見出し画像

大蔵省で「10年に一人の逸材」と呼ばれた役人|初めて重い口を開いた伝記的ノンフィクション

齋藤次郎――。かつて小沢一郎と組み、増税による「財政再建」という、経済・財政政策としての保守本流路線に賭けた筋金入りのエリート官僚がいました。齋藤は、二度勝負しました。大蔵事務次官時代の1994年には、細川護熙連立政権を使って国民福祉税の導入を試み、退官後の2007年には、読売新聞主筆の渡邉恒雄を巻き込み、自民、民主両党の大連立構想を梃にドイツ型の増税を目指しました。いずれもあと一歩のところで失敗に終わりましたが、なぜ齋藤は財政規律の回復にかくまで異様な執念を燃やしたのでしょうか。齋藤に最も食い込んだ毎日新聞社の元政治部長がライフワークとして取り組み、齋藤の重い口を割って歴史の証言者としての言葉を引き出した伝記的ノンフィクションです。刊行を機に本書の「プロローグ」を公開いたします。

安倍晋三・菅義偉両政権の「負の財産」

10年近くにわたった安倍晋三・菅義偉両政権がもたらした負の遺産は何か?
いくつもあろうが、その最大は、財政規律の恐るべき劣化である。

財政規律とは、辞書に「国や地方自治体の財政運営を放漫にするのではなく、秩序正しく運営するという概念、あるいは規範」とある。要は、財政とは、歳入と歳出の収支均衡が重要で、借金に頼ることなかれ、である。誰もがそうだろうなと思う、古今東西共通の基本モラルである。

ただ、今この財政規律という言葉が、我が日本では死語になりつつある。国家予算は、60兆円の歳入(税収)しかないのに、100兆円を超える歳出を許し、残り40兆円を借金(国債発行)に頼るような予算を毎年平然と組んでいる。政府の財政赤字は、積もり積もってGDP比2・3倍と、欧米各国の中でも異様に突出しているのに、おかしい、と言う人が年々少なくなっている。異常事態の日常化という一種の正常化バイアスが働いているように、私には見える。

安倍政権が始めた異次元金融緩和(アベノミクス)という政策が、その空気を作り上げた。日銀が国債をほぼ無制限に引き受けるという事実上の財政ファイナンスにより財政規律を麻痺、財政の放漫化を許容する一方、マネーストックを異次元に増やし期待感によって経済のインフレ化(=成長)を図る、という一石二鳥、夢のような政策であった。最後の貸し手である中央銀行(日本銀行)にすべてリスクを背負わせる禁じ手であったが、2年間の時限措置との触れ込みで導入された。

その結果何が起きたか。

円安と株高を呼び、輸出製造企業や投資家は一見潤ったが、それを圧倒的に上回る負の副産物をもたらしている。まずは、名目GDPが2012年の6・27兆ドルから2020年の5・4兆ドル(IMF統計)とドルベースでは2割縮んだことに気付くべきだ。企業収益は内部留保に回っただけでトリクルダウン(富が富裕層から低所得層に徐々に滴り落ちるとする理論)せず、勤労所得は伸び悩み、格差が拡大した。麻薬のような金融政策が企業精神を蝕み、産業構造転換を徒に遅滞させた。

何よりも国家財政と日銀財務を瀕死の状態に追い込んだ。国債格付けは先進国で最下位の24位に転落、日銀はGDPを超える額の国債を背負わされ、金利上昇(国債価格下落)による債務超過の悪夢に日々さらされている。政策はやめ時を失い、その出口はいまだに見えない。にもかかわらず、なおMMT(現代貨幣理論)という、自国通貨である限りいくらでも借金はできる、という夢のまた夢のような議論までまかり通らせている。

「10年に一人の逸材」

こんな時代のアンチテーゼとして、一人の人物を思い起こしたい。齋藤次郎という元大蔵(現財務)官僚である。財政規律の権化、財政健全化の鬼のような存在であった。

役人中の役人といわれた大蔵省でも、10年に一人の逸材といわれた。

あの小沢一郎と組んで国民福祉税の導入をもくろみ、失敗した時の大蔵事務次官だった、と言えばご記憶のある方もおられよう。

実は、齋藤は退官後にもう一回小沢と組んで大仕事をしている。2007年の大連立構想である。衆参ねじれに苦しんだ福田康夫政権が野党第一党であった小沢一郎率いる民主党と、連立政権を組もうとした大政局だ。結果的には不調に終わったが、小沢の裏にいたのが齋藤であった。齋藤の狙いは大連立という政権の安定基盤を作ったうえでの消費税増税の実現であった。一敗地に塗れた国民福祉税の復讐戦でもあった。

