「ISの人質」を救出した、MASTERキートンばりの辣腕コンサル。
光文社新書編集部の三宅です。上の記事の続きです。
名作コミック「MASTERキートン」(浦沢直樹、脚本:勝鹿北星/長崎尚志)に「交渉人のルール」というエピソードがあります。ロイズ保険組合の調査員(オプ)として働くキートンが、誘拐交渉人として活躍します。初出は30年ほど前ですが、今読んでも全く古びていません。そのエピソードの中でキートンが言うセリフをいくつか紹介しましょう。
「アマチュアは、恐怖心から人質を殺害するが、プロはビジネスです。商品は傷つけず、金だけを取る」
「我々の戦略は奇妙に思われるかもしれませんが……誘拐犯人との間にも、信頼関係を形づくることです」
「これは正札のない、アラブのような国の取引と同じです。ルールはないようで実は存在する……犯人がプロなら、それを知っているはずです」
ISがプロかどうかは別にして、当時大学生だった私は、これらのセリフにたいへん感銘を受けました。人生にとって大切なことは「MASTERキートン」に教わったといっても過言ではありません。
このキートンのような人物がリアルに登場するのが、映画『ある人質』と原作本の『ISの人質』です。
映画『ある人質』のキャッチコピーに「ISから息子を救出した家族の奇跡の実話」とありますが、家族に的確なアドバイスを送り続け、犯人側と接触して身代金を渡す役目までを果たしたのはアートゥアという人物。実在の人物ですが、その仕事柄、映画でも原作でも仮名です。職業は、保安が専門のコンサルティング会社のオーナー。彼の活躍のお陰で、囚われのダニエルは解放され、家族と398日ぶりに対面を果たすことができたのでした。
ちなみに、映画でアートゥア役を務めたアナス・W・ベアテルセンは、本作の共同監督も務めています。彼が本作の映画化をニールス・アルデン・オプレヴ監督に持ち掛け、企画がスタートしたそうです。
本記事では、原作本から身代金の受け渡し場面を含む、アートゥアの働きが目立つ部分を抜き書きで紹介します。
本書の主な登場人物
ダニエル・リュー…写真家。元デンマーク代表体操選手。シリアで拘束される
アートゥア…保安が専門のコンサルティング会社のオーナー
ヤン・グラルップ…ベテラン戦場記者・報道写真家
スサネ・リュー…ダニエルの母親
ケル・リュー…ダニエルの義理の父親
アニタ・リュー…ダニエルの姉
クリスティーナ・リュー…ダニエルの妹
シーネ…ダニエルの恋人
【人質たち】
ジェームズ(ジム)・フォーリー…アメリカ人、フリージャーナリスト
ピエール・トレス…フランス人、フリージャーナリスト
ジョン・キャントリー…イギリス人、ジャーナリスト
カイラ・ミューラー…アメリカ人、人道支援活動家
【IS関係者】
アブ・バクル・アル・バグダディ…ISの指導者
アブ・アシール…ムジャヒディン・シューラ評議会の指導者。ISに合流
アブ・フラヤ…拷問人。アブ・アシールの部下
アブ・スハイブ・アル・イラク…元イラクの軍人。ISの有力者
アブ・ウバイダ・アル・マグリビー…オランダ出身のISの有力者
ジハーディ・ジョン…ISのイギリス人戦闘員
イェユン・ボンティンク…ISのベルギー人戦闘員
『ISの人質』第11章「お母さん、ダニエルだよ」より
六月一一日、ビートルズ(注:英国出身のIS「処刑部隊」のメンバー4人につけられたあだ名)が木製の扉を激しく叩くと、人質たちは一斉に壁を向いた。イギリス人番兵たちは、人質のあばらを拳で殴りながら歩き回っていたが、やがてジョージ(注:上記「ビートルズ」のメンバーの1人のあだ名)がダニエルのところに来て立ち止まると、鼻をつまみながらこう尋ねた。
「おまえがデンマーク野郎か?」
「そうです」
「質問がある」ジョージが言った。
ダニエルの体に緊張が走った。自分が帰れるかどうかがこれでわかる。
「おまえが使っていた車を買ったのは誰だ?」
ダニエルにとって、これほど答えたい質問はなかった。ダニエルが使っていた車は、言うまでもなく青リンゴ色だった。それは緑、すなわち自由の色だ。
「両親です」
「この紙にその車のことを書け。いくらで売ったんだ?」
「三万五〇〇〇クローネ、だいたい五〇〇〇ユーロです」とダニエルが答える。
「ひどい野郎だな。自分の家族に車を売ったのか?」
ダニエルは、その車を二〇〇七年に一一万クローネで買ったこと、〇・八リッターエンジンのシボレー・マティスの新車だったこと、バックミラーにデンマーク選手権のメダルをぶら下げていたこと、青リンゴ色であることを紙に記した。
「よし」ジョージが言った。「ダニエル、帰れるぞ」
ほかの解放された人質に対して、ビートルズは直接そんなことを言ったことがない。ほっとしていたダニエルは、瞬く間に不安になった。もしや彼らは、緑、赤、黄の暗号を知っているのではないか? ピエールを拷問にかけ、何もかも聞き出したのではないか?
