なぜ「分子生物学」が希望をもたらすのか?|高橋昌一郎【第23回】
ゲノム医療の重要性と懸念
最新作『天才の光と影:ノーベル賞受賞者23人の狂気』(PHP研究所)を上梓したばかりである。この作品では、とくに私が独特の「狂気」を感得したノーベル賞受賞者23人を厳選して、彼らの数奇で波乱万丈な人生を辿っている。
一般に、ノーベル賞を受賞するほどの研究を成し遂げた「天才」は、すばらしい「人格者」でもあると思われがちだが、実際には必ずしもそうではない。どんな天才にも、輝かしい「光」に満ちた栄光の姿と、その背面に暗い「影」の表情がある。本連載の読者の皆様にも、天才と狂気の紙一重の「知のジレンマ」から、通常では得られない「教訓」を読み取っていただけたら幸いである。
その23人に含まれるジェームズ・ワトソンは、フランシス・クリックと共に「DNAの二重らせん構造」を解明して1962年にノーベル生理学医学賞を受賞した。また、キャリー・マリスは、短時間にDNAサンプルを増幅させる「ポリメラーゼ連鎖反応 (PCR) 法」を確立して1993年にノーベル化学賞を受賞した。
ところが、実はワトソンは人種差別発言によって研究所所長の地位を追われ、研究費に困窮してノーベル賞メダルを競売にかけて売った人物である。マリスは若い頃からマリファナやLSDの薬物中毒者で、臨床医学会の講演会では自分の写した女性のヌード写真を投影して大顰蹙を買った。このような彼らの「影」の人生については拙著をご参照いただくとして、ワトソンとマリスの「光」の栄光に相当する科学的業績は、誰も異論を唱えない人類への功績といえる。
さて、本書の著者・黒田裕樹氏は、ワトソンのDNA解明やマリスのPCR法によって飛躍的に進歩した分子生物学の未来像を詳細に解説している。とくに遺伝子組換え技術によって変革が予想されるのは、医療(先天的な病気の治療・臓器組織の再生・臓器移植・早期診断)、創薬(新薬開発・ワクチン開発)、環境(環境汚染対策・環境センサー・環境に優しい素材開発)、産業(生物燃料・農業・食料生産)、寿命、バイオハッキングと人間強化、生物兵器などである。
たとえば、20世紀の分子生物学の根幹をなす中心的なアイディアについて、黒田氏は次のような「たとえ話」で明快に説明している。
本書で最も驚かされたのは、1980年から2023年のノーベル生理学医学賞44件中43件(97.7%)、化学賞43件中22件(51.2%)が分子生物学に関連した内容だったという黒田氏の指摘である。さすがに物理学賞では43件中2件(4.7%)にすぎないが、合計するとノーベル科学3賞130件中67件(51.5%)が分子生物学関連だということになる。つまり、最近43年間の科学界において、ノーベル賞クラスの発見・理論の半数以上は、分子生物学で成されているわけである!
日本では2023年6月9日に「ゲノム医療推進法」が成立した。この法に基づき、国が基本計画を策定してゲノム医療の研究開発を推進し、ゲノム医療に関わる機関の整備や人材確保を行い、生命倫理や情報保護に関する指針も策定する。そこで懸念されるのが「遺伝情報による差別」や「生物兵器開発」である!