齋藤はなぜかくまでして財政規律の回復(=財政健全化)の道を追求しようとしたのか。国民の嫌がる増税をかくも執念深く追いかけたのか。しかも、二度も失敗したのはなぜか。

*     *     *

この書は、その問いに答えんとする、齋藤次郎の伝記的ノンフィクションである。

旧満州で「チャイナ」のあだ名でいじめられる

齋藤は旧満州(中国・東北地区)で生まれ、敗戦と共に訪れた国家破綻の悲劇を外地で身をもって経験した。普段はおくびにも出さないが、敗戦後留め置かれた大陸ではソ連軍の暴虐に怯え、12歳で初めて祖国・日本の地を踏んだ後もひもじい日々を送り、中学校時代は「チャイナ」のあだ名でいじめられた。国破れて山河あり。ただ、国民は戦争の後遺症に塗炭の苦しみを味わう。齋藤少年もその一人だった。

なぜあの戦争があそこまで拡大したのか。敗戦後の混乱はなぜ起きたのか。いずれも国家財政のあり方と深いつながりがある。

戦争には兵器調達と兵站費用など莫大な軍費がかかる。あの戦争に突入した日本では、軍部の強圧に財政当局が抗し切れず、青天井の軍事国債を発行した。それが身の丈を超えて戦闘を加速、今では信じられないような地域にまで戦線を拡大させる背景の一つとなった。

戦後の財政法が国債発行に対し世界で最も厳しい財政規律を課した(赤字国債発行には国会承認が必要)のはその反省からだ。憲法9条の非戦思想と表裏一体のもの、裏書きともいわれる。

戦後の物資不足と高インフレも国民生活を苦しめた。軍事国債乱発の後始末でもあった。この国の借金帳消しのために取られたのが、財産税の特別課税であり、預金封鎖・新円切り換えであった。国民生活を犠牲にし巨額借金を事実上踏み倒したことで、戦後がスタートしたことを我々は忘れてはならない。

このように国家財政のガバナンスの失敗が戦争を暴走させ、そのツケをまた財政的措置で国民に転嫁する。国家財政の健全性を維持すること、財政民主主義を働かせ、財政規律を徹底させることこそが、戦争を抑止するためにも、国民生活を守るためにも、国家統治の基本であるべきだ、という思想がそこに生まれる。

齋藤もまたその思想の持ち主であった。満州での突然の国家破綻、という原体験が少年期にトラウマのように刻まれ、財政規律・健全化路線を血肉化させるファクターの一つとなった。その齋藤が日本財政の守護神ともいうべき大蔵官僚になったのはある意味必然かもしれない。

「大蔵省に齋藤あり」

大蔵省では主計官僚として、財政放漫化を防ぐための新制度・仕組みの構想を得意とした。二度にわたるオイルショックを経て、ちょうど日本の財政が緊縮型への転換を迫られた時節と重なった。主計局の参謀本部とも呼ばれる企画担当主査・主計官を5年務め、日本より進んでいたドイツの予算査定方式を導入、財政規律の徹底強化を図った。当時勢いのあった臨調行革審の「増税なき財政再建路線」を政治的追い風に使って歳出を軒並みカットした。

主計官僚としてはなかなかの大仕事だった。大蔵省に齋藤あり、との風評も立った。

ただ、時代の歯車が大きく動く時期とぶつかった。冷戦崩壊と共に日本の右肩上がり成長経済は終焉を迎えた。少子高齢化で社会保障費が急増していった。小手先の歳出削減ではとても間に合わない構造的財政赤字現象が常態化した。社会保障費の膨張という歳出増圧力と、バブル崩壊による法人税、所得税減収により、歳出入の差(=財政赤字)が鰐の口のように開いていくのを避けることができなかった。

シルバー民主主義の時代、社会保障費の自然増は削りようがない。歳出入のバランスを取るためには、論理必然、歳入を増やす(=増税)しかなかった。それもすでに落ち目の法人税、所得税の増税というわけにはいかない。担税力からすればまだ欧米諸国から比べて税率の低い付加価値税(消費税)の増税しかなかった。

しかし、これも簡単ではない。大平正芳政権の一般消費税、中曽根康弘政権の売上税の失敗、竹下登政権の消費税導入(と同時に退陣)といった死屍累々の歴史からして、よほどの政治力がなければなし得ない大技であった。大蔵官僚はその出口探しに悶々とした。齋藤もその一人だった。

