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第二章 21世紀の「談志全盛期」の始まり――広瀬和生著『21世紀落語史』8642字公開

※第一章はこちらからご覧ください。

「志ん朝の分も頑張るか」

「志ん朝の死」という悲劇に打ちのめされた落語界にあって、俄然ファイトを剥き出しにしたのが立川談志だった。

志ん朝の死に際し「志ん朝の不幸はライバルがいなかったこと。自称ライバルはいたが、真のライバルはいなかった」と書いた作家がいた。「談志ファンは志ん朝も聴くが、志ん朝ファンには談志嫌いが多い」とはよく言われることだが、この作家はまさにそのタイプ。「自称ライバル」とは明らかに談志を念頭に置いての皮肉で、志ん朝在りし日からこの人は「志ん朝にライバルがいないのは良くない。志ん生になったつもりの自称天才はいるが、実質が伴わない」などと書いていた。

だが、若き日から互いを認め合ってきた談志と志ん朝の間には、当事者にしかわからない様々な想いがあったに違いないし、キャリアを通じての「談志・志ん朝」の関係性を、客観的に見て「ライバル」と位置付けるのは何ら不自然なことではないと僕は思う。

談志没後の2012年に出た『DNA対談 談志の基準』(立川志らく・松岡弓子/亜紀書房)という本の中で、談志の長女である松岡弓子氏が、こんなエピソードを明かしている。談志が亡くなる数年前に彼女はテレビで初めて志ん朝の『火焔太鼓』を聴いてその素晴らしさに感激し、談志に電話してそのことを伝えたところ、談志は「いいだろう? 俺、涙出てきちゃったよ」と言ったというのだ。

この「志ん朝の『火焔太鼓』に涙した」件は、談志が晩年の著書『談志 最後の落語論』(梧桐書院/2009年)で自ら書いている。

「暮れにテレビを見ていたら(略)〝その頃の芸人〟が大勢出ていた。(略)みんな〝上手く〟演(や)っている。(略)けど、面白くない。(略)最後に志ん朝が出た。助かった。『火焔太鼓』を演っている。涙が出てきた。志ん朝、助かったよ、これが落語なんだ。これがちゃんとした落語なんだ。私の演ってきた落語とは違う。けど、これが落語というものなのだ。志ん朝の明るさ、綺麗さ、落語のテンポ、文句ない。これは何度も書いたことだが、もう一度書く。もし、この談志が金を払って落語を聴かなければならないとしたら、志ん朝しかいない」

談志は志ん朝が亡くなる前日の2001年9月30日、千葉で開催された「圓歌(えんか)・志ん朝二人会」に、病気療養中の志ん朝の代演として出演し、マクラで「俺が志ん朝じゃなくて圓歌の代演だったらよかったって思ってるだろ?」と言って笑わせた。

翌日、NHKに仕事で出かけた談志は志ん朝逝去についてのコメントを求められ、「いいときに死んだよ。良かったよ」と言った。

当時の談志は、翌年1月から順次刊行されることになる『立川談志遺言大全集』(講談社/全14巻)の執筆に取り組んでいた。その第14巻『芸人論二 早めの遺言』の第一部「狂気と破滅と芸の道」は第七章までで成り立つ芸人論だが、その第四章は「志ん朝へ」と題され、丸々一章分、志ん朝のことを書いている。

この「志ん朝へ」は、現代の作品派の最高峰としての志ん朝の課題について触れ、「〝病気になった〟と聞いた。病床でゆっくりと楽しむべきだ、とアドバイスまで」と締めくくった後、段落を変えて「と書いたら、志ん朝が死んだ」と続く。ここで談志は、NHKでのコメントの真意を説明している。

志ん朝の華麗な芸が肉体の老いと共に衰えていくのは見たくない。肉体の衰えを精神で補うことが出来たかもしれない、という仮定の話をしたところで、死んだ者が生き返るわけではない。「惜しい」と言ったところで、もう落語は演れないのだから、「これで充分だよ、良かったよ」と言ってあげたほうが、当人は安心できるのではないか。だから「いいときに死んだよ」とコメントしたのだ、と談志は言う。志ん朝の華麗な芸を愛した談志ゆえの、最大級の敬意を込めたコメントだったのだ。

