈な批判は、いささか強引な主

魚はエロい|馬場紀衣の読書の森 vol.35

ビデオカメラ片手に海中へと潜りこむ。海のなかでは光の屈折の影響で魚の「モノ」は近く大きく見えるから、そのサイズは実寸の2倍以上。「魚」と「エロ」。あり得ない組みあわせ、と思いきや、海のなかは想像よりずっと豊穣な世界だった。地上にいては知ることのできない世界。そう、海に住む生き物たちの生態はロマンチックで、神秘的だということをこの本で初めて知った。 タイトルのとおり、本書にはエロい魚が数おおく登場する。でも、著者いわく半分くらいは「エロくない」、真面目な記述に努めているらしい

時間の終わりまで|馬場紀衣の読書の森 vol.34

誰かに教えてもらわなくても、とうに私たちは知っている。どんなものもやがては亡びてしまうし、自分の住処である惑星でさえ、いつかは滅びてしまうということを。私たちは知っている。永続するものなど何もないし、自分が消滅した後も世界は何事もなかったかのようにありつづけるということを。日常生活では、なんでもないように振る舞ってはいるけれど。 こうした認識は、自分がつかの間の存在であることを気づかせてくれる。失ったものを嘆いたり、人と交流したり、楽しいときに笑ったりすることが、どれほど驚

私の半分はどこから来たのか|馬場紀衣の読書の森 vol.33

まず、表紙に惹かれた本だ。透明な身体を抱き寄せるようにして、こちらを見つめる人がいる。読み始めると、表紙の人が自分を抱き寄せているようにも、水のように流れてしまいそうな自分をすくいあげているようにも見えてくる。 自分は何者なのかと問うとき、親や祖父母の存在を意識せずにはいられない。子どもは血縁という大きな流れの中で育つから、家族との関係を考えることは、私という存在を考えることでもある。私はたしかにここにいると実感させてくれたのは母であり、父であり、私はその知らない時間や巡り