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Q8「そもそもパンク関係者は、なぜナチにこだわったのか?」——『教養としてのパンク・ロック』第12回 by 川崎大助

『教養としてのロック名盤100』『教養としてのロック名曲100』(いずれも光文社新書)でおなじみの川崎大助さんの新連載が始まります。タイトルは「教養としてのパンク・ロック」。いろんな意味で、物議を醸すことは間違いありません。ただ、本連載を最後まで読んでいただければ、ご納得いただけるはずです。

過去の連載はこちら。

第1章:なぜなにパンク・ロック早わかり、10個のFAQ

〈9〉Q8「そもそもパンク関係者は、なぜナチにこだわったのか?」

「親の世代」への反逆

 戦争による影響が大きい、と僕は考える。マルコム・マクラーレンは1946年生まれ。ヴィヴィアン・ウエストウッドは41年生まれ――幼少期の記憶にはっきりと「第二次世界大戦の影」が刻み込まれている世代だ。すさまじい焼け跡だったロンドンやイギリス各地を、身体で覚えている層だ。そして彼らの「親の世代」とは、ナチの空襲に耐え抜いた世代だ。あるいは銃を取って、正面切ってファシズムと戦った世代だった。

 だからこその「ナチ・モチーフ」だったのだ、と僕は思うのだ。平たく言うと、まずは「親の世代」への反逆だ。チャーチルに代表されるような、イギリス保守層における「戦勝国意識」への異議申し立てとしての側面が、強かったのではないか。

 なぜならば、当時「どうあっても、救いようもない」不況および没落の渦中にあるイギリス社会のひずみのなかで、マクラーレンやウエストウッドはもちろん、もっと若い世代であるパンクスたちも、日々無慈悲に振り回され続けているだけの弱い立場だったからだ。つまりはみんな、それぞれに、腹が立っていた。ゆえに支配者層(エスタブリッシュメント)側が「絶対に許すことができない!」と激烈に反応するだろう、おぞましいものの象徴としての「ハーケンクロイツ」へと、突っ走っていったのではないか。「ナチに打ち勝ったとあんたら自画自賛するが、それで、なんかいいことあったのかよ?」という気持ちの表明という裏テーマを秘めて。とくにシド・ヴィシャスの愛用っぷりは、まさにワルガキとして、そのような動機のもとでの着用だったように思える。

 マクラーレンもウエストウッドも、ヴィシャス(57年生まれ)もライドン(56年生まれ)も、全員に共通するのは「親(や、その上の世代)の、イギリスの強者どもをいらいらさせてやりたい!」という心理だったのだろう。そんな願望の成就を目論むときのツールとして採用されたもののひとつが、ハーケンクロイツだった。つまり世代間闘争および階級闘争の道具としての「劇物」だったのだ――というのが僕の見立てだ。

 パンクとは「戦争の子供たち」が始めた芸術様式だったのだ。だから多分に、その身中には戦禍由来の「毒」をも宿してしまっていた、わけだ。

デヴィッド・ボウイの失敗

 もっともマクラーレンらの深慮遠謀以前にも、「ロックとナチ」のやらかしは、あった。パンク時代に直近の例のひとつが、クラッシュの二枚看板のひとり、ミック・ジョーンズが在籍していたパブ・ロック・バンド、ロンドンSSの「名前問題」がある。この「SS」とは、もちろんナチ親衛隊(Schutzstaffel)の略号に見えたからだ(ジョーンズの母はユダヤ人だったのだが)。75年に結成され、76年には姿を消した短命バンドだったのだが、しかしこの名は、小さな物議をかもした。またロンドンSSやその前身/後進バンドには、ジョーンズのほかにも、のちにザ・ダムドやジェネレーションXなど、パンク・シーンで活躍するバンドに参加することになる面々が何人も出たり入ったりしていた。

 もっと大きな波紋を呼んだ例もあった。デヴィッド・ボウイの一発だ。76年5月、彼はロンドンはヴィクトリア駅の外にて、ファンの前でナチス式敬礼をやってしまう。当時のボウイはシン・ホワイト・デューク(痩身蒼白公爵)なるキャラクターを演じていたのだが、これは「狂気の貴族」であり「感情欠如のアーリア人スーパーマン」なのだ、と彼自身によって設定されていた。だからナチやファシズムには理解を示すキャラクターで……ということだったのだが、もちろん世間からは大いに叩かれる。だから同じ5月にボウイは「自分はファシストではありません」と大衆紙デイリー・ミラーの記事中にて釈明。あれは敬礼ではなく、手が動いている途中を写真に撮られただけだったのだ、とか。さらにのちには、より詳細に反省の弁を述べている。当時はドラッグ漬けであり、悪魔信仰を含むオカルトやナチを研究していたがゆえの失敗だった、などと。

