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ヒトの原点を考える|馬場紀衣の読書の森 vol.69

人間とはなにか。人間とは動物である。動物であるとはどういうことか。この問いを、とても分かりやすく、かつ的確に説明してくれる文章がある。

「動物であるとはどういうことか。それは、からだがあって、からだを使って生きているということだ。動物のからだは、外から食物を摂取し、それを代謝し、配偶して繁殖する。やがて個体には死が訪れるが、次の世代が、またもやそのサイクルをつないでいく。こうして生物は存続してきた。もちろん、それがうまく行かなくなった生物もたくさんいて、それらは絶滅した。」

このはっきりとした物言いが私はすごく好き。ひどく小さな、とるにたらない存在に思える(あるいはまるきりその反対に思うこともある)人間にたいして、著者はいちいち絶望したり、感動したりしない。人間を真っすぐに見つめ、問い、正しく理解し、そのうえで読者に説明するのに一番分かりやすい言葉を選んでいる。言葉には説得力があり、人間への愛情すら感じる。

私は自然人類学者ではないので、ヒトについて考えるときにはいつも単純な疑問でつまずいてしまう。ヒトと動物はどこがちがうのだろう、とか、動物よりもヒトのほうが優れていると言われるのはなぜだろう、とか。そんなことでくるくる目を回している私に、著者はぴしゃりと言い放つ。「ヒトは本当に他の動物よりも優れているのだろうか」「『優れている』というのは、特定の価値観の表明だから、科学はヒトが『優れている』とは言わない」と。けれど「これほど短い時間に、地球表面をこれほどの規模で改変した動物はいない」とも。

ヒトの特殊性はいくつもあって、よく引き合いにだされるのが言語と文化だ。犬も牛も羊も言語と文化はもっていない。だからヒトの特殊性は言語と文化にある、という具合に。言語という現象はとても複雑で、まず文法規則を習得し、理解できなくてはいけない。と同時に、そのように表現された世界を他者と共有したいという欲求もなくてはならない。相手の心と自分の心とを重ね合わせてうなずき合いたいという気持ちが重要なのだという。文化ならほかの動物にもある。チンパンジーのなかには、シロアリを釣って食べる集団とクロアリを釣って食べる集団がある。鳥のさえずり声には集団ごとに方言がある。これらは文化によるものだ。ただ、チンパンジーは他者と「心を共有してはいない」と著者は指摘する。だから彼らの文化はとてもゆっくりとしか進まないのだ、と。

著者曰く、人間の特徴とは自分たちの住環境を自らの手で改変していけることにある。「この脳とからだは、自分たちの好みに合うように環境を変え、そうする技術をみんなで共有することで、社会を変えてきた」だが、人間の在り様にたいする問いはこれでは終わらない。そうして変わりつづけてきた社会とは、ほんとうの意味で人間にとって幸せな社会なのだろうか。この本は、たとえ読み終わっても読者を解放なんてしてくれないのだ。

長谷川眞理子『ヒトの原点を考える 進化生物学者の現代社会論100話』東京大学出版会、2023年。


紀衣いおり(文筆家・ライター)

東京生まれ。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。オタゴ大学を経て筑波大学へ。専門は哲学と宗教学。帰国後、雑誌などに寄稿を始める。エッセイ、書評、歴史、アートなどに関する記事を執筆。身体表現を伴うすべてを愛するライターでもある。

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