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『肉食の終わり』|馬場紀衣の読書の森 vol.20

はじめに断っておくと、この本は畜産の問題に関する本ではない。畜産が社会に与える害悪や問題(国家経済・食料供給・自然環境……)について詳しく解説する、というのではなく、問題を具体的に解決するための方法を説いた本である。社会運動家たちによる成功例を概観しながら、歴史学、心理学、マーケティングなどの分野による証拠をもとに、取り組みの分析がおこなわれる。目的は、世界のモラルを正義へと向かわせること。著者の目は、畜産の、明るい未来に注がれている。

まずは畜産の事実。いま世界では1000億匹以上の動物が畜産利用されている。これは人間の10倍を超える数で、アメリカでは99%の動物が産業化した大規模な工場で飼われている。動物にも喜びや悲しみを感じる情感が備わっている、というのが最近の科学的な見解で、とするなら、狭い檻での集約監禁、屠殺処理、感染症の可能性にさらされて暮らす生きものをたんなる家畜のシステムに組みこむことはできない。でも、卵を買うことのいったいなにが悪いのだろう。

心理学者は人が肉を食べる理由をおおまかに4つに分類する。ほとんどの人は肉食者だから肉食は「普通」とする考え。肉食は健康のために「必要」という意見。現在の栄養・保健機関は、畜産物の消費を減らすことは、むしろ健康に良いとしている。美味しい肉は「至福」を与えてくれるけれど、肉を食べる快楽は美味しい非動物性食品に置き換えることが可能だ、と著者は指摘する。

人類は何万年も肉を食べてきたから、それが当たり前だとの考えには、こう答えることができるかもしれない。肉食はたしかに「普通」で「自然」な行いかもしれないが、もし私たちが祖先の食文化に合わせるなら、畜産の規模は大幅に縮小する必要がある。現代人は、明らかに食べ過ぎているのだ。


ジェイシー・リース『肉食の終わり 非動物性食品システム実現へのロードマップ』井上太一 訳、原書房、2021年。

人間の技術によってもたらされた非動物性食品こそ自然ではない、との考えもある。そういう意味では、現代食品はそもそも自然ではない。作物はおびただしい量の薬品で育てられるし、バナナもトウモロコシも自然界のそれと同じとはいえない。肉用の鶏は1960年代の鶏の4倍以上の大きさだ。気にするしないにかかわらず、スーパーマーケットの棚は「不自然」な食品で埋めつくされている。それなら肉を食べる人たちは、見たこともない、食べなれていない食べものを、(生き残りに役立つ知恵として)本能的に避けているだけなのだろうか。

議論はまだある。工場式畜産は悪だが、一部の畜産物は人道的農場で大切に扱われて幸せに生きているのだから、そうした農場の畜産物を食べれば良い、という主張だ。これに対して著者は、「食の改革者は基本的に工場式畜産だけでなくあらゆる畜産に反対すべき」という立場をとる。種を問わず、情感ある存在を搾取することは本質的にまちがっているし、動物たちは人道的な農場でも大きな苦しみを負っている。たとえその農場が倫理的だったとしても、それを食べて応援すれば畜産場をも応援することになってしまうからだ。

非動物性食品の普及が畜産利用される動物への配慮と結び付くなら、それは政治的に無力な情感ある生きものたち、将来ひどい扱いを受けるおそれが最も大きな生きものたちの大規模な苦しみに意識が向けられた主要な前例となる。
しかし代わりに、畜産の撤退が環境や人の健康といった別の動機のみに結び付けられたとしたら、それはそうした問題への関心が高まった前例になる。

制度を変革すべきと訴える声が強すぎるようにも思えるけれど、著者の思想に賛同できるかはべつにして、社会がすでに非動物性食品へと向かって動き出している事実を詳細に記している点は、本書の最大の特色だと思う。ただ、欧米圏の動物愛護論者や畜産物と消費者の構造を日本の歴史的現実と重ねるとなると、疑問もうかんでくる。とはいえ遠い未来、あるいは近い将来を今よりも良いものにできるかどうかは人間の価値観と、それを形にできる人類の能力にかかっていることは、まちがいない。



紀衣いおり(文筆家・ライター)

東京生まれ。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。オタゴ大学を経て筑波大学へ。専門は哲学と宗教学。帰国後、雑誌などに寄稿を始める。エッセイ、書評、歴史、アートなどに関する記事を執筆。身体表現を伴うすべてを愛するライターでもある。

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