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川瀬和也×古田徹也の哲学夜話②|「考え抜く力」を養うための読書術

1月28日に本屋B&Bで行われた川瀬和也著『ヘーゲル哲学に学ぶ 考え抜く力』&古田徹也著『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)のW刊行記念対談イベント「未来を選びとるための哲学の話」。前半で「哲学する苦しさと楽しさ」について語ったお2人のお話、後編です。

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登壇者紹介

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川瀬和也(かわせ・かずや)
1986年、宮崎県生まれ。宮崎公立大学人文学部准教授。2009年、東京大学文学部思想文化学科哲学専修課程卒業。2014年、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。専門はヘーゲル哲学、行為の哲学。東京大学大学総合教育研究センター特任研究員、徳島大学総合教育センター助教などを経て現職。日本ヘーゲル学会理事。著書に『全体論と一元論――ヘーゲル哲学体系の核心』(晃洋書房)、『ヘーゲルと現代思想』(同、共著)などがある。2017年、論文「ヘーゲル『大論理学』における絶対的理念と哲学の方法」(『哲学』第六十八号)にて日本哲学会若手研究者奨励賞受賞。

古田徹也(ふるた・てつや)
1979年生まれ。東京大学文学部卒業、同大大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。新潟大学教育学部准教授、専修大学文学部准教授を経て現在、東京大学大学院人文社会系研究科准教授。専攻は、現代哲学・現代倫理学。著書に、『それは私がしたことなのか――行為の哲学入門』(新曜社)、『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ、2019年サントリー学芸賞)、『不道徳的倫理学講義――人生にとって運とは何か』(ちくま新書)、『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』(角川選書)、『はじめてのウィトゲンシュタイン』(NHKブックス)など。

未来を選びとるための哲学の話〈後編〉

「本質」を一足飛びに知ることはできない


古田 この機会に、ぜひ聞いておきたかったことがあるんですが。それは何かと言いますと……川瀬さんのご本の55ページなんですが。

 私たちは、自分がどう生きるべきかを考えるにあたって、内省だけを行うのではない。そうではなく、社会においてどのような生き方が実際に受け入れられているのかを参照している。さらに、お互いの生き方についての判断を、お互いに検討し合う。

『ヘーゲル哲学に学ぶ 考え抜く力』第一章「生き方」を考え抜く より

古田 これは、じつにヘーゲルらしい、今回のご本でも強調されている重要なポイントだと思います。自分自身だけを覗き込むだけでは出てこない、実際、自分の生き方とか、これからなにをすべきかを考えるうえで、僕自身を振り返ってみてもやっぱり、実際に社会においてなにが受け入れられていて、どのように行われているか、っていうのは極めて重要で。

たとえば、子供を0歳や1歳から保育園に預けるべきか否か、これは僕自身だけ、あるいは夫婦の間だけで考えて、答えが出てくるものではなくて、実際に多くの人が預けているというのが判断の材料になる。その種のことはいたるところであって。

ただ、このご本のなかでまさに言及されているように、社会で実際にどういう生き方が受け入れられているかを考えることで私たちが選ぶべき生き方が決まる、っていうのは、一面、それは文化相対主義にそのまま繋がりますよね。つまり良い生き方、いかに生きるべきかっていうものが社会ごとに、バラバラになってしまいかねない。そして、それは同時に、まさに保守的な立場にも繋がる。

川瀬 そうですね。

古田 そこでヘーゲルの場合、その、ある意味では救い難いほどの相対主義であるとか、不合理なほどの保守主義っていうものに帰着してしまうことを回避するためには、どっちつかずのうちの片方が必要だと。つまり現状維持、「このままでいい」っていうことから、変容していく可能性というのは、実際のところどう生まれるのか、という問題があります。で、今度は内省というか、自分に訴えることによって、膠着した保守的な立場とか、「なんでもいいんだ」という相対主義というのを回避するという話になっていくんですが……。

ここからが疑問点と言いますか、もっと詳しく議論したいと思う点なんですが。

「本当にそれでいいんだろうか」と。文化相対主義とか、保守主義というものに完全に膠着してしまうことからの変革の可能性というのは、自分自身に潜る、自分自身の内面に訴える、ということで本当にもたらされるんだろうか、とも思うんですね。