ちなみに、スポーツ新聞などに寄せた談志のコメントは以下のとおり。

「志ん朝の芸は華麗で元気いっぱいなところが魅力だったが、最近それが欠けているというので気にしていた。現在の演芸で金を払っても見たいというのは志ん朝だけ。志ん生を継いだときには口上を述べてやると約束していたので、継げなくなったのは残念だが、現在の落語界で最高の芸を見せた見事な人生だったと言ってやりたい」

「志ん朝へ」の中で談志は「落語の本道(略)をやって、家元を反省させてくれるのは、志ん朝だけだと思っていた」「ああいう噺家が、もっといたら落語界は談志の御託を許さなかったかも知れない」と書き、「綺麗な芸を残して見事に死んだ。結構でしたよ」と志ん朝を讃えている。

志ん朝が亡くなって1ヵ月後の2001年10月31日、西新井文化ホールでの独演会で談志は「志ん朝の分も頑張るか」と言った。それまでの数年間、落語の高座よりも執筆など多方面での活躍が目立っていた感もあった談志だが、志ん朝の死を境に、明らかに落語の比重が高まった。ライバルの死によって、天才が覚醒したのである。

大ホールでの独演会を即日ソールドアウトにし、高座で特大ホームランを連発する談志の〝全盛期〟が、ここから始まった。

幻の「談志・志ん朝二人会」

談志が志ん朝に真打昇進で抜かれた悔しさに関しては、談志自身何度となく書いているし、それが三遊亭圓生を戴(いただ)いての落語協会分裂騒動や立川流設立などにも関係している、とも言われている。

二ツ目の柳家小ゑん時代から売れていて評価も高かった談志は、5年遅れで落語界に入ってきた「志ん生の倅」古今亭朝太(後の志ん朝)が、たとえテレビドラマなどでタレントとして売れていて芸も見事だとはいえ、まさか自分より先に真打になるとは思わなかっただろう。

落語家にとって、真打になった順番がそのまま香盤(こうばん)の序列になり、それは生涯変わらない。36人抜きで真打昇進が決まった志ん朝に「真打断れよ」と談志が直談判、志ん朝はそれを撥ねつけた、というのは有名な話だ。

1978年の圓生による新協会構想の中心にいた談志が、「次の会長は談志ではなく志ん朝」との圓生の発言に腹を立てて落語協会に戻ったことについては、三遊亭圓丈(えんじよう)の『御乱心』(主婦の友社)、立川談之助の『立川流騒動記』(ぶんがく社)、志ん朝一門の『よってたかって古今亭志ん朝』(文藝春秋)、川戸貞吉氏の『新現代落語家論』(弘文出版)、吉川潮氏の談志インタビュー『人生、成り行き―談志一代記―』(新潮社)といった書籍で、それぞれの角度から語られている。

談志が新協会での序列にこだわったのは、真打昇進時に「抜かれた」ことが尾を引いていたから、というのは自身も認めているところだが(談志によればこのときも談志は志ん朝に「俺に会長を譲れ」と持ちかけたが拒絶されたという)、志ん朝はこのとき談志が協会に戻ったことを「裏切り」と捉え、直接談志に抗議している。(その間の事情は談之助の著書に詳しい)

結局、自身も協会に戻ることになった志ん朝はこの一件で深く傷つき、談志を恨んだともいう。だが、そんな談志に対するわだかまりも、年月が経つにつれて消えていった……と、これは『よってたかって古今亭志ん朝』での弟子たちの証言だ。

『立川談志遺言大全集14 芸人論二 早めの遺言』の「志ん朝へ」では、数年前に志ん朝から「協会へ戻ってくれないか」と頼まれたこと、「二人会をやろう」と提案されたこと、「志ん生になれよ」「兄さん、口上を言ってくれるかい」「喜んで言うよ。だけど、もう少し、上手くなれよな」という会話があったこと等が明かされている。

協会復帰も二人会も志ん生襲名も実現しなかったが、志ん朝の晩年に二人がこうした会話を交わす間柄になっていたことに、ファンとして感慨を覚えずにはいられない。

「なぜ会長にならないんだよ」「だって、圓歌さんが譲らないんだもの」「とりゃいいじゃないか」「そうはいかないよ」なんて会話もあったという。志ん朝の企画による浅草演芸ホールの住吉踊りに誘われ、その後一緒に飲んで「兄さん、久しぶりで旨い酒が飲めたよ」と言われたこと、2年ほど前に「兄さん、俺のコート着てくれよ」と和服のハーフコートをプレゼントされたことも書かれていた。