ビートルズが去ると、ダニエルはほかの人質たちのほうを見た。みな、青リンゴ色の車の暗号を知っている。彼らの顔からは不安がにじみ出ていた。彼らも解放だけを望んでいる。その事実は隠しようがなかった。
それでも全員がダニエルをハグしてくれた。
「ついにやったな」みなそう言ってくれたが、ダニエルは素直にそう思えなかった。自分が生きてこの部屋を去る最後の人間になるのではないかと思うと耐えられない。
「ぼくがここから出たときに伝えてほしいことがあれば、言ってくれ」ダニエルが言った。
すると、ジェームズ(・フォーリー)が立ち上がった。しかしダニエルに温かいハグをするだけで、ほかのアメリカ人のところへ帰っていく。誰も何も言わなかった。
同じ二〇一四年六月一一日の午後三時になろうとするころ、ダニエルの生存を確認するための質問に対する答えが、家族のもとに返ってきた。
「二〇〇七年製、〇・八リッターの青リンゴ色のシボレーを、両親がダニエルから三万五〇〇〇クローネで買った」犯人はそう記し、身代金がトルコ南部のどこにあるのか具体的に教えるよう要求していた。
スサネは、あの車についてダニエルが返した細かい回答に、うれしい驚きを感じた。
「緑の車のメッセージがわかったんだ!」スサネはケルに興奮気味にそう言うと、その日の日記に、ダニエルに宛ててこう記した。「こちらの質問に几帳面に答えてくれたね」
それ以降は、スサネやケルを間に置かず、アートゥアがメールのやり取りを引き継いだ。ダニエルを連れて帰れるかどうかはアートゥアにかかっていた。
六月一一日の夜遅く、身代金の引き渡しに関する最初の指示が来た。
「すぐにキリスに向かえ」
翌日の午後四時、あるいは遅くとも夕方までにキリスに行けという。また、絶えずメールをチェックし(「一分ごとに」と記されていた)、最後の指示を送るまでに黄色のタクシーを確保しておけと命じていた。
身代金を運ぶ方法についても指示があった。チャックに南京錠のついた、つや消しの黒の丈夫なリュックサックに入れろという。
誘拐事件の身代金の引き渡しにもともと一定のパターンなど存在しないが、アートゥアにしてもこのような経験は初めてだった。条件はISISから一方的に来る。アートゥアは、自分がきわめて弱い立場にあると思った。引き渡し時のリスクを考えていたらきりがないので、数えあげるのをやめた。
アートゥアはパイプに火をつけた。そしてよく考えた末、重大な結果を招くかもしれないが、一点だけ犯人の指示に従わないことに決めた。
英語も話せず、何も知らないタクシーの運転手に移動を任せるのではなく、白い四輪駆動車をレンタルし、自分で運転することにしたのだ。二〇〇万ユーロを引き渡す際に、ほかの人間を危険にさらしたくなかった。
それに、タクシー運転手が怯え、警察に連絡する可能性も考えられる。運転手はきっと、たばこばかり吸っている見知らぬ外人を後部座席に乗せ、国境沿いのうら寂れた道路に車を停めることになるだろう。そのような状況では、その外人が自爆でもするのではないか、あるいは自分を誘拐しようとしているのではないかと考えてもおかしくない。アートゥアには、行き当たりばったりの人に自分の状況を説明する自信がなかった。ほかのことはテロ組織の言うとおりにしたとしても、少なくとも車については自分の思いどおりにしたかった。
六月一二日の午後四時五〇分、犯人からさらなる指示があった。車でキリスから東へ向かい、エルベイリという町へ行けという。
「国境からこの町へ入る入り口に、「ホシュゲルディン(ようこそ)」と書かれた看板がある。もうかすれて読みにくいかもしれないが、その看板が待ち合わせ場所だ。そこで待ち、現金を渡せ」
八時三〇分までには到着し、遅くとも一〇時三〇分まではそこで待つ。そして誰かが来て「タークセル(訳注:トルコの携帯電話会社)」と言ってきたら、「ボーダフォン」と返す。そういう指示だった。
アートゥアは一時間あまり待ってから、確認のため指示を几帳面に繰り返した返事を書くと、そこにこうつけ加えた。
