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『絵画は眼でなく脳で見る』|馬場紀衣の読書の森 vol.24

まずは、イタリア・トスカーナはガンバッシ出身の「ろうで肖像をつくる盲目の彫刻家の物語」からはじめたい。美術理論家のロジェ・ド・ピールは、この話をローマで知りあった信頼できる人物から聞いた実話として紹介している。

記述によれば、その知人はローマのジュスティニアーニ宮殿で50歳くらいの熟練した盲目の彫刻家がミネルヴァ像を模刻しているところに遭遇する。「見ていないのに、どうしてそれほど美しいものが作れるのか」そう質問すると、盲目の彫刻家はこう答えた。「何も見えないが、私の目は手の指先にある」

ずいぶんユーモアのある人物だったんですね、と話を終えてしまえないのは、このエピソードが紹介されるときは往々にして、ジュゼペ・デ・リベーラ(Josepe de Ribera 1591-1652)がローマ滞在中に描いた『触覚』という、タイトルのとおり触覚の寓意を表現した絵画がセットになって取りあげられるからだ。カラヴァッジョ派の作風に強い影響を受けた画家の絵には頭部像を抱えた盲目の人が、もう一方の手でそれに触れている様子が描かれる。それが彫刻であることを、手が見て、教えてくれている。手前の卓上には、せいがんしゃなら見ることのできる人物画が置かれている。

「見る」ことに、これほど誠実に向きあっている絵を私はほかに知らない。描かれているのは、人と、頭部像と、人物画のみ。余計なものは一切ない。彫像をなぞる男の手は、聖なる儀式のひと場面のようにも思えて、この絵にはじめて出合ったとき、ああ、これが「見る」ということの本質なのだな、と納得した。ちなみにその絵は、この本のなかに収録されている。

小佐野重利『絵画は眼でなく脳で見る  神経科学による実験美術史』、みすず書房、2022年。


前置きが長くなってしまったけれど、盲目の彫刻家のエピソードの深層を探るには、神経科学の研究が役に立つかもしれない。ハーヴァード大学出身のアミール・アメディとアルヴァロ・パスクアル・レオーネらは、驚くほど写実的な絵を描く先天盲のトルコ人画家の秘密を神経科学的な実験で探った。すると「視覚的発達が欠如していても、触覚情報が形と情景の心的な再現像を作り出す仕組み」に行き当たった。どうやらこれには、脳の可塑性が関わっているらしい。

研究者たちは別な論文で後頭葉の機能に確認されたこの可塑的な変化を説明するのに、二つのメカニズムを想定した。一つは、新しい知覚の関係やシナプスの結合パターンが、視覚喪失に応じて生まれる、まったく新しい刺激伝達経路の可塑的な交差を示すもので、もう一つは、通常の生理学的な発現である。そこでは晴眼者に普通は宿っている機能、もしくは隠ぺいされている機能が視覚喪失によって誘発される。

にわかには信じられない話だけど、すでに存在している連結が迅速な可塑的変化となって、それが補強されることで、新しい神経回路が連結され、確立し、(緩慢ではあるけれど)恒久的な構造変化へと導くのだという。著者によれば、人間の脳は「非常に節約的な器官」らしい。よって、共通の回路の仕組みが使われるということらしいのだが、美術とニューロサイエンス(神経科学)の協働という観点から、ふたたび盲目の彫刻家のエピソードにもどると「私の目は手の指先にある」と語ったあの台詞が、じつは視覚情報処理のための神経細胞回路を使った、一連の機敏な情報処理の結果だったということがわかる。

ミネルヴァ像をまえにした彫刻家の甘美な雰囲気はいったいどこへ、と思わなくもないけれど、これはこれで胸躍る事実だと思う。



紀衣いおり(文筆家・ライター)

東京生まれ。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。オタゴ大学を経て筑波大学へ。専門は哲学と宗教学。帰国後、雑誌などに寄稿を始める。エッセイ、書評、歴史、アートなどに関する記事を執筆。身体表現を伴うすべてを愛するライターでもある。

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