「運命の政治家」小沢一郎との出会い

齋藤が運命の政治家、小沢一郎と出会ったのはちょうどその頃だ。齋藤が大蔵省官房長で、小沢が自民党幹事長だった。まだ、自民党が単独で政権を握っていた派閥全盛時代、経世会(竹下派)という最大派閥をバックに最も勢いのある政治家だった。

霞が関官僚組織のヒエラルキーの頂点に立つ大蔵官僚のそのまたトップ候補が齋藤なら、永田町派閥連合体であった自民党の最大派閥の次期領袖最有力候補が小沢であった。

大蔵省からすれば、与党自民党の協力がなければ、予算の編成もそれを国会で通すこともできない。自民党からすれば、霞が関最大の行政権力である大蔵省を味方につけることが政治家としてのパワーアップにつながる。過去、田中角栄も竹下登もそうして大蔵省と付き合ってきた。

その意味では2人の接近は必然的なものであった。齋藤も小沢も、仕事上必要で、あるいはお互いのポスト、パワーを利用するために付き合い始めた。ただ、その関係は次第に一筋縄ではいかないものに変わっていく。

それは冷戦終焉、バブル崩壊という時代の激動に突き動かされたものだったのかもしれない。2人の権力者は、それぞれに時代的使命感を抱くようになる。齋藤にとって、それは財政健全化のための消費税増税であり、小沢にとってそれは日本政治革新のための選挙制度改革であった。

小沢の目標達成に齋藤がどう関われるかは別にして、齋藤の、そして大蔵省の組織としての悲願でもあった消費税増税は、強い大蔵省と政治中枢の強い意志が必要条件だった。齋藤にとって小沢はそれを共になしうる唯一無二の政治家に映った。

2人には共通点があった。1つは、過剰なほどの自信家である。個人的にもそうだったが、齋藤は最強官庁・大蔵省、小沢は最大派閥・竹下派という組織的背景がさらにそれを強めさせた。2つに、物事を構造的、本質論的に捉えようという思考形態だ。大きな仕組みや枠組みを変えることに強い意欲を持っていた。決断も早かった。ツーカー的な会話が成立しやすかった。いくつかの政策課題を手掛けているうちにそれは同志的関係に昇華した。

国民福祉税も大連立もその文脈で浮上し、消えていったのである。

*     *     *

なぜ今、齋藤なのか

なぜ今、齋藤の足跡を追うのか。3つの理由を付け加えたい。

1つは、財政規律の劣化が、現在の日本の外交・安全保障政策にも影を投げている、と思えるからだ。米中対立が深刻化する中、いかにこの東アジア地域での戦争を回避させるか、が日本政治のここ10年の最も重要な政策目標であることを否定する人はおるまい。そのためには、軍事と外交のバランスが肝要である。自己増殖したがる軍事に対し、国会が財政民主主義的に規律、歯止めをかけ、一方で対中、対米外交を強化、話し合いにより軍事衝突の芽を摘みとることが必須である。

日本の政治が今そのバランスを保持しているかといえば極めて疑問である。これまた安倍政権以降、軍事費への財政規律が弛緩している。防衛費の対GDP2%(=倍増)化、敵基地攻撃能力保有議論が政権与党内部でかまびすしい。最新鋭ステルス戦闘機F‐35の100機購入、陸上イージスなど、米国との同盟強化を大義名分にした米製兵器の言い値での爆買いも目に余る。かつては軍部、今や日米同盟関連経費が聖域化している観すらある。

他方、肝心の外交は動きが鈍い。親中派政治家といえば、かつては名立たる人々がいた。日中国交回復前には石橋湛山、松村謙三、高碕達之助、岡崎嘉平太ら、回復後にも田中角栄、大平正芳、中曽根康弘、竹下登、後藤田正晴、野中広務といった人々がいた。それが今や二階俊博らごく一部の人に限られている。その人たちも嫌中世論を怖れてか、本来の活動を封じ込まれている。このままでは日本の独自外交がないまま、軍事対決路線の延長線上で、いつの間にか日本が米中対立の最前線に押し出され、望まぬ戦争に巻き込まれるのではないか、と懸念する。

それを防ぐには、日本が自立した平和国家としてこの地域で生き抜いていくためには何が必要なのか。今一度、外交・安保の基本戦略を練り直すことだ。そのうえで防衛費の中で真に必要なものとそうでないものを峻別、縮減し、外交強化の経費を増やすべきであろう。その際には日米同盟関係費も聖域化しない強い意志が必要になろう。いわば、軍事至上主義を抑止し、平和構築を促進するための財政規律の回復である。