 しかし僕は具体的には、この騒動はブレヒト演劇好きのボウイが、ワーグナーやドイツ表現主義に接近し過ぎたせいの勇み足だと考えている。もしくはルキノ・ヴィスコンティ監督の『地獄に堕ちた勇者ども』(69年、同作の英題が The Damned だった)や『ルートヴィヒ』(72年)、あるいはボブ・フォッシー監督『キャバレー』(72年)あたりに影響を受け過ぎたがゆえの、悪しき引用アイデアだったのかもしれない、と。いずれにせよロック界において、彼が「狙ってナチ・シンパを演じる」先駆けとなってしまったことは間違いない。しかもそこに「戦前的な貴族趣味」を濃厚に漂わせていたという点は、重要だ。なぜならばボウイのこの「失敗の形態」にこそ、イギリスにおける貴族とナチとの闇のなかの関係が、象徴的に反映されていたからだ。

英王室とナチの関係

 イギリス王室には、元来、ナチス・ドイツと浅からぬ関係があった。前述の全国民的戦争体験があったにもかかわらず、いや「だからこそ」なのか――ヨーロッパの「闇のなかの最たる闇」は、貴族の、支配者階層間のネットワークのなかに、永遠に抜けない棘を残していた。だからイギリスでは、「ナチねた」が容易に劇物となり得たし、考えが浅いロッカーはそこに飛びついた。マクラーレンたちも利用した。

 英王室とナチの関係、その最大のものは、「王冠を賭けた恋」にて王位から退いたウィンザー公(エドワード8世)だろう。エリザベス女王の伯父である彼とアドルフ・ヒトラー総統との親しい関係は有名だ。第二次大戦中も両者はずっと近しく、ナチが英国を屈服させたあかつきには、王として返り咲かせてもらう密約まであった、というから重症だ。またおそらくはこのウィンザー公のせいで、1933年、7歳前後だったエリザベスと彼女の母がナチス式敬礼をさせられている不名誉な映像まで残っている。女王の夫であるフィリップ王配のほうもナチと縁が深い。彼の姉たちはドイツの王族と結婚し、そのうちの数名がナチ関係者だった。このことは両者の結婚時にも「難点」として取り沙汰されていたほどだ。ゆえに2005年のプライヴェート・パーティーの場におけるヘンリー王子のナチ・コスプレ醜聞は、ただたんに「ナチはまずい」という一般論以上に、扇情的に、英大衆紙にて叩かれることになった。

 英王室だけではなく、そのほかの貴族も、いたるところで似たり寄ったりの関係がナチとのあいだにあった。なかでもリーズデイル男爵ミットフォード家の四女、ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォードは有名だ。ヒトラーを取り巻く美女のひとりだったユニティは、ナチス擁護活動どころか、独英の同盟をも夢想していた。だからイギリスのドイツへの宣戦布告と同時に拳銃自殺を図り、脳に後遺症を抱えたまま、短い生涯の残りを生きた。自殺未遂後にヒトラーの子供をイギリスで産んでいたのではないか、との噂まである。そんなユニティの伝記本は、奇遇にも「アナーキー・イン・ザ・UK」の発売とほぼ同じ76年11月にイギリスで出版され、センセーションを巻き起こした。そしてもちろん、彼女はイギリス・ファシスト連合(BUF)の一員だった。

イギリス・ファシスト連合(BUF)

 BUFは、オズワルド・モズレー準男爵が32年に設立した。保守党から労働党へ転向した大物国会議員でもあった彼の行動は当時大いに耳目を集め、支持者も集めた。もちろんモズレーはムッソリーニやヒトラーと交流したし、党員にはファシストの象徴である黒シャツまで着せた。ユダヤ人排斥運動にも加担した。戦時中は逮捕・拘束されたが、のちに釈放。戦後は政治的には大きなうねりは生み出せなかったものの、執筆活動などにいそしんだ。

 そしてこのモズレーが、エルヴィス・コステロのデビューに関係している。77年にシングル・リリースされたコステロのデビュー曲「レス・ザン・ゼロ」は、モズレーに対する怒りによって生み出されたものだからだ。この当時、BBCによるインタヴューのなかで、モズレーは人種差別的な過去を否定した。30年代の毒まみれのファシズム運動をまるで反省していないかのようだった。そこで腹が立ったコステロは「誹謗中傷ファンタジー」のごとき曲を作った。それが「レス・ザン・ゼロ」だった。同曲では「カギ十字のタトゥーをしたオズワルド氏をお呼びしています/英国式ヴードゥー教には空席あり」なんて歌われる。そして「すべてがゼロ以下の世の中じゃないか」と締められる――こうしたモチーフおよび燃え盛る義憤ゆえ、一躍コステロは批評家の注目を集めることになる。「怒れる若者」の70年代版として。パンクの亜種のひとつ「ニューウェイヴ」の旗手として。

