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【第73回】江戸時代の「お白洲」とは何だったのか?

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★現代の日本社会では、多彩な分野の専門家がコンパクトに仕上げた「新書」こそが、最も厳選されたコンテンツといえます。この連載では、高橋昌一郎が「教養」を磨くために必読の新刊「新書」を選び抜いて紹介します!

「身分」を可視化する不思議な空間

江戸時代中期、江戸城の南側のおほりには数多くの鴨が浮かび、「鴨ヶ淵」と呼ばれていた。ある商店の丁稚でっちの少年が悪戯心を起こしてお濠に小石を投げてみたところ、一羽に命中し、その鴨は死んでしまった。この様子を見ていた役人が慌てて少年を取り押さえ、商店の主人と共に南町奉行所に突き出した。
 
江戸城周辺の鴨は徳川将軍家の所有物とみなされ、それに危害を加える者は「将軍家に弓を引くも同然厳罰に処す」と定められている。ところが、南町奉行の大岡越前守忠相おおおかえちぜんのかみただすけは、偶然殺してしまった鴨一羽のために少年の首をねるのは、あまりに不憫ふびんだと考えた。そこで彼は、次のような芝居を打った。
 
大岡は、すでに死んでいる鴨の腹の下に手を入れ、「まだ温かい。死んではおらぬようだ。早急に安針町で治療を受けさせよ」と商店の主人に命じた。安針町といえば、鳥などを扱う問屋街である。大岡の意図を汲み取った主人は、安針町で大きさも毛並みも同じような鴨を購入した。そして翌日、「鴨が生き返りました」と申し出た。大岡は、被害は消失として少年を無罪放免にした。
 
これが、いわゆる「大岡裁き」である。どこまで史実なのかは別として、伝説上の大岡は庶民の味方であり、法を杓子定規しゃくしじょうぎに適用するのではなく、温情ある判決を下して慕われる。この「大岡裁き」が、庶民のために巨悪を倒す痛快な「遠山金四郎」や「水戸黄門」のように映画・ドラマ化されていったわけである。しかし、実際の江戸時代の「お白洲」では何が起きていたのか?
 
本書の著者・尾脇秀和氏は1983年生まれ。佛教大学文学部卒業後、同大学大学院文学研究科修了。同大学総合研究所特別研究員などを経て、現在は神戸大学経済経営研究所研究員。専門は日本近世史・身分格式論。著書に『壱人両名』(NHKブックス)や『氏名の誕生』(ちくま新書)などがある。
 
さて、現実の「お白洲」は、奉行の座る「座敷」の下に薄縁畳の「上縁」と板敷の「下縁」があり、地面には「砂利」が敷き詰められていた。百姓や町人は砂利の上、武士や僧侶は上縁か下縁に配置されるが、「お裁き」以前に、その身分に応じた座席位置を決めることが非常に重要な作業だった。その理由は本書に詳細に分析されているが、要するに「身分」に応じて差別を可視化し、「治者と被治者が公式に対面する特別な場」が「お白洲」なのである。
 
本書で最も驚かされたのは、「お白洲」において正月一七日の御用始では、前年度に善行や孝行を行った「奇特者」に褒詞や銀包みなどの褒美を下賜する「白洲始」という儀式が行われたことだ。当時の「御白洲へ親子召さる々有難さ」という川柳には、孝行者が親同伴で褒賞される喜びが表現されている。
 
そもそも江戸時代の人々の人生観は、各々が自分の「身分」の役割に徹して「分相応」に生きることだった。そこで、治者である「公儀」は、被治者である「庶民」に「御慈悲」を施して、その身分の中で秀でた者は褒賞し、身分をわきまえない者は罰する。当時の「訴訟」とは、現在の裁判所における検察官と弁護士の論争などとは本質的に異なり、あくまで「下々の者」が「お上」の「御威光」によって紛争の解決を願い出ることだった。江戸時代の人々が「身分」の上下関係を徹底的に可視化することによって、「理性」というよりも「情」で相互に納得し合った不思議な空間が「お白洲」だったのである!

本書のハイライト

本書で述べた「身分」や「訴訟」は現代語としても存在する。だが近代以降と異なる社会構造を持つ江戸時代においては、その意味は大きく異なっていた。これらの語を現代の言葉や価値観、現代語の辞書、あるいは受け売りのイメージに基づいて解釈すれば、当時の実態とはかけ離れた姿が見えてしまう。こうした語は史料を通じて、当時如何なる意味で使用されていたのか。そこを実証的に分析することが重要なのである(p. 316)。

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著者プロフィール

高橋昌一郎/たかはししょういちろう 國學院大學教授。専門は論理学・科学哲学。著書は『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『愛の論理学』『東大生の論理』『小林秀雄の哲学』『哲学ディベート』『ノイマン・ゲーデル・チューリング』『科学哲学のすすめ』など、多数。

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