2つに、先述した07年の大連立政局の検証である。この政局の経緯については、これまで小沢一郎、福田康夫の両当事者と、そしてそれをつないだ森喜朗(元首相)、渡邉恒雄(読売新聞グループ本社代表取締役主筆)らの話でその大枠の姿は明らかになっている。ただ、ジグソーパズルでいえば、重要なピースが1つ欠けていた。

それが齋藤の関与である。構想が芽生え、いったんは消え、また現れ、実現まであと一歩のところまで行きながら最終的につぶれるまでの全過程をキーパーソンとしてフォローしていたのが齋藤であった。齋藤の関与については、これまで秘匿されてきた。小沢も渡邉も齋藤のことを慮り、表にしなかったし、齋藤自身も口をつぐんできた。

ただ、NHKが2021年7月に放映したBS1スペシャル『独占告白 渡辺恒雄 〜戦後政治はこうして作られた 平成編〜』の中で、渡邉が大連立について初めて齋藤の介在を明らかにした。「約束だから今までいわなかったが、小沢さんの背後で根回ししてくれた人がいた。今日はあえて言ってしまう。大蔵省の10年に一人といわれた齋藤次郎元事務次官だ」。その齋藤が、この経緯について今回初めて証言した。あの政局の全体像がようやく見えてきた。

3つに、今の日本の官僚道に対する不満、疑問からである。安倍・菅時代の霞が関は目を覆わんばかりの不祥事が相次いだ。財務省の決裁文書改ざん、総務省の接待疑惑……。内閣人事局を使った官邸の人事権強化で、霞が関がその国家のシンクタンクとしての本来の機能を失っているように見える。国益よりも、官邸の意向、「官邸益」を気にする忖度官僚の集合体に成り下がってしまっている、という指摘もある。

もちろん、齋藤も鼻持ちならぬエリート官僚の一面を持っている。世代差もあるから単純には比べられない。だが、おのれの戦争体験をバックグラウンドに、自ら公益と信じる財政健全化・消費税増税実現にひたすら邁進する。官邸に気遣うどころか、むしろ政治を使ってまで奔走、失敗してもさらに挑戦する、という信念、継続力には頭の下がる面がある。官僚道として記録するに値するものがあると考える。

「デンスケ」が初めて重い口を開く

齋藤のあだ名は「デンスケ」だ。若き官僚時代に麻雀で上がる時「デンデン」と声を発したことから上司に命名された。昭和時代に浅草を中心に活躍したコメディアン・大宮デン助に似た風貌からか、永田町、霞が関で人口に膾炙した。役所の先輩も後輩も齋藤のことを「デンスケ」と呼び捨てにする。どこか憎めない愛嬌がある。

私は齋藤が大蔵省官房長であった90年から取材対象として付き合ってきた記者の一人だ。自分の過去については一切口を閉ざしてきた齋藤にしつこく記録を残すよう迫ってきた。今回何とか齋藤の重い口を開かせることができた。齋藤の中にもおのれのこれまでの足跡を世に問うてみたい、という気持ちが出てきたことがあるかもしれない。

第1章では、大連立構想に齋藤がいかに関わったか。第2章では、齋藤の原点としての戦争体験、第3章では、大蔵官僚としての歩み、第4章では、小沢一郎との二人三脚、第5章では、退官後の姿を描く。

目次

プロローグ
【第1章】大連立 15年目の証言
【第2章】生い立ち・入省まで
【第3章】大蔵官僚として
【第4章】小沢一郎との二人三脚
【第5章】退官後 郵政社長
エピローグ

著者プロフィール

倉重篤郎(くらしげ・あつろう)
1953年生まれ。東京都出身。毎日新聞客員編集委員。東京大学教育学部卒業後、毎日新聞社に入社。水戸支局、青森支局、東京本社整理部、政治部、経済部、千葉支局長などを経て、2004年に政治部長、2011年に論説委員長を務める。著書に『国会は死んだか』『住専が国を滅ぼす』(毎日新聞社、いずれも共著)、『千葉つれづれ』(崙書房)、『小泉政権1980日(上・下)』(行研)、『日本の死に至る病 アベノミクスの罪と罰』(河出書房新社)などがある。「サンデー毎日」で「倉重篤郎のニュース最前線」を連載中。

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!

光文社新書ではTwitterで毎日情報を発信しています。ぜひフォローしてみてください!