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終戦から76年、「戦争の記憶」をどのように継承していくか。著者と編集者が語る『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』制作秘話

今日8月15日で終戦から76年。戦後75年という「節目」を過ぎたこと、コロナ禍の状況、東京オリンピック・パラリンピックの影響などもあり、戦争に関する話が伝えられる時間は例年よりも目に見えて減っています。
風化する記憶をどのように継承していくことができるのか。著者の庭田杏珠さんと、被爆体験者の証言を伝える活動「語り部の会」を毎月開いているシンガーソングライターのHIPPYさんが8月1日、2日に開催したオンラインイベントAnju「記憶の解凍」× HIPPY「語り部の会」の中から、庭田さんとこの本の共著者である渡邉英徳先生、担当編集者の高橋の鼎談の様子をお届けします。
※本記事は8月1日に配信された映像【「第 191 回 原爆の語り部 被爆体験者の証言の会」夏の特別編 川上清さん】より、鼎談部分(27分57秒~)をベースに構成しています。
※発言を文章に起こす際に若干の修正がございます。

編集者のメールが1日遅かったら企画は実現しなかった!?

庭田 今日はよろしくお願いします。

渡邉・高橋 よろしくお願いします。

庭田 昨年7月に出版した『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』という写真集の共著者である渡邉先生と、この本を編集した光文社新書の編集者の高橋さんにお越しいただきました。元々、高橋さんが渡邉先生のTwitterをフォローしていて、書籍化の企画を考えたんですよね?

高橋 そうですね。渡邉先生に初めてお会いしたのは2019年の3月でした。いま仰ったように渡邉先生のTwitterをフォローしていて、「74年前の今日~」という毎日のツイートを面白く見ていました。その流れで朝日新聞の記事を見て庭田さんの活動、たんぽぽ畑のカラー化写真もすごくいいなと思って。

これを写真集にできないかと思い、渡邉先生に「はじめまして」のメールを差し上げて、Twitterなどで出している写真を一冊の本にできませんかという話をして。翌日か翌週か、メールしてすぐのタイミングだったと思いますが研究室でお会いしたら、二つ返事で「やりましょう」と言っていただきました。

その時にもう、渡邉先生が「庭田さんという子がいて~」という話をされて、私も知っていたので、庭田さんの活動している広島の写真も入れて共著でやるのがいいとなりました。その時点で大まかな枠組み、こういう本ができたらいいねというイメージは共有できていたと覚えています。

庭田 なるほど。渡邉先生は高橋さんから打診を頂いた時、いかがでしたか?

渡邉 僕は結構気分屋なので、その翌日だったらもしかしたら引き受けてなかったです。

庭田・高橋 えっ…!?(笑)

渡邉 分銅を秤の片方に置いてくれたようなメールでした。庭田さんとの活動もまだ黎明期、1年経ったくらいで、この活動がどう結実するのかイマイチはっきりしていなかったところだったので、「なるほど、写真集!」と背中を押してくれました。

僕がTwitterにあげているのは、戦場の風景や焼け跡の風景。あまり明るくないカラー化写真が多い。それだけが戦争じゃなくて、主に庭田さんが当時から広島でやっていた、戦前の平和な暮らしがどんな風に破壊されてしまったのかということも強いメッセージ性を持つ。そういうことも高橋さんにお話しして、じゃあ一緒に本にしましょうとなりました。だから、高橋さんのメールが翌日に届いていたらこの本は出ていなかったかもしれない。

高橋 初耳です……(笑)

渡邉 その日たまたまチャンネルが合ったんですね。

庭田 渡邉先生はTwitterなどインターネット上の発信が主だったわけですけど、私のほうは広島で現地の方々と対話して、写真をカラー化する取り組みをしていました。渡邉先生から「写真集の話が来ている」とお聞きした時、私は受験生だったので、2019年じゃなくて次の年にしようということで2020年の出版になりました。

2020年は終戦からちょうど75年の節目の年でしたけど、戦争体験者にとっては75年経っても76年経っても、その人たちが背負ったものは変わりないです。ただ、2017年に濵井さんとお会いしてこの取り組みを続ける中で、今までお話したことがなかったけどカラー化写真を見ながら(当時について)初めてお話しできることがあったりして、75年という月日は戦争体験者の方にとって「語る」ことができるようになった年月だなとは感じられています。

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※庭田さんが高校1年生の夏、平和公園で濵井徳三さんと偶然出会ったことをきっかけに「記憶の解凍」プロジェクトが始まった