もちろん、そういうこともあるとは思います。たとえば、一つ例を出すと、アメリカの公民権運動の、はからずも火付け役となったローザ・パークスという黒人女性。ご存知の方も多いと思いますが、彼女が暮らしていた地域では当時、バスでは黒人も座ることができたんだけれども、混雑してきたら黒人が白人に席を譲るということが不文律だった。だが、あるとき、ローザ・パークスは敢えて席を立たなかった。そのことで、バスの運転手に咎められ、警察を呼ばれ、逮捕されてしまう。その事件が、その後に続く公民権運動の、最初の着火点になった。

古田 現状維持の調和を乱して、変革をもたらしたのは彼女の行動だったわけですね。言うなれば、社会のなかの少数の人々、ある種の「纏ろわぬ人々」の行動によって、さらに少なからぬ人が刺激を受ける。つまり、ローザ・パークスひとりの行動が、その後、多くの人たちの導きとなっていった。この例は非常に劇的な、歴史の教科書に載るような例だけれど、ここまでではなくても、同様の例というのはたくさんあると思うんです。川瀬さんのご本のなかでも64ページにこうあります。

 まず、一部の人が、このルールに対して違和感を覚えるようになる。

『ヘーゲル哲学に学ぶ 考え抜く力』第一章「生き方」を考え抜く より

古田 この場合のルールというのは、いわゆる男子高校生は全員が丸刈りにすべきだ、というような、ずっと続いてきた、なんとなく惰性で続いてきた変な校則みたいなものですね。

少し長くなってしまいましたが、なにを問題にしたいかというと、その「一部の人」が違和感を覚え、やがて行動する。ローザ・パークスはまさにその代表的な例だと思いますが。つまり、その「一部の人」に自分自身が含まれていないということが往々にしてあるというか、そういうことのほうがはるかに多い気がする。もし、そうだとすると、自分自身の内面に訴えることによって変革の可能性がもたらされるというのは、どうも違うような気がする。つまり「一部の人」というのは、往々にして自分ではないので。

この点は、ヘーゲル哲学の中で、というと少し大きすぎるかもしれませんが、この関わる議論のなかでどう位置づくんでしょうか。つまり、自分自身じゃない「一部の人」が、違和感を覚え、ある種、調和を乱したりして、そこに触発されていく、その辺りはどう考えたらいいんだろう、ということなんです。

川瀬 はい、確かに自分以外の人からの影響を受けて変わっていくという場面が、実際にはすごく多いというのは、ご指摘のとおりかなと思うんですけど。ヘーゲルはどうですかね、あんまりこういうことの処理がヘーゲル自身、上手じゃないような気もしていて。その、規範が変わるというような場面のときに、主役も交代してしまうという描写になってしまうところがあるような気がするんですよね。

古田 なるほど。

川瀬 歴史が変わっていくときに、別の民族が新たな主役として登場するというような。そこは、現代の目から見たらということではあるんですが、うまく描ききれていないのかな、と思う。一方で、ここに書いたように、ヘーゲルが言っていることのなかに、ヘーゲルの結論とは少し違うけれども、だんだん変わっていくということを描き出せる、その道具を探すということはできるのかな、と思います。その一つがこの「考える」ということではあると思います。

また、この本のなかではあまり専門的な言葉はたくさん使わないようにしていましたが、「疎外」とか「承認」とか、ヘーゲルの実践哲学のなかでもとくに有名な概念があります。たとえば「疎外」という概念。ヘーゲルの「疎外」は必ずしもネガティブな概念ではなくて。どういうことかと言えば、いま自分がどういうルールで生きているかということを、いったん、そのルールと自分が一体化してしまっている状態から「自分とは別のもの」というふうに離れたりする。それだけではないんですが、そういうことも「疎外」と言われていて。

このあたりは、違和感を覚えるというのがどういうことなのかっていうことに関係するかもしれません。これは結局、外側にいる人ではなくて、自分が違和感を覚える側ですが。

それから、この本の中でも紹介した、「承認」という、とても有名な概念があります。これはお互いに、相手がやっていることを吟味し合う、という要素のことをヘーゲルは非常に重視していて。これが、一部の人の気づきが、だんだんと社会全体に広がっていくときのある種、回路みたいなものとして作用しうると考える、その萌芽のようなものはヘーゲルのなかに見ることもできるのかなと、いま古田さんのご意見をお聞きしながら考えていました。

古田 さらに詳しく展開するとどうなるんでしょうか? その「疎外」もそうなんですが、とくに「承認」という概念のくだり、非常に興味深いですね。つまり、今回のご本、最初にお聞きしたように「どっちつかず」に耐えて考えていくと。別の言い方をすれば、何度か繰り返されている……、168ページにもありますね。

