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【光文社:新人研修レポート①】もう気まずくない現代思想

どうして私が現代思想を学ばないといけないのか

ある花の名前を一つ覚えるとする。次に道を歩いていてその花と遭遇すると「これはウキツリボクだ!」と思う。
名前を知るだけで、他人の植えた花が「実は以前別の場所でお目にかかったことがありまして!」というくらい親しみのあるものになる。そんな思いで日々楽しく生きている。
要するに、何かを知ったらその後面白くなることが増える気がするのだ。
たとえば現代思想だ。教養の一つとして知っておきたい、という気持ちはずっとあった。

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最近覚えた花:浮釣木(ウキツリボク) コロナの外出自粛で使う機会がない。

もう一つ、現代思想といえば、私がサブカル好きの端くれである以上、知っておかないとまずいもの、という思い込みにも似た強迫観念がある。
サブカルっぽい見た目で、サブカルっぽいライフスタイルなら、哲学くらいわかっといてくれよ!という一方的な期待。
そんな勝手な思いを他人に抱きつつ、さらに、自分もそう思われているに違いない!という過剰な自意識。実際に友人同士で話題がその方面にいくと、聞き役に徹してどうにかその場をとりつくろい、そろそろなんとかしないとやべー、と帰り道で「ドゥルーズ 入門」とググる人生だった。


しかし、実際にさあ現代思想を学ぼう、と思ってもなんだか身が入らない。
大学時代の「現代思想」の授業はヒッチコックの『めまい』とアニエス・ヴァルダの『落ち穂拾い』を観た記憶しかない。
授業は無理でも本なら逃げない、と分厚い哲学書を大学図書館で借りては「今日は読むかもしれない」と鞄に入れて、家から大学へとせっせと運んでいたが、読みはしない(正確には第1章の数ページで挫折)。さらに本の重みで慢性的な肩こりに悩まされ、いつしか借りることもやめた。
明らかに、授業にせよ本にせよ、逃げているのは現代思想ではなく私自身であった。

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ナンシーの『恋愛について』に感動して、本業の哲学も!と意気込んで買ったが読めていない『無為の共同体』。

現代思想のパフォーマンス

さて、そのような苦手を克服するきっかけとなったのが本書『現代思想のパフォーマンス』である。

まず、圧倒的に読みやすい。
我が家の積読コーナーに隔離されがちな、哲学書特有の無味乾燥な文体と違い、かじりつくように味わって読めるのである。
石のような重さでもないので持ち歩いても苦にならない。
もちろん、この一冊で現代思想について完璧にわかった!と思ったわけではないが(というか思わない方が良いだろう)、
少なくともシーシュポス的だった哲学への道がやっと開けた実感があった。
これは間違いなく、本書の「実践編」のおかげである。
哲学に限らず何事も覚えたら使わないと、なんだかよくわからないまま終わってしまうことが多いが、本書では身近な映画や書籍を引用して、哲学を使った解釈を披露してくれる。この実践編がすごく面白いのだ。

ロラン・バルトの章で、映画には

 ①迎えに来る意味:自明であり、それ以外の解釈を許さない意味
 ②探しにゆかないといけない意味:なんのメッセージも読み取れない断片をつなぎ合わせ、解釈しようとして初めて見えてくる意味

があり、②にこそ映画の価値があるという。
そして②を、即『エイリアン』で実践してくれるのだ。
なぜ授業で『めまい』を見せられたのか全く理解していなかった私にとって、哲学が映画の解釈に使えるというのは、大いなる発見であった(しかも面白い!)。
個人的にはレヴィ=ストロースの章で、贈与と返礼によって共同体を立ち上げるコミュニケーションのあり方という視点からの小津安二郎『あいさつ』の解釈が痛快だった。
哲学というのは、小津映画の「あぁ〜〜いいな〜〜」とぼんやり感じるシーンを、こうも鮮やかに理論的に納得できるように示してくれるものなのか。

言葉で世界を見る、言葉で世界を作る

本書でも紹介されるソシュールは、言葉は人間が現実を理解するための道具ではなく、言葉こそが人間の現実を作っていると主張する。
雪を細分化する言葉を知らない外国人にとっては、「雪」は見えても「粉雪」や「牡丹雪」は見えない。人間は、言葉の分だけ世界が広がるのだ。

だからこそ、このような「現代思想の言葉」を取り込むことで、世界の新たな形を見ることができるようになる。いま私は、もっと多くの本を読みたいし、映画を観たい。
本を読むこと、何かを知ることの楽しさはそこにあると思う。

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