その「志ん朝へ」で、談志はこんな言い方をしている。

「志ん朝、いい時に死んだよ。いろ〳〵と想い出を感謝。でもまさか志ん朝が死ぬとは……、いや人間、いつかは死ぬものなのだ」

この「まさか志ん朝が死ぬとは」に、当時の談志の思いが集約されているように思う。

談志にとって、同時代に活躍する落語家として志ん朝が存在したことは、きわめて大きな意味を持っていたに違いない。「作品派」の頂点に志ん朝を位置付け、自らはそれとは異なる「己(おのれ)派」の道で頂点を極める……そうはっきり意識したのはいつなのか。『人生、成り行き―談志一代記―』で語っているように、「政務次官をしくじった談志」を寄席の客が大歓迎するのを体験し、「今の芸は上手いか拙いかより演者のパーソナリティだ」と痛感した(談志曰く「芸に開眼した」)ときかもしれない。ともあれ、談志は「志ん朝には出来ない落語」を追究することに生涯を賭けていた。

「誰よりも落語を愛した」談志は、「理屈抜きに上手い落語」を体現する演者としての志ん朝の存在があればこそ、自分は安心して「業の肯定」だの「イリュージョン」だのといった落語論(自身の表現で言えば「御託」)を述べる家元としての道を歩むことが出来たのだと思う。

生前の志ん朝に対して談志が「人間が描けてない」などと批評した(さらには面と向かって「もっと上手くなれ」と言った)のは、志ん朝に「有無を言わせぬ上手い落語」を極めてほしいという、切なる思いがあったからこそだろう。

「談志落語」と「志ん朝落語」。同時代に生きた僕たち落語ファンにとって、その2つは「対」になっていた。

山本益博氏の著書『立川談志を聴け』(プレジデント社)には、同氏のプロデュースで2000年末までに「談志・志ん朝二人会」を開く構想があったと書かれており、それは二日間で2人が『富久(とみきゅう)』『文七元結(ぶんしちもっとい)』を交互に演じるという企画だったという。まさに、こういう「聴き比べ」で落語の真髄がわかるのが「談志と志ん朝」という「対の存在」だった。(言うまでもなくこの企画は実現しなかったわけだが……)

談志は志ん朝の死を「若い頃から『談志・志ん朝』と称された相方の死」と表現している。その相方が「まさか死ぬとは」。この衝撃は談志にとってどれほど大きかったことか。

「一人になってしまった」談志が当時、高座で「志ん朝の分も頑張る」と口にしたのは本心だろう。もはや「どちらが上か」を競う相手は存在しない。はからずも頂点に立ってしまった者としての孤独を覚えつつ、談志は自分の落語ともう一度向き合い、唯一無二の「談志落語」を極めようと、決意を新たにした……というのは推測に過ぎないが、ここからの談志の活躍ぶりを目の当たりにした追っかけファンの一人として、僕にはそう思えてならない。

「落語をやめられっこない」

今となってはもう忘れ去っている人も多いと思うが、立川談志は2000年1月に「俺はあと2年で落語をやめる」と宣言、ファンを驚かせた。

もちろん、結果から見れば談志は落語を「やめる」どころか、2011年に声を失うまでは、(「もう駄目だ」などと言うことは多かったけれども)高座を務め続けた。いや、「高座を務めた」というより、「立川談志であり続けた」と言うべきだろう。談志は「誰よりも落語を愛した男」であり、様々なドキュメントも含めて、最後まで「落語家」だった。

ただ、2000年の時点では、健康面の不安から相当落ち込んでいたのは事実のようだ。例えば、談志は2000年3月をもって、長年続けた「談志ひとり会」を終了させている。

1965年に紀伊國屋ホールで開始、1987年からは国立演芸場に場所を移した「ひとり会」は談志にとってホームグラウンドであり、ファンにとっては〝聖地〟。それをやめるというのは、「2年後に落語をやめる」宣言以上の衝撃だった。

2000年に入ってからの、ラスト3回の「ひとり会」のプログラムには、当時の談志の心境が(〝照れ〟から自嘲的な表現が多い談志らしい筆致ながら)率直に綴られている。

1月のプログラムを見てみると、談志は「もういい、もう疲れた」「あとは人生の整理である。未練を言ったらキリがない」「体力が精神の言うことを聞かなくなった」と書き、この後どうなるかは「人生成り行き」として、「2000年正月、いい区切りでもある」と結んでいる。