 本質を一足飛びに知ることはできない《中略》一つ一つの「現れ」を根気よく検討することでしか、本質に至ることはできない。

『ヘーゲル哲学に学ぶ 考え抜く力』第四章「本質」を考え抜く より

※「本質」と「現れ」については本書第四章で詳述。ここで「現れ」と訳した語はドイツ語のScheinで、通常は「仮象」「映現」「映像」等と訳される。本書では日本語としてのわかりやすさを重視して、「現れ」と訳している。


古田 そこで、疑問に思うのは、原則としては、それがすごく大事だということは、誰しもが同意すると思うんですけれど、一つ一つの「現れ」を根気よく検討する、そしてさまざまな側面を見ていく、物事を多面的に見ていって全体像を捉える。これは先程の疑問点にも通じるんですが、物事のさまざまな側面に触れて、あちらから見たり、こちらから見たり。それが、自分のいるこの場所から、どうやったら可能なのか、ということなんですね。

オンラインイベントより

古田 なぜかと言うと、「物事を多面的に捉えろ」と言うんだけれど、それは「言うは易し行うは難し」というか。まさに、この間合いから物事を見ているからこそ、他のものが見えづらくなってくるわけで。いま、ここに生きているってことですね、この場所から物事を見ている。つまり、別のポジションに身を置けば別の「現れ」が見られる、また別の場所からは、こういった側面に触れることができる、そうだとしても、簡単に別のポジションに身を置くことは実際には難しいわけです。

先ほど言われた「疎外」のある種ポジティブな使い方というのは、いま拘束されているこの場から離れて、いわば外から見る視点を得るということだと思いますし、そのあとに言われた「承認」が継続していくプロセスというのも、何かそういう拘束された場からずれていくと捉えられるのかもしれないけれど。

具体的に言うとそれは……どういうプロセスとしてあり得るんだろうか、と。たとえば、僕が考えてきたのは、言葉というのはある種、自立的なものなので。言葉がこれまでどう使われたきたのか、言葉の過去の用法、たとえば「可愛い」は、もともとは「顔映ゆし」で、「恥ずかしい、見ていられない」という意味があって。さらには「かわいそう」といった意味合いも持っている。

そういう、自分のなかからは出てこないけれど、言葉の来歴を辿っていくことによって、そのズレというか、自分がいま見ているものとは別の風景が見えてくるところがある。たとえば、「可愛い」は単に可愛いだけではなくて、もっといろんなヒダがあって、いろんな苦味があって、みたいな。

それは、自立し、自分から離れたものとしてある言葉の歴史を辿っていくことによって見えてくるものです。言葉の自立性が導きにもなるというか。雑な言い方をすると、ある種、言葉の他者性みたいなものが手がかりになる。つまりは、意外な用法、自分が思ってもみなかった用法が見えてくるってことですよね。その、昔を知ることの1つのポイントは、自分だけでは出てこない意外な物事の捉え方、今回の場合は言葉ですけど、言葉の意外な捉え方というのが、むしろ向こうからやってくる。歴史を辿り直すことによって。

「幸せ」というのもまさにそうで。今では「幸福感」「幸福度」みたいな、非常に平板な捉え方をされるけれど、もともとは「しあわす」という意味がある。だから、幸せの以前の用法を辿っていくと、それこそ、不運とか死とか、死ぬこととか葬式といった意味も見つかります。それは、いまこの場に拘束された状態で「幸せ」というものを捉えようと思っても、そういった側面というのは見えてこない。「しあわせ=死」なんていう見方は出てこないですよね。

むしろ、そういった意外な物事の側面というのは、言葉の過去の用法を辿ると見えてくるということがあるんじゃないか、と僕は思っているんですね。それはある意味で、語源原理主義につながってしまう危険性も同時にあるわけだけれど。

では、言葉以外の場合、どうやったら、この場に拘束されながら、視点をずらしていくことができるんだろうか。いい意味で「疎外」されるためには、何が必要なんだろうか、という疑問に帰着すると思うんです。

すぐには信用しない、けれども敬意を持って対する

川瀬 そうですね……。2つ、考えてみたんですけれども。

「承認」というのは、ただ自分で言っているだけでは、なにかを主張したりするときにも誰かが聞いていてくれないと意味がないということ。あるいは、主張だけではなくて、なにか行動をするときにでも、それを誰かに「あなたはそういうことをしているんだね」というふうに認めてもらわないといけないよ、ということを強調する意味合いの言葉なんですけれども。なので、「他の人がいるときに、初めて自由になれるんだ」、そういうようなヘーゲルの非常に有名な主張があります。