渡邉 なぜ高橋さんに「庭田さんも一緒に」と言ったのかというと、もし日付にそって戦争の進行が並んでいるだけの本であれば、世界史の中の「戦争」というストーリー、「大きな物語」しか入らないことになる。庭田さんは広島で、それまで世の中の人に知られていなかった個人のストーリーを紡いできたわけでしょう。2つの糸が絡み合いながら本が進んでいく構成になったのは、とても良かったです。

庭田 戦争というと歴史(の出来事)って感じがするけど、歴史ってよく考えると一人一人の物語があって、それがいつの間にか75年とかの時を重ねてくるうちに歴史になってきている。でも、歴史になった時に忘れられることがあります。例えば濵井さんや、中島地区の一人一人の方、緒方さんだったりの日常や暮らし、命、家族があったのは、重要なことだけど歴史の中に埋もれていってしまう。でも、対話をする中でそれがよみがえってきて一冊の本になった。(だからこの本は)歴史の資料集じゃなくて、どちらかと言えば個人のアルバムに近い感じが私にはします。

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1932年ごろ 中島地区(現在の広島平和記念公園)にあった、丸二屋商店の写真。元安橋と本川橋を結ぶ中島本通りにはたくさんの商店が建ち並んでいた。丸二屋商店は本川橋東詰め付近に所在し、石鹸と化粧品の卸問屋だった。新商品が出るたびにチンドン屋が雇われ、店頭を賑わせていた。
カラー化写真をとても喜ばれた緒方さん。しかし、どこか違和感が残っていた。対話を重ねるうち、看板全てが緑色だったという「記憶の色」がよみがえった。この看板は、父の手作りだという。緒方昭三提供

渡邉 高橋さんは構成を考える上で、そのあたりは意識されたんですか?

高橋 庭田さんと渡邉先生が取り組んでいることを掛け算すると、必然的に大文字と小文字(の歴史)の両方が入ってくることになると思うんですけど、どっちか片方だけじゃダメで。小文字だけでも、大文字だけでも。ストーリーという意味では大文字と小文字の両方がないと共感、自分たちが歴史を生きている感覚、先達の人の上に成り立っている感覚を抱くことは難しいと思いました。

悲惨な写真をあえて外す必要はありませんでしたが、空襲の写真だけが載っていても文脈がない。この本は片渕須直監督に推薦コメントをいただいてますが、映画『この世界の片隅に』のように、ストーリーがあって、(主人公の)すずさんじゃないですけど濵井さんなどいろんな方の人生がある中で大文字の出来事がある。そうする必要があると、最初の時点で思っていました。

AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争

片渕須直監督に帯の推薦コメントをいただきました

渡邉 この見開きとかはいい例ですね。5月4日と5月5日の写真で、特攻機が突っ込んでいるのは僕が、鯉のぼりは庭田さんが選んでカラー化している。戦争に対してどういう視点でとらえようとしているのかが、対照的に表れています。軍隊の一人の兵士の戦争と、子どもたちにとっての戦争と。

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高橋 同じ見開きにあるのは象徴的ですね。当時どういう気持ちで作ったのか、1ページごとにはぼんやりとしていますが、「こことここを隣り合わせにするのには意味があるんだ」と、夜遅くまでみんなで話したことを思い出しました。

庭田 デザイナーの方も交えて話し合いをする中で、ストーリーをもとに作っているけど、デザイナーの視点からは(流れが)止まらないようにとか、色がよりよく出ているもの(を選びたい)とかあって。私にとってはお話しを伺っている方たちの写真が特に前半にたくさんあるので、どういう風に入れるかは悩みました。

最後に置かれた「原爆投下1年後のカップル写真」

庭田 この白黒写真を書籍の最初に、カラー化写真を最後に置きたいという話は書籍を作る早い段階で高橋さんが言っていたと思うのですが、何か思いはあったんですか?