ラモーンズの「ナチ趣味」

 これがアメリカになると、話はもっとシンプルだ。たとえばラモーンズにも、ナチ問題は付いて回っていた。ベースのディーディー・ラモーンとギターのジョニー・ラモーンには「ナチ趣味」があったからだ。ハーケンクロイツを好み、本物のナチ・グッズの蒐集癖まであった。彼らのこうした面は、楽曲にもあらわれた。デビュー曲にして代表曲の筆頭、前述の「ブリッツクリーグ・バップ」のブリッツクリーグ(Blitzkrieg)とはドイツ語の単語で、日本では「電撃戦」と訳される戦争用語だ。機甲部隊の機動能力を生かした戦闘ドクトリンを指し、史上最も有名なのは、もちろんドイツ国防軍のポーランド侵攻ほかの、ナチによる第二次大戦初期の「電撃作戦」だ――というか普通、それしか思い浮かばない。「カミカゼ」から想起されるイメージが一択だというのと同様に。

 この曲で幕を開けたラモーンズのデビュー・アルバムは、クロージング曲もまた「ナチがらみ」だった。「トゥデイ・ユア・ラヴ、トゥモロー・ザ・ワールド」と題されたそのナンバーでは、はっきりとナチに言及されている。「俺はへべれけの突撃兵(Shock Trooper)/俺はナチのかわいこちゃん(Nazi Schatze)。祖国のために戦った」なんて歌われる。そして表題どおりの「今日お前の愛、明日世界!」との連呼で曲が終わる。つまり奇妙な形態のラヴ・ソングのようなものであり、比喩として「ナチねた」が用いられた――のだが、レーベル側はかんかんになって怒った。幾度かの歌詞変更のもとで、ようやく最終的にこの形に落ち着いたという。ソングライターは、ディーディーだった(もちろん「ブリッツクリーグ」の歌詞にナチ趣味を注入したのも、彼だった)。

 ディーディーの父はアメリカ軍人で、母はドイツ人だった。父の赴任により、一家は西ドイツに住む。幼きディーディーは、まだ爆弾の穴がそこらじゅうに残っている当時の西独に暮らした。そして路傍に打ち捨てられていたナチ兵士の装備品を拾い集めては、貯め込んでいた。威圧的な父がいる家庭内でも、いじめっ子がいる外でも、彼は孤独だったからだ。そして両親が離婚したのち、クイーンズに転居してからも、この趣味は持続した。ジョニーの家庭環境も複雑で、やはり暴力を振るう父とのあいだには確執があった。つまり彼らのナチ趣味は「父への反抗」から生じたものだったのでは、と分析されている。

 こうした背景から、ラモーンズがナチ思想にかぶれているわけではない点「だけ」は、かなり早くから理解されていた(が、趣味の悪さは叩かれた)。これらはプラモデル・マニアがナチ・モチーフに凝ってしまうようなものと同等だと見なされた。つまり明らかに「まずいと言えばまずい」趣味なのだが、鉄十字徽章を好むアウトロー系バイカーと同じぐらいの幼稚さでしょう、と世間からはお目こぼしされたとでも言おうか。

 そんな程度で済んだ理由は、ひとつには、この当時のラモーンズ周辺およびアメリカの社会一般的には、前述のイギリスみたいな「ナチやファシズムとの、面倒な腐れ縁」は、さして顕在化してはいなかったからだ。しかしそれらは決して「なかった」わけではない。21世紀のアメリカを見てみれば、よくわかるとおり。

 じつはすでに、70年代中期のこのとき、アメリカでは白人至上主義思想の巨魁、ウィリアム・ルーサー・ピアースが動き始めていた。そしてついに78年には、彼がアンドリュー・マクドナルド名義で記した小説『ターナー日記(The Turner Diaries)』が発行されてしまう。白人至上主義およびネオナチの聖典として崇められる同書は、とくに80年代以降、アンダーグラウンドで読み継がれ、アメリカのみならず世界各地の人種差別主義テロ犯や憎悪犯罪者、その予備軍といった過激思想集団や個人に深刻な影響を与え続けている。