そういうことを関連づけていくと「他の人がどう思うかな?」といった視点を持つことが、ある種、内面化していくことを促していく、とも考えられます。それで「実際にではどうやるんだ?」という疑問についてですが。哲学でそんな万能薬みたいな答えがポンと出てくるわけもなくて。そこは「慎重にやっていくしかない」ということになると思うんですけれど。

たとえば私の本のなかでは、人の本質がいちばん実感を持って捉えられる例として、ある人とずっと付き合っていくことで、いろんな側面が見えてくる、ということをあげました。人のいろんな側面を見るためには、一方では慎重にならないといけない。すぐ盲信したりするのは騙されてしまったり、別にそこに悪意がなくても、勝手な思い込みで幻滅したりもするかもしれない。

一方で、その人の本質がどういうところにあるかを考えるというのは、単に信用しないということではなく、敬意を持って扱うということでもあると思います。その人を尊重して、敬意を持って扱うということはつまり、いま見えている一つの面ですぐに決めつけない。これ、相反するようですが、どっちもないといけないというか、じつは表裏一体なこと。

すぐには信用しないけれど、でも敬意を持つ、ということがセットになっていると考えたりもしています。盲信するということと、敬意を持たずすぐに軽蔑してしまうということも、じつはセットになっているのかな、と。他者に対して、ということでは、そういうふうに考えたりしています。

それ以外の、言葉のことについては、いま詳しくお話ししていただきましたけど、言葉に限らず、いろんな事象とか、ある歴史上の事件などについて「これどういうことだったんだ?」ということは、調べれば調べるほど分からなくなることばっかりだと思うんですよね。しかし、そこはやはり、いろんな人が言っていることを、しっかり立ち止まって調べていくということしかないんだろうな、と思います。

しかも、そのときに、自分の思い込みに近い情報ばかり集めてしまうというのが、最近はよく問題になっていますが……。

古田 「エコーチェンバー」ですね。カタカナ語で言うと。

川瀬 そうですね。「エコーチェンバー」とか「フィルターバブル」とか、そういった言葉が最近よく使われるようになりましたけれど。その、内側で閉じてしまって、自分に都合のいいというか、自分が元々持っていることに近い情報ばかり集めてしまって、どんどん確信を高めていってしまう……。そこに陥らないための調べ方をしないといけない。結局のところそれは、私の本のいちばん最後のところに「じゃ、どうすればいいんだ?」という疑問への回答として、少し書きましたけど。

結局はその、なんだかいかにも大学の先生の答えみたいですけど、「本を読もう」ということに尽きるのかな、と思います。

古田 ああ、でも、それはすごく納得できますね。

「考え抜く力」を養うためにもっとも必要な読書術

川瀬 ただ、同じ人が書いた本ばかり読んでいると、意味はないとまでは言いませんが、それだけではよくないので。いろんな立場の人が書いた本を読んでいく。さらに言えば、ネットよりは本のほうが、異質なものに触れる可能性が高くなるということなのかな、と思います。

古田 欲しい情報を集めて集積していくというのは、エコーチェンバーに陥りやすいと思いますね。いっぽうで、本を読む、とにかく1冊、最後まで付き合うというのは、これは大事かなと。それは要するに、本のなかには、自分が知りたいこと以上のものがあって。いわば、「向こうに主導権を委ねる」ってことですよね。

それはもちろん、本にもいろんなものがあるけれど。良質な本に当たれば、本はそれこそまさに自立しているので。本に主導権を預けて、とりあえず最後まで読んでみる。それによって、自分がこれまで思ってもみなかったような意外な物事の見え方とか、新しい知識や情報が手に入る、ということですよね。それプラス、同じテーマとか同じ事物に関して、何冊か読んでみるといいですね。これは、かなり具体的な方法だと思います。

川瀬 そうですね。この本の中では、いまから話すことは書いてはいませんが、古典を読むということも、まさに相手に主導権を委ねるという読み方がいちばん要求されるのかなと思いますね。ヘーゲルにしてもそうですし、ウィトゲンシュタインなんかもそうですよね。主導権を委ねないと読めないタイプかな、と思うので。そういった古典を読むということも大事かな、と思いますね。

イベント終盤の質疑応答のコーナーでは、チャットから、読書に関するこんな質問が寄せられました。「良い本に出会うための具体的な方法はなにかあるでしょうか?」

オンラインイベントより

川瀬 これは私が少し喋ったあとで、古田さんにもぜひお話していただきたいですけれど(笑)。そんな特効薬というか、魔法のような方法はないと言えばないので。基本的には、たくさん読むしかないです。でもこれは、全員の方に絶対やれというのはなかなか難しいですけど。