「意思疎通ができ、細かい指示を出せるタクシー運転手が見つかりませんでした。そのため私一人で、白い四輪駆動のレンタカーで行く許可をいただければと思います」そして、車のナンバーも記しておいた。
アートゥアは、最後にもう一度リュックサックの現金とGPSを確認した。唯一の生命線であるGPSは、オールボーの指令室に一分ごとにデータを送信しており、この指令室は、待ち合わせ場所から三キロメートルほどのところで待機している支援チームと連絡している。チームは、突然の非常事態にも対処できる医師を確保しており、アートゥアが国境を越えてシリアに連れていかれそうになれば、即座に警報を鳴らすことになっていた。
アートゥアは一〇キロメートルほど車を走らせてエルベイリに着くと、この小さな町を通り抜け、国境近くに立つ例の看板にたどり着いた。街灯は一つもない。やや離れた町の明かりしか見えない。
キリスの街のほうに向けて車を停めると、エンジンを切り、暗闇の中を徒歩で歩いてくる人がいても気づけるように窓を下ろした。バックミラーには、国境のフェンスと草木が多少見えるだけだ。
アートゥアはパイプをくゆらせ、逃走する場合のルートを考えた。路肩には町まで溝が伸びており、そこに飛び込むことも可能だが、身を隠さなければならなくなった場合、いちばん近くの家まではかなりの距離がある。だが、事前に衛星写真でこの地域を調べ、地形は頭の中に入っていた。
静けさを破るのはセミの鳴き声だけだった。アートゥアはパイプにたばこを詰めながら待った。暗闇の中から最初に音を立てて現れたのは、トラクターだった。無灯火で走り去っていく。
「トルコの農民が家に帰るところなのだろう」とアートゥアは思った。次に来た車はライトをつけていた。国境から帰還するトルコ兵を乗せた兵員輸送装甲車だ。アートゥアは移動するよう命じられた場合に備え、小便がしたくなったとかエンストを起こしたとか、いくつか言い訳を用意しておいた。自分でも、こんなところに停車していれば奇妙に見えると思ったからだ。装甲車はスピードを落として近づいてきた。だが、兵士たちがアートゥアのほうを見つめていただけで、そのまま通り過ぎていった。
続いて、無灯火のオートバイが静寂を引き裂くように猛スピードで国境のほうから現れたが、やはりエルベイリ方面へ走り抜けていった。難民の一団が暗闇の中を徒歩でやって来て、車の中をのぞき込んではゆっくりと離れていく。
すると突然、また先ほどのオートバイの音が聞こえた。そして、車から三メートルほどのところで停まった。男が二人乗っている。二人とも頭から爪先まで黒ずくめで、顔も黒い目出し帽で覆っている。武器を持っているようだ。エンジンをかけた状態のまま、運転手の後ろに座っていた男が降りてくる。アートゥアは車の扉を開けて外に出た。袖をまくり上げて手と腕を相手にはっきり見せ、武器を持っていないことを示しながら、二人のほうへ数歩近づく。
「アッサラーム・アライクム」アートゥアが挨拶する。
「ワライクム・アッサラーム」オートバイから降りてきた男が答える。身長は一八〇センチメートルほどで、広い胸板を黒いチュニックで覆っている。
「タークセル」男が続けた。
「ボーダフォン」
アートゥアはそう言うと、ゆっくりと車の窓に手を突っ込み、助手席の後ろの床に置いてあったリュックサックを引っ張り上げた。そして、身代金を手に持ってISISの戦闘員のほうへ歩いていき、かばんを手渡した。戦闘員はしばらく、二〇〇万ユーロの重さがあるかどうか確かめるようにかばんを持ち上げていた。
アートゥアが、取り引きが終わったことを示すように片手を差し出すと、相手は痛くなるほど力強くその手を握り返してきた。二人は目を見交わし、うなずき合った。アートゥアは、互いに相手を品定めし、取り引きを認め合ったような気がした。
男がかばんを背負ってオートバイの後ろに乗ると、オートバイはエンジンをふかし、国境のほうへ姿を消した。
アートゥアは一分ほどそのまま二人が見えなくなるのを見守った後、静かに車に戻り、エルベイリへ向かった。支援チームには「任務完了」のメールを送った。
スサネのメールアドレスで犯人にもメールを書き、オートバイの男に身代金を渡したと伝えた。