Part3_57(mono)※頭でも使用

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撮影:共同通信社

高橋 単純に、これが一番良い写真ですよね。撮影されたのも原爆投下、終戦から1年後。平たく言えば絶望と希望、過去と未来が表れていてものすごく象徴的。1枚の画が持つ力という意味でこれ以上の写真はないかなと。実際、渡邉先生がTwitterにアップした時にものすごい反響があったのも納得です。めちゃくちゃ良い写真だから使いたいなと思ってました。

先ほど片渕監督の『この世界の片隅に』の話を出しましたが、あの映画も終戦後の希望を予感させて終わるのがいいなと思っていて。この写真集も8~9割は戦前と戦争の写真だけど、戦後の未来に歴史が続いていく、その先に私たちがいることを想像させたかったので、この写真をおいて(ラストを飾るのは)他にないかなと。

庭田 今お話しを聞いていて、戦前があって戦時中に入って、戦後。それで私たちにつながってくる。今回新しく作らせてもらった曲の歌詞もそうなっています。モノクロの世界が対話によって、穏やかな日常があったことがわかることでだんだんカラーになっていって。それが今につながっていくのは意識していたところなので、(曲も)書籍と流れが本当に似ているなと思いました。

8月15日に完成版が公開されたMV「Color of Memory 〜記憶の色〜」

庭田 この写真を最初に発見したのは渡邉先生ですが、アメリカで見つけたんですよね?

渡邉 今思えば不思議な話なんですけど、2016年にハーバード大学へ客員研究員として滞在している時に「ぜひうちに見学に来てくれ」と連絡があったのがターニャ・マウス先生 。庭田さんも広島で会ったことがあります。

庭田 はい、一度お会いしました。

渡邉 被爆関係の資料がアメリカで最も充実している、ウィルミントン大学平和資料センターのディレクターです。そこで、何ということなしにこの写真が置いてあって。でも、高橋さんが言ったようにあまりにも良い写真すぎて、その時はただスキャンしてデータを持って帰っただけでした。それが2016年の夏。

2年後になって、カラー化を庭田さんと一緒にやり始めて反響も大きくなりつつあったので、この写真をカラー化してTwitterにあげたら2万リツイートくらいされたんですね。インプレッション数は600万くらい。その後はこの本にも書いた通りで、朝日新聞の記事になり、それをご覧になった共同通信の沼田清さんからお手紙を頂いてこの写真の詳しい情報が得られ、庭田さんと一緒に「news zero」の取材を受けて、この2人はダンスホールのお客だったんじゃないかと……。というのが本を出すまでにわかっていたことです。

庭田 この写真は福屋の屋上で撮られていますが、当時7階にダンスホールがあったからそこに踊りに来ていたんじゃないかということまでは、分かっていたんですね。

渡邉 あと、そこ(カップルの頭上)の建物が右近という旅館で、今も串焼き屋として営業している。実際に我々も行きました。店主の方とお話ししたり。

でも、高橋さんはそういうエピソードがあるからこの写真を最初と最後に持ってきたわけじゃないですよね?

高橋 はい、全然そんなことはないです……私も右近さんは行きましたけど(笑) 画の力で純粋に選びました。

庭田 渡邉先生はこれを最初にカラー化した時、資料などを参考にしたんですか?

渡邉 アメリカ軍が同じくらいの時期にカラー写真を撮っています。カラーフィルムを持っていたから。それは赤茶けた感じの色だったので参考にしたのと、もうひとつは、焼け跡を見つめるカップルの未来に向けた希望という意図でカメラマンはきっと撮っているから、その通りにイメージして色を付けています。だから焼け跡がすごく明るい色になっている。

映っている人たちの視点で見た終戦1年後ではなく、マスメディアが語ろうとしている「復興を目指そうよ」というメッセージのほうに寄り添った着彩をしている、ということでしょうね。

庭田 カップルの2人よりも、この写真を撮影したカメラマンの目線。

渡邉 世界が2つの軸で作られているとしたら、客観的、外から見た目線で僕は色を付けています。

庭田 先ほどの話だと、高橋さんも(この写真から)復興や希望を感じられるということなので、客観的な目線に近いですか?

高橋 写真は見る人によって感じ方も変わるし、こう見てほしいというものはない。だからこの写真集もなるべく説明を最小限にしています。なので、あくまで私の考えですけど、単純に2人を応援したくなる写真ですよね。74年前の写真だけど、思わず「がんばれ!」とエールを送りたくなる。だから私もカメラマンの気持ちというか、レンズをお借りして覗いているような感じです。

渡邉 庭田さんも覚えているかもしれないけど、表紙写真の候補にもなりましたね。ただ、表紙にすると茶色一色で冴えない。

庭田 みんながこれを見て戦前・戦争の様子を知りたくなるかというと……これだけを見たらわからない。でも、エピソードを含めて知ればそういう気持ちになりますよね。

渡邉 僕らはみんな「いかにも」な写真だと思っていました。本当に良い写真過ぎるので、モデルなんじゃないかとか、なんとなく2人の正体にたどり着きにくい。人物そのものではなく、こういう景色を撮りたかったようにも映る。「点景」に見えるというか。

