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暗闇の効用|馬場紀衣の読書の森 vol.67

「我々は昼を夜にすることも、夜を昼にすることも望まない」これは啓蒙主義の時代の作家、ジャン=ジャック・ルソーの言葉だ。生きものが一日を光と闇の交替に合わせて暮らしていることも、昼と夜が等しく大切な時間だということも理解しているはずなのに世界はますます明るいほうへと引きずられていく。神が街路を明るく照らす許可を私たちに与えていないことを知っていたルソーとちがって、現代人が暗闇の重要性に気が付いたのは街がすっかり明るくなってからだ。

「ヨーロッパで日常的に天の川を目にするのは5人に1人だし、北アメリカとヨーロッパでは99%(すなわちほぼ全員)の人が、人工の光に汚染された夜空の下で暮らしている。本当の暗闇や星空がどのようなものか知っている人はほとんどいない。ほんの数世代前までは、夜が人類にとって当たり前の存在だったとは、いまではほとんど信じがたいほどだ。」

人工の光は人体のリズムと調和を乱し、鳥を真夜中に歌わせ、卵からしたウミガメを混乱させ、月明かりの下の岩礁で行われるはずだったサンゴの交配を邪魔し、流れ星とオーロラを奪いつつある。「光害」は、すべての生きものに関係する問題だ。夏場に呪いたくなる虫だって、いざ消えてしまえば地球の生態系は大打撃をくらうことになる。今日では全昆虫の40%が絶滅の危機に瀕していると言われるが、原因は人類と光にある。

脊椎動物の3分の1、無脊椎動物の3分の2は夜行性なので交尾も狩りも分解も授粉も自然界の営みのおおくは私たちが健やかに眠っている夜に行われる。だから「暗闇は人間の世界ではない。私たちは、あくまで訪問客にしかなれないのだ」という著者の言葉は正しい。夜は人にとっても動物にとっても虫にとっても秘密の時間なのだ。

この本を読み、生きものの暗闇での営みが巡り巡って人間にも影響しているのだと気付くと、夜の静けさに感謝せずにはいられなくなる。そんな暗闇の美しさを教えてくれるガイドが夜目のきくコウモリの研究者というのも、たのもしい。コウモリの活躍はめざましい、ということも私はこの本ではじめて知った。たとえばコウモリは1匹で一夜にして3000匹もの蚊を食べるうえに、米に襲いかかる昆虫も食べてくれる。効き目と環境への優しさを両立させた農薬は地上にほとんどないけれど、コウモリなら可能だ。この食欲のおかげでアメリカの農業は約30億ドルの節約ができているという。というわけで、私のように夏の夜に蚊を憎んだことのある人は今すぐ闇の方向に手を合わせてコウモリに感謝したほうがいい。

ヨハン・エクレフ暗闇の効用永盛鷹司訳、太田出版、2023年。


紀衣いおり(文筆家・ライター)

東京生まれ。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。オタゴ大学を経て筑波大学へ。専門は哲学と宗教学。帰国後、雑誌などに寄稿を始める。エッセイ、書評、歴史、アートなどに関する記事を執筆。身体表現を伴うすべてを愛するライターでもある。

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