なぜ私は「友だち」という言葉を使わないのか|石田光規
「友だち」を意識しない
自らが動かなければ、つながりから漏れる可能性のある時代を生きる私たちは、つながりを確保しようと肩に力を入れがちだ。つながりを確保するために、なんとか友だちをつくろうと焦る気持ちはわからなくもない。しかし、友だちを得ようと欲するほど、かえって苦しくなることもある。
友だちを得ようと意識すれば、私たちは目の前にあるつながりを逃すまいと肩に力を入れてしまう。その結果、相手の気持ちにとらわれ、つながりのなかにマイナスの材料を持ち込まないよう気を遣ってしまう。
誰かと友だちであろうと意識するあまり、相手に率直にものを言えなくなったり、逆に、おたがいをぶつけ合えるつながりがないことに目がいったり、ということは多くの人が経験する。
私自身はつながりのある相手を友だちかどうかという基準で区分しない。誰かに対して「友人」「友だち」という言葉を使うこともない。家族・親族は別だが、それ以外は「知り合い」で統一している。理由は以下のとおりだ。
友人や友だちは、「よきもの」というイメージが強く根付きすぎている。かりに、ある人を「友だち」と呼ぶようになったとしよう。誰かに「友だち」というラベルを割り振るようになると、私は相手に対して、つながりにかんするある一定の水準を満たした人と判断しているような気分になる。
このような考えにとらわれるのが非常に煩わしいため、私は、出会った人はみな、「知り合い」と呼ぶようにしている。そうすると、出会った相手を判定するという感覚から距離をおけるので、コスパ意識を緩和することもできる。
では、私に「友だち」がいないのかというと、おそらくそんなことはないだろう。相手が私のことを「友だち」と認識してくれていることはあるだろうし、定期的に飲食をともにする「知り合い」もいる。ただ、関係性に貼り付けられたラベルに振り回されて、悩むことは疲れるので、そうしていないだけだ。
「友だち」というメッセージ性の強い概念から距離をおくことで、人と自由につきあえるようになることもある。私から見れば、「友人」「友だち」というラベルは重すぎるのである。
社会は「友だち」を意識させようとする
その一方で、社会の側から「友だち」を意識させようと圧力がかかる機会は多い。「はじめに」でも指摘したように、卒園式や入学式では、「友だちができること」「ずっと友だちでいること」を礼賛する歌が歌われている。
哲学者は友人を理想の関係性と見なし、そのようなつながりをつくることを人生の幸せととらえていた。
日常生活でも友人・友だちに触れる機会は多い。私たちは子どもと話をするさいに、「学校の友だちと仲良くしなさい」という言葉を頻繁に使う。教員もそうだろう。「友だちなんだからクラスの人とは仲良くしなさい」としばしば言う。若者の間では、友だちのいない人を「ぼっち」と呼び、見下した視線を注ぐ。
こうした行為には、出会った人、居合わせた人とは「友だち」になり仲良くするのがよいというメッセージや、「友だち」のいない人はさびしい人だというメッセージが込められている。
とはいえ、出会った人、居合わせた人すべてと「友だち」になるというのは無理な想定だ。人は頑張っても「友だち一〇〇人」などそうそうできないし、「ずっと友だち」でいられることもなかなかない。そうであるならば、「友だち」になることを求めてくる圧力とやや距離をとり、フラットな視点でいるほうがよいだろう。
※なぜ著者の石田先生がこうした「友だち観」をもつにいたったか、本書ではこの現代社会でもなおありうべき「友だち」について考察しています。詳しくは、以下の目次をご参照ください。
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目次
著者略歴
石田光規(いしだみつのり)
1973年、神奈川県生まれ。早稲田大学文学学術院教授。東京都立大学大学院社会科学研究科社会学専攻博士課程単位取得退学。博士(社会学)。著書に、『友人の社会史──1980-2010年代 私たちにとって「親友」とはどのような存在だったのか』(晃洋書房)、『孤立の社会学──無縁社会の処方箋』『つながりづくりの隘路──地域社会は再生するのか』『孤立不安社会──つながりの格差、承認の追求、ぼっちの恐怖』(以上、勁草書房)。近著に、『「人それぞれ」がさみしい──「やさしく・冷たい」人間関係を考える』(ちくまプリマー新書)。