「指定どおりの合い言葉を伝え、代理の方と取引成功の握手を交わしました。とても力強い握手でした」そして、ダニエルが国境を越える場所や日時について指示を求めた。
アニタは、大きなかばんに荷物を詰め始めた。危機心理学者と話をして以来、ダニエルが解放されたときに欲しがりそうなものをいろいろと集めていた。何よりも必要なのは、視界をはっきりさせる眼鏡だった。だが眼鏡は、すでにアートゥアにトルコへ持っていってもらっていた。
アニタは、ダニエルの洗面ポーチに、高級なボディスクラブやスクラブ用手袋、シャンプー、ローション、かみそり、シェービングクリーム、爪切り、フェイスパック、下痢の薬などを入れた。
また、スサネと棚を物色していると、ダニエルが使っていたビルケンシュトックのサンダルや運動靴を見つけた。アニタは以前、人間は足を介して記憶するという話を聞いたことがあったため、ダニエルには見覚えのある履き慣れたものを履いてほしかった。衣服ももちろん忘れなかった。スサネが買ってきたハート柄のボクサーパンツも入れた。そのほか、新しい携帯電話、ダニエルが大好きだったリコリス菓子、友人や近親者から集めたメッセージや写真も持っていくことにした。
身代金を渡してから三日後の六月一五日、アニタは危機心理学者とともにトルコの街ガズィアンテプへ飛んだ。飛行機が着陸の準備をしている間、アニタはシリアのほうを食い入るように見つめ、ダニエルが拘束されている建物が見えないかと思った。
二人は、外務省の代表がすでに到着しているホテルに落ち着いた。
ホテルは、古い城のような装飾が施され、ロマンチックな雰囲気があった。しかし危機心理学者に言わせると、この美しい建物も、人質生活から解放されたばかりの人間を泊めるにはいくつか問題があった。エントランスの壁には古い弾痕がいくつもあり、部屋は狭く、窓には鉄格子がはまっていて薄暗かった。アニタにあてがわれた部屋も、石壁がむき出しになっていて小さい窓が一つしかなく、まるで洞穴のようだった。危機心理学者は、そこにダニエルを泊めるのはよくないのではないかと考えた。
二人は新婚夫婦用の部屋も見せてもらった。こちらは、壁や家具が金色に塗られおり、やはり適切とは言えない。自由の身になった最初の夜を、新婚夫婦が使うベッドで姉と過ごすというのは考えものだった。結局、大きな窓がある広々とした角部屋ならとりあえず大丈夫だろうと考え、アニタはその部屋で荷ほどきをした。
ありとあらゆることが細部に至るまで計画されていた。外務省の代表がダニエルを出迎えている間は、アニタは隣接する部屋で待つことになっていた。また、アニタは危機心理学者と相談し、ダニエルがシーネについて尋ねてきたときに言うことも決めていた。
アニタは近ごろ、シーネが疎遠になったように感じていた。電話をしてもほとんど出ない。シーネはもはや、ダニエルの帰国を待っていないのかもしれない。きっと自分の人生を前へ進めていきたいと思ったのだろう。
トルコ・シリア国境に配置されている国境警備隊は、金髪のデンマーク人を見かけたらアートゥアに連絡するよう指示されていた。アートゥア自身もダニエルを見つけようと、何日も国境沿いを行き来していたが、今のところ何もなかった。
こうして数日が過ぎた。アニタは、室内の日なたに座り、募金を管理したり編みものをしたりして、最初の数日間は弟が国境を越えるのを辛抱強く待っていた。しかしやがて不安が押し寄せてきた。ダニエルは、さしあたり解放される最後の人質だと思われる。これが最後の取引となれば、ISISがダニエルの解放を拒否するおそれもある。アニタたちは一度ならずそんなことを考えた。
アートゥアが犯人に何度かメールを送り、ダニエルのことを尋ねたが、返信は一切なかった。
ダニエルは、不安や悪夢に眠りを妨害され、頭も体も重いまま毎朝目を覚ました。人質は通例、午前中に解放されるが、ビートルズはダニエルに何も言わなかった。
家に帰れると勝手に思っていただけで本当は帰れないのでは。心の声がそう言う。