庭田 中島地区の方にこの写真を見ていただいた時、戦後当時にカップルが2人で街を歩くことは考えられないから、カメラマンが連れてきたんじゃないか、指示をして撮影したんじゃないかと(話していました)。

出版後に起きた小さな奇跡

庭田 それで、この書籍を出版したらある方から連絡があって……。私の恩師がFacebookで紹介してくださったら、恩師の知人から、ここに映っている男性がご存命であることを教えてもらいました。直接お話ししたいと連絡を取ったところ、その方は(現在)91歳の川上(かわうえ)清さんで、女性は後に妻となる川上百合子さんだとわかりました。

庭田 お話しを伺う中で、渡邉先生がかなり時間をかけてカラー化された「片山写真館の夕涼み」との関係が……。

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大正末期の『ひろしま広報』に「片山写真館夕涼み」と題して掲載された写真。「片山写真館」のスタッフと家族が、夜の産業奨励館(当時は「商品陳列館」。現在の原爆ドーム)とともに写っている。この時代においては、館に電飾が施される機会があったことが分かる。片山曻提供

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1939年 片山曻さん、姉の百合子さん、弟の髙さん。背後に広島県産業奨励館が写っている。当時、この付近の元安川沿いは埋立地(通称「砂浜」)だった。片山さんは、髙さんのそばの下駄をみて「下駄隠し」で遊んだことを思い出した。そして、きょうだい3人ともに、戦争に向けて暗くなっていく世相を感じ、寂しそうな顔をしていると話した。片山曻提供

渡邉 夕涼みの写真とこの写真は僕が唯一、戦争体験者の方に聞き取りをしています。

庭田 これは片山曻さんが提供してくださっている写真なんですけど、片山さんが東京に住んでいらっしゃるので、渡邉先生がお話を伺いました。でも、その時にはこの女性が(後に川上清さんと結婚して川上百合子となる)片山百合子さんだとはわからなかったんですよね。

渡邉 全然わかんないよね。

庭田 ご自宅に残っていた他の写真を見たら百合子さんにそっくりでした。川上さんに見ていただいても間違いないだろうということで、この写真の身元が分かった。

渡邉 高橋さんはこの展開も全部わかってたんですよね……?(笑)

高橋 まさか(笑)

庭田 最初にその恩師の方からお電話を頂いた時は、どこがどういう風につながっているのか、意味が分からなくて驚きました。川上さんのご自宅に伺ってこの本をお見せしながら話したんですけど……渡邊先生がカラー化された際には希望とか復興が感じられるとお話ししていたと思いますが、川上さんは家族こそ存命でしたが友人など大切な人を失った悲しみがあって、当時デパートの屋上に登った時点ではそういう復興や希望は感じられていなかったそうです。

どこを見ていたのかお聞きすると、自宅の方向を眺めながら過ごしていたそうです。カメラマンに「ここに立ってください」と指図されていたわけではなく、自宅の方を見ながら百合子さんと話していたと。2人は戦後に出会って、福屋の屋上はデートコース。2人とも悲しみを抱いていたけど、清さんは牡蠣の養殖をしていたので「そこから広島の復興を支えていたんじゃないか、今振り返ればそう思う」と仰っていて。焼け跡になった街を見て悲しみに押しつぶされそうだったけど、でも2人で過ごす時間はすごい幸せだったと話してくれました。

百合子さんが着ていた服の色をお聞きすると、薄いブルーのものをよく着ていたと。ご自身も帽子をよく被っていて、ご自宅の他の写真は大体帽子を持って映っていたので、(この写真は川上さん夫婦に)間違いないとなりました。黒いズボンに黒いズックを履いていたことなんかも鮮明に覚えていらっしゃって。川上さんという、この写真に映っている男性に「記憶の色」の話を伺えたのはすごくよかったと思います。

渡邉 僕がこの写真を一番好きな理由は、庭田さんも僕も、あるいはこの写真にかかわった全ての人がちょっとずつ力を出しているところ。なぜかこの写真をアメリカに持っていった人が七十何年か前にいるでしょ。ずっと保存していたウィルミントン大の人。たまたま見つけてカラー化してツイートした僕。共同通信の沼田さん。本の前と後ろにあしらった高橋さん。最後の最後に川上さんに聞き取りをして色補正をした庭田さん。「記憶の解凍」全部入りになっている。いろんな人が自分では気づかないうちに少しずつ手を貸していって、最後に持ち主の元に戻ったのがものすごいことだなあと。しかも(川上さんは)超有名人というわけではなく、「とある方」。奇跡的なストーリーなんだけどすごく慎ましくて、素敵な気持ちにさせられるお話し。見るたびに自分の心を改められる気がします。

