「毛」が生命と進化のカギを握っている! 知られざる驚異のミクロの世界
筑波大学下田臨海実験センターの稲葉一男教授は、30年以上にわたって「細胞の毛」の研究を行ってきました。私たち生命は「毛」なくしては生きていくことができません。具体的には、「繊毛(せんもう)」と「鞭毛(べんもう)」と呼ばれる「細胞の毛」です。これらの「毛」は、体づくりや生体維持に重要な働きをしています。また、精子は尻尾のような形の「鞭毛」を動かして卵に辿り着きます。つまり、「毛」なくして私たちは子孫を残すこともできないのです。稲葉教授は、この微細な「細胞の毛」を手がかりに生命の起源や進化の謎に挑んできました。そして、研究生活の集大成として『毛―生命と進化の立役者』(光文社新書)をこのたび上梓しました。発売を記念して、本書の「はじめに」を公開いたします。
地球上の生物の進化、そして自然環境を支えている
私たち人類(ヒト)を含め、多くの生き物の体の中には「細胞の毛」があります。この細胞の毛が、実は私たちの命を支えています。もし、細胞の毛がなかったり、きちんと動かなかったりすると、体の臓器の機能が働かなくなり、健康でいられなくなります。このとても小さな、ナノスケール(1ナノメートルは1ミリメートルの100万分の1)の繊細な毛が、私たちの体を正常に保っているだけでなく、この地球上の生物の進化や、その生物たちがいる自然環境を支えているのです。
いくつか例を挙げましょう。私たちの喉の奥にある気管には、このナノサイズの細い毛がたくさん並んでいます。ヒトは、外気を取り入れて、そこに含まれる酸素を肺で体内に取り込みますが、その外気を取り入れる通路が気管です。外気には異物も混ざっています。その中には病原性のウイルスも含まれ、世界を混乱させている「新型コロナウイルス」もその一つです。気管にある細胞の毛は、そのようなウイルスなどの異物を体外に押し出すように働きます。ウイルスはとても小さなものですが、同じように小さな細胞の毛がたくさん並んで動くことで、ウイルスが体内に入るのを防ぐことができるのです。
また、生物はまわりの環境変化に反応しますが、この反応においても細胞の毛は大いに関係してきます。
「地球温暖化」と「毛」の関係
近年、「地球温暖化」という言葉を耳にすることが多くなっています。地球温暖化は、人間の経済活動によって排出された二酸化炭素などの温室効果ガスが原因だと考えられています。平均気温がわずかに高くなるだけの現象に見えるかもしれませんが、地球温暖化が進めば、多くの生き物が暮らす海の水温を上げることになります。また、空気中の二酸化炭素を吸収することで、海が酸性化してしまうことにもなります。
このような環境の変化に、繊細な細胞の毛は何らかの影響を受けると考えられます。その影響がどれくらいなのかはまだわかりませんが、もし大きな影響であれば、細胞の毛が正常に働かなくなり、今の海の生物の多様性は失われることになるかもしれません。その危険性は大いにあると指摘されています。
私たちは、実に多くの生き物や自然、それらが作り出す環境に依存して生きています。そして、その生き物や自然はミクロの世界で支えられているのです。
本書で伝える細胞の毛は、そんなミクロの世界が地球環境を育んでいることを知るきっかけを与えてくれます。
このナノサイズの毛がどのような機能を持っているか、どのような構造をしていて、どのようなメカニズムで動くのか。また、この細胞の毛が生物の進化にいかに深く関わってきたのか。それらを知れば、きっと驚かずにはいられないでしょう。
ミクロの世界からマクロの世界を見る
私が細胞の毛の研究をはじめてから、すでに30年以上が経ちます。魚捕り、虫捕りが好きな私が、一見マイナーに見える細胞の毛の研究をこれだけ長い時間続けているのは、たまたま大学院の研究テーマとして出会った偶然もあります。しかし、細胞の毛の「構造」や「動き」を見ていく中で、それが生命の不思議を感じさせる多くの魅力を持っていることがわかりました。それが、私の〝科学心〟をくすぐったのです。
細胞の毛を知ることは、私たちに新たな生命観を与えてくれます。私たちが目にする生き物をよく見れば、それは目には見えない細胞の毛のようなミクロのものから出来上がっているとわかるでしょう。そのミクロの世界からマクロの生き物や自然環境を見たとき、今までとは異なった視点を得ることができるはずです。
そのような生物のミクロの世界の精巧さを、細胞の毛を通して知ってほしいと思い、本書を書きました。皆さんの体のいたるところにあるにもかかわらず、ふだんあまり意識されない「細胞の毛」の魅力について知っていただきたいと思います。また、細胞の毛のことをまったく知らなかった皆さんが本書を読んで、この構造から四方八方に広がる世界を垣間見ていただけたらうれしく思います。
毛✩目次
【第1章】孤独な戦士「精子」
【第2章】体内の毛なしに生きられない
【第3章】毛のルーツは生命のルーツ
【第4章】美しいナノ構造のひみつ
【第5章】波打つ仕組み
【第6章】細胞の毛は環境問題につながっている
著者プロフィール
稲葉一男(いなばかずお)
1962年、山梨県生まれ。筑波大学下田臨海実験センター教授。静岡大学理学部生物学科卒業。東京大学大学院理学系研究科相関理化学専攻修了。理学博士。東京大学助手、東北大学助教授を経て現職。30年以上、三つのマリンステーションで研究教育に従事。マリンステーションの国際連携にも長年取り組む。専門は細胞生物学、生殖生物学、海洋生物学。趣味は釣り、自然・天体観察、写真撮影、山菜採り、料理など。共編著に『Japanese Marine Life -A Practical Training Guide in Marine Biology』(Springer)などがある。