2月のプログラムでは「〝老人は捨てられるもの〟、それが〝現代に居座ろう〟というムリ……これがヒシヒシと家元自身に感じるのだ」と書き、「ひとり会もあと2回……立川談志、伝統の世界では生きられないのだ」と結んだ。

そして最終回。すべてのことがつまらなくなったという談志は「落語とて疲れている。普段ふと思いつくときには〝面白いな〟〝こうやりゃいいんだ〟等々はあるけれど……これまた疲れる」と言い、落語を続けてないと駄目ンなっちゃうよと忠告する人もいるが「言ったって聞かないよ、聞くもんか。人生そういうもんなんだ」と言う。

もっとも、その直後に「言っとくが別にもう〝やァめた〟と決めた訳でもないが」と書いているので、談志自身揺れ続けていた時期なのだろう。「人生惜しまれて去る」という表現も見られる。

2002年以降の談志は「あと2年で死ぬと決めて、2年単位で生きることにした。2年後にもし死んでなかったら、その2年後に死ぬものと決めて、次の2年間を生きる」という〝2ヵ年計画〟を口にするようになった。2000年1月の「あと2年で落語をやめる」宣言も、その〝2ヵ年計画〟の前身(?)のようなものだったのかもしれない。2002年1月から順次刊行されていくことになる『立川談志遺言大全集』全14巻も、その一環として見るとわかりやすい。

雑誌『東京人』2001年11月号では「落語いいねえ!」と題する落語特集を組んでおり、そこには川戸貞吉氏による談志のロングインタビューが掲載されていた。見出しに「俺は落語をやめられっこないんだ」とある。

その中で川戸氏に、2年前の「俺はあと2年で落語をやめる」宣言は本心だったのかと訊かれた談志は、こう答えている。

「本心ってのは、難しいもんだね。例えば、こいつとは二度と会わないって思う。それは本心だ。でも、どっかで会いたい。(中略)その、会いたい、会いたくないということを考えることによって、自己をクリアにしているんですよ。落語に対しても同じこと。俺が落語をやめるとするとするじゃないですか。でも、いつかは落語をやりにいくと思うんですよ。それで、10年後に『この人昔、落語やめるなんて言っていたな』と思われるかもしれない。でも、毎度言うけど、精神と肉体の問題もあるでしょ。精神はやろうと思っていても、体がついてこられないかもしれない。それを技術によってやっていく方法もあるけどね」

そして川戸氏に「これだけ落語にのめり込んだ人が、すぐにはやめられっこないっていうのが、私の考えです」と言われると、談志は即座にこう応じた。

「やるよ。俺は、落語をやめられっこないんだ」

なお、この雑誌が発売されたのは10月3日。志ん朝が亡くなって2日後だ。この号には志ん朝と林家こぶ平(現・正蔵)の対談が目玉記事として掲載されていた。校了は発売日より10日ほど前だろうから、当然、志ん朝の死には触れられていない。

「落語をやめられっこない」と明言した談志が、『芝浜』の演出を大きく変えて自ら大いに満足したと川戸氏に語ったのは、この雑誌が発売されてから2ヵ月半後のこと。21世紀の「談志全盛期」の始まりだった。

落語を超えた落語

作家の色川武大氏が書いた有名な談志評に「談志の落語は60代をターゲットにしている」というものがある。1988年に書かれたエッセイの中にあったもので、正確には次のような言い方だった。

「(談志は)六十歳ぐらいになったら、まちがいなく大成する落語家だと思う。放っておいてもそうなる。彼自身、将来の大成にポイントをおいて、現在の高座をつとめているふしがある。だから、私は落語家談志の現状を、言葉でくくろうとは思わない。どんな高座をつとめていたって、見逃しておけばいいと思っている。出来がよくてもわるくてもいい。大きな能力というものは、完成がおくれるものだし、烈しく揺れたり脱線するプロセスがありがちである」(ちくま文庫『色川武大・阿佐田哲也エッセイズ3 交遊』所収「立川談志さん」より)

