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編集者と一般読者の温度差はなぜ生じるのか?――エンタメ小説家の失敗学25 by平山瑞穂

過去の連載はこちら。

平山さんの最新刊です。

第5章 「編集者受け」を盲信してはならない Ⅱ

スピンオフ作品誕生

 その余勢を駆って、二年後にはスピンオフ作品、『有村ちさとによると世界は』まで刊行される運びとなったことには、誰よりも僕自身が驚いていたと思う。

 西村京太郎の十津川警部シリーズ、東野圭吾のガリレオシリーズなどの名を出すまでもなく、キャラクターの魅力だけで読者を引っ張っていける登場人物を創出し、基本設定を引き継ぎながら無限に連作を編み出していけるようなスタンスを獲得することは、エンタメ小説家にとっては大きな勝利となる。当該のシリーズを書き継ぐだけで、一定の読者の関心を引き寄せつづけ、作家としての安定した地位をキープすることができるからだ。

 しかし僕は、そうした創作のスタイルは自分にはなじまないと思っていた。物語はひとつひとつが「閉じた系」をなすべきであり、一度登場した人物が、別の作品にも当然のように顔を出すのは、どこかズルをしているような感覚が否めないと思っていたからだ。

 ただ、有村ちさとに関しては、僕も愛着や思い入れが強く、実際にスピンオフを書いてみると、楽しくてしかたがなかった。雑誌『J- Novel』に連作の形で掲載されたこの作品は、本編とは違って、ちさとの周辺の人物(父親や妹、かつての上司など)にフォーカスを当てた物語ではあったが、各篇の冒頭に必ずちさとが登場し、おなじみの一人称の語り口で、主人公となる人物についてひとくさり論評するという形式を取っていた。ちさとの「語り」こそが求められているということを意識した結果だった。

「シリーズ物」と呼びうる作品を僕が手がけたのは、あとにも先にもこのときだけだ。

編集者と一般読者の温度差

 それほど愛された有村ちさとだが、では、作品としての売れ行きがどうであったかというと、『プロトコル』にせよ、スピンオフの『有村ちさとによると世界は』にせよ、惨憺たるものだった。問題はそこなのだ。作家としての僕に多くの仕事の機会をもたらしてくれた二大巨頭と言っていい『ラス・マンチャス通信』と『プロトコル』は、ともに作品としてはちっとも売れていないのである。

 ここに僕は、プロフェッショナルな人々(文芸書の編集者や書評家など)と一般読者との間に横たわる温度差のようなものを感じずにはいられない。それこそが、この章のテーマだ。

 これは必ずしも、文字どおりの「失敗」というわけではない。現に、『ラス・マンチャス通信』にせよ、『プロトコル』にせよ、その後、いくつもの作品を世に放つことになるきっかけとしては、十分すぎるほどの役割を果たしてくれているのだ。しかし、編集者などから与えられるその評価が、一般読者との間で必ずしも共有されているわけではないという点には、注意を払っておく必要がある。

 担当編集者が作家に向けてくる作品の評価などには、そもそも一定量のリップサービスが含まれていると考えるべきだ。担当している作家を持ち上げてやる気を出させることも、彼らの重要な使命のひとつだからだ。しかし、経験を積んでいくほどに、それが単なるおべんちゃらなのか、それとも心の底からの賛辞なのかには、おのずと見分けがつくようになっていくものである。

 その中で、「これは本当に褒めてくれているな」と感じられるなら、作家としては、「だったら自信を持っていいはずだ。いやしくもその道のプロである編集者が“おもしろい”と言ってくれているのだから」と、お墨つきをもらったような気持ちになるのも道理だろう。『プロトコル』に関しても、僕はそれをはっきりと感じていた。ところが実際には、彼ら・彼女らの評価は、思いのほかあてにならないものなのだ。

 どうしてそのようなことが起きるのか。仮にもプロである編集者が、(あくまで「売れるかどうか」という文脈に沿ったことではあるが)なぜそのような読みまちがいを犯すのか。その理由は、なんとなくはわかっている。

性格に一定の屈折を抱えている?

 編集者、それも文芸書を担当している人々の多くは、もともと小説を読むのが好きで、本好きが嵩じてその職を選んでいることが多いと思う。もちろん、特に総合出版を旗印としているような大手出版社の場合は、本当はコミックの、あるいはビジネス書の編集をやりたかったのに、望まずして文芸書の部署に配属されているといったケースもあるだろうが、僕が知るかぎり、ほとんどの場合、文芸書の編集者は、もともと小説好きだ。

 当然、小説の読み手としても熟練しているし、多様な作品からその作品固有の魅力を的確に見出して賞翫することにも長けている。一風変わったところのある作品でも、むしろその一風変わっている点をこそ、長所と捉えておもしろがったりもする。

 また、これはやや偏見じみた物言いになってしまうのだが、意識的に小説を読み込んでいるような人々は、性格に一定の屈折を抱えていることが多いのではないかと僕は見立てている。ものごとを斜に構えて見たり、大勢がよしとする視点になんらかの猜疑心を向け、別の角度から光を当てたりする、どこかあまのじゃくなところがあるのだ。

 しかし一般の読者は、必ずしもそうではない。彼らが求めているのは、変にねじくれたところのない直球のラブストーリーや、最後には悪役が懲らしめられてスカッとする物語、あるいは犯行をめぐる謎が鮮やかに解き明かされる、出来のいいミステリーの類なのかもしれない。「売れた本」の場合、その傾向は、とりわけ鮮明に現れるはずだ。ふだんはあまり本を読まない層まで取り込んでこそ、その本は「売れる」のだ。

 文芸書の編集者と一般読者との間の温度差――受けとめ方の乖離は、そこに発生する。

 有村ちさとは、ひとことで言ってしまえば「変わり者」だ。やや偏狭なところがあるし、文字列への執着の仕方などは、見る人が見れば病的で気味の悪い性向にしか見えないかもしれない。そういう主人公には「共感」できないし、感情移入もできないという読者も、少なくないだろう(この「共感」という問題をめぐっては、第7章であらためて論じることになる)。

 もちろん、ネット上のレビューなどを見れば、編集者や先に挙げた書評家などとほぼ同じ視点で、ちさとのキャラクターを気に入り、スピンオフである『有村ちさとによると世界は』で再びそれを堪能できたことを喜んでくれている読者も、一定量はいることがわかる。しかし、それが一般読者の中で多数派を占めているとは、お世辞にもいえないのが現状だ。

 こうしたことがほかにも何度かあって、僕は次第に、担当編集者が「おもしろいです!」といくら本気で褒めてくれているからといって、それをあまりに真に受けるのはどうか、と一定の留保を加えるようになっていった。ある種の人々から見ておもしろいのは事実だとしても、一般読者もそれを同じように受けとめるとはかぎらないということだ。(続く)


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