庭田 川上さんにお話を伺うと「こんなに明るくなくて、もっと暗っぽかった」と話されていたので、それとお洋服の色なんかを含めて写真をカラー化しなおしました。

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渡邉 面白いよね。本には入ってないけど、まだ。でもこれも、本になってなければたどり着いてないのがすごいことだよね。Twitterとか新聞であれだけ話題になったと思っていたのに、川上さんには届いていなかったわけで。

庭田 川上さんも当時、カメラマンに自分のご住所まで渡して「届けてください」と仰ったみたいなんですが、届けてくれなくて……(笑)  それが巡り巡って74年ぶりにご本人に届いたのは一種の奇跡。でも何かがつながっているようなものを感じます。

渡邉 一人一人はそんなことがしたくてやったことではないのに、いつの間にか糸がつながっていった。

記憶の継承という課題

庭田 百合子さんは昨年の春に亡くなられていたので、当時の様子を伺えませんでした。他には高橋久さんも昨年の10月に亡くなられましたし、表紙に使われている写真を提供された諏訪(了我)さんももう亡くなっているので、今というのは限られた時間なんだなと感じています。だからこの書籍と出版後のエピソードを知ってもらって、手に取ってくださった一人一人に、身近な戦争体験者の方と話をしていってもらえたら。それをまた発信してもらうことが重要だと思います。

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1936年 中島本町にあった生家の「高橋写真館」で撮影された、家族と親せきの夏の団らん。現在の原爆供養塔の東隣にあった。久さんによると、スイカの皮を被っているのは久さんご自身であり、フラッシュが眩しかったからとのこと。右から2番目は母のよし子さんである。高橋久提供

渡邉 他に映っている写真の人々にも、それぞれのストーリーが本当はあるんだよね。

高橋 この本にも書かれていますけど、戦争体験者がお年を召されてどんどん亡くなっていく現状があります。やっぱり話を聞いたり写真を頂くことも難しくなってくるので、やり続けなきゃいけないことですね。

庭田 2021年という今、イベントを企画しているわけですけど、カップル写真にとっては1946年だから、被爆1年後から75年の「1+75」年であり、私たちが1945年を起点に考えると、終戦75年から1年の「75+1」年です。

渡邉 (75年目の節目から)一歩を踏み出そうと解釈もできるかもしれないね。

高橋 メディアの人間的には節目ばかり見がちなんですけど、1年単位、1日1日の積み重ねにたまたま「75」の数字がついたりするだけだと思うので。ある日急に、75だから何かが変わるなんてことはないし。少しずついろんな人といろんなやり取りをしながら積み重ねていくことが大事なんじゃないかと思います。

庭田 似たような話では、今年は東日本大震災から10年にもなります。被災地の方のインタビューを聞くと、10年ということではなく、東日本大震災があったことを忘れないでほしいと話していました。それは戦争とも通じるところがあるなと思います。

渡邉 遠くなればなるほど、数字のほうに目がいっちゃうようになるよね。次は80年かなとか、そういう言い方をするようになってしまう。なるべく今と連続して捉えてほしい。そういう意味では本になったのは良いことで、出版から1年経っても変わらずあるよねって。ツイートは消えちゃうし、展覧会も来なかった人にとっては過去のイベントになっちゃうけど、本は少なくともいろんな人の家や図書館にずっとある。庭田さんが言った、いつまでもこの時代を思い出すためのトリガーを提供できたような気はするね。

庭田 本が届いた一人一人が受け取ったものを、その人の形で発信していくのが「継承」につながってくると思います。

渡邉 図書館にあるよ、きっと。色あせて手あかがついてるかもしれないけど。本はそういう意味だと素晴らしいね。

庭田 高橋さんにこういう機会をいただいて、本当にありがとうございました。

高橋 こちらこそです。

渡邉 戦後80年でも消えないように。

高橋 戦後100年になって我々も生きているかどうかわからないですが、確実にその日はやってきますし、100年経ったから「じゃあ、おしまい」ではない。

庭田 ずっと継承、つなげていくことが大切ですね。

【IMFORMATION】
『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』は第11回広島本大賞を受賞しました。受賞に際して、帯をリニューアルして販売中。


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