これが書かれた時点で談志は52歳。立川流創設から5年、ややもすると落語家というより「元国会議員の大物タレント」「文化人枠の毒舌タレント」といった位置付けに傾きかけていた(と世間には見えていた)談志に対して、いわゆる落語通から「談志は小ゑんの頃のほうが上手かった」という声が出始めていた時期だ。(ちなみに「談志ひとり会」1988年のプログラムを見ると、談志の代わりに2月は手塚治虫氏、3月は大林宣彦氏、4月は田村能里子氏、5月は山本晋也氏がエッセイを寄稿している)

談志自らが芸人としての自己の変遷を振り返って分析したところによると、50代前半は「落語に疑問を感じ始めた」時期から「落語の持つ非常識を肯定にかかる」時期への過渡期であり、持ちネタの再構築を始めた時期でもある。

要するに、談志はこの時期、試行錯誤を繰り返していた。実はその「試行錯誤」は終生続くのだが、そんな談志への「なんだ今の高座は、昔のほうが上手かったじゃねぇか」という声に対しての、色川武大氏による談志評が「今だけ見て語るな、60代の談志が楽しみだ」というものだったのである。

そして、その予言は的中した。60代で談志は「全盛期」を迎えることになる。

もっとも厳密には談志は1996年に60代に突入、2001年の段階ではすでに65歳だったが、助走が長くなった分、飛躍も大きかった。それまで「毒舌タレント」として世間に認知されていた談志は、志ん朝の死を境に「落語界の頂点に君臨する演者」として快進撃を始めた。「志ん朝が死んで落語の灯が消えた? 冗談言うな、俺がいるじゃねェか!」と、談志の「落語家魂」に火がついたのだろう。

「名演」を連発する「全盛期」の談志。その幕開けとなったのは2001年12月21日の東京・有楽町のよみうりホールにおける『芝浜』。この翌月、談志は川戸貞吉氏に「こないだキザな部分をいっさい演らず、ほとんどが成り行き任せ、ごくごく普通に『芝浜』をしゃべってみた。ところがそれが馬鹿に良かったんだ」と語り、「音が残っているものの中で最高の出来」と断言したという。

魚屋夫婦だけがそこにいる、21世紀の談志の『芝浜』の誕生だ。

このときの『芝浜』について、吉川潮氏は「この日は落語の神様が立川談志に乗り移って、登場人物に言葉を発しさせたとしか思えない。天才が葛藤を繰り返した末に行き着いた究極の感情注入によって、芸が神業まで昇華したとも言える」と絶賛、山藤章二氏も「人間大技を突き抜けた、鬼神がその身体に入り込んだとしか思えぬ〝気〟に圧倒された。『立川談志の到達点』をそこに感じた」と書いている。

これ以降、談志は次々に「名演」を連発、聴き手を圧倒する。その「談志ここにあり!」という気迫は新たなファン層を生み、それまでの狭い落語通の世界に見られた「アンチ談志」の風潮は、いつしか時代の波に飲み込まれ、消えていくことになる。

21世紀初頭に世間が落語というエンターテインメントを「再発見」したとき、その頂点には「全盛期」の談志が君臨し、落語の「凄さ」を見せつけた。立川志の輔や春風亭昇太に代表される「エンターテインメント性の高い落語」に魅力を感じて入門してきた人々は、高座に登場しただけで空気が変わる立川談志という特異な演者の存在を知り、「落語を超えた落語」の世界を垣間見たとき、落語という芸能の奥深さを実感したはずだ。

2011年3月に最後の高座を務め、同年11月に亡くなった談志は、今現在の「遅れてきた落語ファン」にとって伝説である。今なお談志という落語家に対する世間の関心は高い。それは、生前には本人の強烈なキャラに邪魔されて見えにくかった「落語そのもの」が客観的に評価されるようになったからでもある。だが重要なのは、談志が21世紀初頭の落語界において「スーパースター」だったということだ。

談志は、桂文楽や三遊亭圓生、柳家小さん、古今亭志ん朝といった「わかりやすい名人」の系譜にはない。むしろ異端とさえいえる。その「反逆児」が、あの落語ブームの頂点に君臨したことは、(本人が望むと望まざるとにかかわらず)落語というジャンルの可能性を大きく広げた。一昔前の「名人芸を極める」というイメージから大きく逸脱した談志の活躍こそが、20世紀とは一線を画する「21世紀の落語界」の空気感を生み出した。

かつて落語が「能のようになる」ことを阻止した談志は、「全盛期」の活躍で落語を「21世紀の芸能」として推し進めたのである。

(次回、第三章に続きます。水曜更新予定)


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