ロック音楽の二面性

 ときにロック音楽は、人間の最も暗い欲望を引き寄せる媒介となることがある。たとえば、チャールズ・マンソンのように。稀代のカルト・リーダーとして連続殺人を犯す集団の上に君臨していた彼と、ビーチ・ボーイズとの近しい関係は有名だ。デニス・ウィルソンと親交を結び、マンソンが書いた曲(Cease to Exist)がデニスのペンによるビーチ・ボーイズの曲「ネヴァー・ラーン・ノット・トゥ・ラヴ」(68年)の元ネタにもなった。ロック音楽は、愛と理想の媒体となり得る。しかしその反作用なのか、ちょうどまったく逆の、邪悪と憎悪、不寛容と破壊のみを生み出す妄念の器とも、容易になり得る。こうした陰陽の二面性を、パンク・ロックにおいて観察してみる際には「ナチ問題」を避けて通ることはできない(そういえば、獄中のマンソンの眉間にもハーケンクロイツが刻まれていた)。 

 とはいえ「70年代中期の段階では」、ナチ問題についてまだアメリカ社会は呑気なものだった。だからプロト・パンクとも見なせるグラム・ロック・バンド、ニューヨーク・ドールズのジョニー・サンダースにもナチ・モチーフ使用癖があったものの、さほどの問題とはならなかった。ラモーンズのこの一面も、ジョニー・ラモーンのコミックブック趣味の延長線上のような、でもちょっと悪趣味なものとして(軽く叩かれつつ)流されてことなきを得た。ヴォーカルのジョーイ・ラモーンと初代ドラマーのトミー・ラモーンがユダヤ人だったことも、影響した。ハンガリーで生まれたトミーの両親は、ホロコースト生存者だった。「ブリッツクリーグ」の原型を作ったのはトミーだったし、彼こそが初期ラモーンズの「設計者」だったとよく言われる。ゆえに、ナチがらみのこの混乱もまたラモーンズの持ち味のひとつであり、アメリカン・パンク・ロックの典型のひとつでもあった。

「ノー・ホロコースト、ノー・パンク」

 ラモーンズの「地元」であるフォレスト・ヒルズは中産階級のユダヤ人が多い地区だった(そこではカトリック系のジョニーやディーディーのようなバックグラウンドの者のほうが少数派だった)。またニューヨークのパンク・シーン全体を見渡しても、ユダヤ系人士は数多く活躍していた。そんなところから「ノー・ホロコースト、ノー・パンク」とまで言い切っている意見すらある(Steven Lee Beeber 'The Heebie-Jeebies at CBGB's: A Secret History of Jewish Punk' / Chicago Review Press / 2008 より)。

 同書によると、パンク・ロックのなかに抜き差し難く存在する荒涼、そして怒りは、ヒトラーによる史上稀に見る残虐行為に対しての「遅すぎた心理的反応」だと見なせるのだという。それゆえに初期ニューヨーク・パンクスの多くは、スタンダップ・コメディアンのレニー・ブルースによって過激に発展させられたユダヤ人的な激辛サタイアに大きな影響を受けていたし、同時にまた、ナチスに強い関心を抱いてもいたのだ、と。

【今週の3曲と映像2つ】

David Bowie - Word On A Wing - Vancouver 1976 (remastered)

シン・ホワイト・デューク姿の映像はボウイの正式発表作品のなかには多くない。こちらは76年、カナダはヴァンクーヴァー公演リハーサルからのフッテージ。この短髪、白シャツ、黒ヴェストのいで立ちが基本形だった。

1969 The Damned Official Trailer 1 Italnoleggio Cinematografico

70年代の耽美系ナチ趣味流行のアイデア元のひとつと見なされている、ヴィスコンティ監督による映画『地獄に堕ちた勇者ども』のトレイラーがこちら。この背徳と闇の深さにボウイたちは吸引されていった。 

Images show Queen as child giving Nazi salute

幼きエリザベス王女も、何十年もあとでこんなふうにイギリス大衆紙に叩かれた。ザ・サンの報道を追ったCNNニュースより。 

Elvis Costello - Less Than Zero (Static Video)

若きエルヴィス・コステロによる反ファシズム怒りの鉄拳的一発が、このデビュー曲だった。

 Today Your Love, Tomorrow the World (Uncensored Vocals)

このナンバーが、ラモーンズのデビュー・アルバムのクロージング曲となった。混乱と情緒の1曲。

(次週に続く)

川崎大助(かわさきだいすけ)
1965年生まれ。作家。88年、音楽雑誌「ロッキング・オン」にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌「米国音楽」を創刊。執筆のほか、編集やデザイン、DJ、レコード・プロデュースもおこなう。著書に長篇小説『東京フールズゴールド』(河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)、『教養としてのロック名盤ベスト100』『教養としてのロック名盤ベスト100』(ともに光文社新書)、評伝『僕と魚のブルーズ ~評伝フィッシュマンズ』(イースト・プレス)、訳書に『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生 ~The Great Pretender』(光文社)がある。
Twitterは@dsk_kawasaki


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