これまでに解放された人質の大半は、最後の質問をされてから二日後か三日後、あるいは四日後に解放されている。だが中には、八日待たされた人質もいる。ダニエルは最後の質問からまだ三日しか経っていなかったが、それも気休めにはならなかった。
ダニエルはアランとデヴィッドのそばへ行って座った。
「外に出られたら、きみの子供たちにお父さんは立派だったと言うよ」
「きみこそ立派だよ、ダニエル。ぼくらに運動を教えてくれた」また、ダニエルが当初受けた拷問からここまで立ち直ったことが信じられないとも述べた。
そして互いにハグし合った。ダニエルは、いつ何時連れ出されるかわからなかったため、その前に残りの七人の人質にお別れを言っておきたかった。
ダニエルが青リンゴ色の車の質問を受けてから四日後、ビートルズがトーニに質問をした。ダニエルは気落ちし、いっそう不安を募らせた。このドイツ人のほうが先に解放されそうな気がしたからだ。
時間はのろのろと過ぎていった。夜もそうだ。横になっても眠れず、暗闇の中をじっと見つめているだけで、夜明け前には床から出た。
六月一七日の朝はジェームズも早くから起きていた。彼はダニエルのもとへやって来て座り、その膝に手を置いた。
「心を強く持て。心配するな。何もかもうまくいく。たぶん、すぐにあいつらがやって来る。そうしたらきみはもう自由だ」ジェームズが優しく言う。
ダニエルは、ジェームズの心の強さがいまだ衰えていないことを知り、どこからそんな力が湧いてくるのだろうかと思った。自分やトーニだけでなく、ここにいる全員が解放されることを心から望まないではいられなかった。
ジェームズはやがて部屋の隅の自分の寝場所へ戻っていった。すると間もなくビートルズが扉を叩いた。全員がコンクリートの壁から一〇センチメートルほどのところにひざまずき、顔を壁に向けて手を頭の上に置いた。ダニエルはこのとき、ここで自分が殺されるか解放されるかが決まると思った。
ビートルズはダニエルとトーニに、振り返るよう命じた。ダニエルが振り返ると、目の前に見たことのない女が立っている。カイラと同じ部屋に拘束されているもう一人の女に違いない。
ベールを上げた女の顔は、自分より少し年上に見えた。
「この女が生きていると断言できるな?」ビートルズが尋ねる。
「はい」ダニエルが答えた。
ビートルズが女に、メッセージを伝えるよう命令した。
「急いでお金を払い、言われたとおりにしてと伝えてください」
女はそう言うと、紙に身代金の額を書かされた。女があまりにおどおどしていたため、ダニエルは相手を落ち着かせようと、家族に伝えたいことがほかにないか尋ねた。
「ええ。愛していると伝えて」
「ほかに言いたいことは?」ビートルズの一人が苛立たしげに尋ねる。
「いえ」
やがて女は部屋から姿を消した。
ダニエル自身も、とうとう部屋から連れ出されることになった。だがビートルズからは何の言葉もない。ダニエルとトーニは、突然頭に毛布を被せられ、後ろ手に手錠をかけられると、強く一押しされ、部屋の外に連れていかれた。
二人は車の後部座席に押し込まれた。ビートルズ三人全員が同乗し、ジョージが車を発車させる。人質二人は、外から見られないように身を屈めていろと命じられた。
「おれたちについて知っていることを言え」ジョージが前から言う。
「イギリス出身で、ジハードのためにここに来ました」ダニエルが答えた。
「ビートルズというのは誰だ?」
「あなたがたのことです」またダニエルが言う。
ジョージは、ビートルズについて書かれたメモを見つけたと語った。おそらく、ダニエルらが女の人質たちとトイレで交換していたメモのことだろう。
「ビートルズについて何を知っている?」そう尋ねられてダニエルとトーニは、彼ら三人の本名を知らなかったのでジョン、ジョージ、リンゴと呼んでいたと告げた。
尋問はそれで終わった。一時間後、ビートルズは車を路肩に停め、別の車に移った。ダニエルがビートルズを直接見たのはそれが最後だった。しかし二か月後、そのうちの一人の姿を動画で目撃することになる。(了)
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