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母親になって後悔してる|馬場紀衣の読書の森 vol.68

「私たちが日常的に尽力したり苦しんだり気遣ったりする他の多くの役割と同様に、母であることが後悔の感情を呼び起こすかもしれないと認めることには、いまだに消極的だ。母が困難に直面し、それを認識しようがしまいが、母になるのが不幸なことだと感じたり考えたりすることは、期待も許可もされていないのだ」

アンビバレンスだ。母として経験するさまざまな感情の揺れ動きのなかに、相反する感情がいくつもたゆたっている。「母」とは何者なのだろう。おそらく、この問い自体がまちがっている。母とは役割ではなく多様な人間関係の一つであり、関係性のなかで揺れ動きながらバランスをとりつづける主体なのだ。

著者のオルナ・ドーナトは女性が平均3人の子どもを産むというイスラエルの社会学者。彼女は長いあいだ、すべての女性が母親になりたいはずだという暗黙の社会的期待に疑問を呈するべく学術的な活動をしてきた。だからこの本は、そんな彼女の手によって書かれたということにまず大きな意味がある。

「私の関心は、母になった後悔の存在を認識することだけにあるのではない。それでは、社会を責任から解放することになってしまうからだ。もし後悔を、母になることに適応できない女性の失敗だと個人化するなら(それゆえに、そのような女性はもっと努力するべきだというなら)、多くの西洋社会が女性に母になることを熱心に勧めると同時に、その説得に応じた結果としての孤独を受け入れさせようとすることに対して、目をそむけたままになってしまうのだ」

社会には、母になったことを後悔していない母もいれば、母になったことを後悔している母もいて、母であることが価値のある経験だと認識している母もいる。こうした相反する感情はすべて一人の人間が同時に持ちうるものだ。重要なのは、どうすれば母であることの困難を受け入れることができるのか、という問いが、母になることがまちがいだった、という経験と同じと捉えられてしまいがちなことにある。

「私は、女性が母になったことを後悔しない、あるいは後悔できないのだと単純に想定するのではなく、私たちの社会的視野が限られているという前提で、この状況にアプローチしなければならないと考えている。姿を見せたり声を聞かせたりしない、言語化されていないかもしれない何かが存在するのである」

後悔は一種の警鐘でもある、と著者はいう。母になった後悔とは、社会が女性に選ぶことを禁じている他の道が存在することを示している。後悔は選ばなかった道を明るく照らす。社会は女性たちに(あるいは母たちに)、なにを振り返らないように、なにを忘れるように求めているのだろう。そこには生殖をめぐる壮大な駆け引きがある。読み進めていくうちに、この本に対して怒りや悲しみを感じ、異論を唱えたくなるかもしれない。でも、この激しい感情はどこから来るのだろう? 

この本の中心にあるのは、母になることそのものへの問いだ。誤解をおそれずに言えば、人類そのものへの問いでもある。だから、ていねいに読み進めてほしい。自分のうちの「正しさ」と読者は何度も対峙することになるだろう。忘れてはいけないのは、母とはつねに「主体」なのだということ。体、思考、感情、想像力、記憶の所有者は自分であるということ。そして、これらすべてに価値があると自己認識しつづけること。これまで舌先に乗せたまま飲み下すしかなかった母たちの言葉に身を乗り出すようにして読んでしまった。

オルナ・ドーナト母親になって後悔してる鹿田昌美 訳、新潮社、2022年。


紀衣いおり(文筆家・ライター)

東京生まれ。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。オタゴ大学を経て筑波大学へ。専門は哲学と宗教学。帰国後、雑誌などに寄稿を始める。エッセイ、書評、歴史、アートなどに関する記事を執筆。身体表現を伴うすべてを愛するライターでもある。

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