大学の先生や研究者みたいな人はいい本をたくさん知っていますが、それは、いい本だけをうまく選んで読んでいるわけではなくて。なかには「どの本が」とは言えませんが、しょうもない本もあって(笑)。いろんな本をたくさん読んで、そのなかで「これはよかったな!」というものを選んでいるから、いい本をたくさん知っている、ということになっていると思いますので。

ですから、正面から、正攻法で「たくさん読む」という作業を、やるしかないのかなと思います。

古田 一つ、手はありますね。ある信頼できる著者ができたときに、その人はなにを薦めているか。たとえば、食べログなどは信頼できない情報も死ぬほどあって、レビューも玉石混合なんだけれど。自分が「いい!」と思っていた店を褒めている人がいるとします。しかも、あんまり全体的な評判が高いわけでもないのに、自分と同じようなポイントをついて「この店はいい!」と評価していると。そういう人のレビューを辿っていくと、いい店に出会えたりするわけです。それは、要するに、自分とある意味、波長があって信頼できるということ。

たとえば、僕の場合などは、多少ひなびていても、家族経営で、おじいさん、おばあさんが元気でやっていて旬のものを食べさせてくれる、そんな店に惹かれますが。そういう、同じポイントで評価している人を見つけた場合に、その人の勧めているものを辿っていく、というのもひとつの手かな、とは思いました。

川瀬 そうですね。ただ、一方で、それこそエコーチェンバーの問題にぶつかってしまう可能性もありますよね。その人が本当に信頼できると思ったけれど、じつはよくなかった、ということも、ないわけではないので。そこは本当に、たまには意識的に外に出るということをしないと、ダメなのかな、と思います。

古田 たしかに、そうですね。食べ物ならば、その手法は問題なく使えても、情報や知識の場合、エコーチェンバーに陥ってしまう危険性はありますね。辿り方はやはりどうしてもそこが課題になりますね。外れ方というか、ズレ方というか、外への行き方が。

川瀬 あと、たくさんの本のすべてを読むのはたいへんかもしれませんが、たとえば、たくさんの本の序論と目次だけでも目を通してみるとか。そういうことならできるかもしれないですね。

古田 でも、波長が合うというのも、考え方が合うというだけではなくて。文体が合う、合わないというのもあるのかなと思っていて。良い本に出会うための具体的な方法って、端的に言ってしまうと古典はいいわけですね、レビュー的にも(笑)。やっぱり、汲みの尽くせぬ、さまざまな読み方ができて、さまざまな発見がある本というのがあって。古典と呼ばれるものの多くがそういうものなので。それはいいと思います。

なぜ波長のことを言ったかというと、僕の場合、合う古典と合わない古典があるんですよね。とりわけ文体というか、書きぶりみたいなところで。「この人の本はたしかに難しいんだけれど、なぜか読める」という本もあるし、他方では「すごく面白いことが書かれているんだけれど、どうしても読み進められない」みたいなことがあって。それは、なにかこう、文体の波長みたいなものがあって、合う、合わないがあるような気がしています。

たとえば哲学にこれから触れるっていうときに、ある古典を読んで「やっぱり、これだから哲学はダメなんだ」と。そこで判断してしまうのはもったいなくて。もう少し長い目で見て。いくつか読むと全然、書きぶりが違うものもあるので。文体的な意味で波長が合う古典というのが、どこかに必ず、何かあると思うんですよね。だから、そこから入っていくというのも、ひとつの手かなと思います。

僕にとっては、ウィトゲンシュタインがまさにそうで。決して簡単ではないんだけれど、わりと合うというか、そういう意味では読みやすい。でも、他の哲学者の何人かに関しては、すごく重要だと思うんだけど、どうもうまく読めない。で、解説書を頼る、ということが実際にあるんですよね。

川瀬 本当にそうですね。


〈編集後記〉
もっともっとご紹介したい語りがたくさんあったのですが、今回は読みやすいところをコンパクトにお届けしました。ふたりの哲学者が語らった「未来を選びとるための哲学の話」が、あなたの日常のお役に立てば幸いです。まずは川瀬さん、古田さん、おふたりのご著書に「主導権を委ねる」ことで、日々の生活に少しだけ、光が差すかもしれません。

協力/本屋B&B
構成/仲本剛


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