定年後と「的を得る」と「的を射る」
お正月に成毛眞さんの『金のなる人』(ポプラ新書)を読んでいました。秀逸なタイトルと、新書にしては手のかかったカバーに惹かれ購入した一冊です。成毛さんには、光文社新書でも一冊ご執筆いただいています。成毛さんのご著書は、刊行点数が多いので全部はフォローしきれていませんが、気になるテーマのものがあると読ませていただいています。
(すごいタイトルです)
(オビ写真は、成毛さんのご自宅の地下の書庫で撮影しています)
その『金のなる人』の中にドキッとする一節がありました。
老後に何も嫌いな仕事をする理由はない。好きなことをやればいいのだ。もし私が50歳で出版社勤めだったら、今日をもってその会社をやめ、まずは新潮社の校閲部に履歴書を送る。校閲者なら、70歳でも80歳でも働ける。定年になっても、外部校閲で仕事が山ほどある。だが、編集部にいて60歳の定年を迎えたら、その瞬間に終わりだ。今まで、超有名スーパー編集者たちが、あっけなく消えていくのを山ほど見てきた。
何となく抱いていた、将来の身の振り方をバッサリ斬られたように感じました。でも、当たり前のことで、毎年、多数の編集者が定年退職するのですから、すでに市場はダブついているはずです。しかも生きの良い、シュッとした若手もどんどん参入してきます。
そもそも社員編集者は、勤務先の力があってこそ上手くいっているケースも多いでしょうから、いきなり個人でプレーしろと言われてもなかなか難しいかもしれません。
実は私は今年50歳になります。定年後のことを考え、心が千々に乱れます。成毛さんのアドバイス通り、新潮社の校閲に履歴書を送ろうか……。(そもそもスーパーじゃないけど……)
さて、新潮社といえば、積読になっていた筒井康隆先生の『老人の美学』(新潮新書)をやはり年始に拝読しました。学生時代に筒井先生のご著書を読み漁った一人として、また老後の予習として、興味を惹かれるテーマです。
(とても良いタイトルです)
読み進めながら「おやっ」と思いました。以下の記述です。
六十三歳の時に書いた「敵」の中で、老人の孤独に関してだが、小生比較的、的を得たことを書いている。(『老人の美学』P69、7~8行)
気になったのは「的を得た」という表現です。通常、小社の校閲では「得」の部分に「射」というエンピツが入ります。「的を得た」ではなく「的を射た」ではないか、ということですね。朱字ではなくエンピツなのは、必ずしも誤りではないことを意味します。ただ、「的は得るものではなく射るもの」と認識していた私は、必ず「射」に訂正してきました。
しかし、筒井先生が「的を得た」と書かれ、新潮社の校閲がその記述を確認した上で通しているのですから、気になってググってみました。すると、以下のような情報が。
『三省堂国語辞典』編集委員の飯間浩明先生も次のように書かれていました。
驚きました。2013年の段階で誤用ではないという結論が出ていたのですね。不勉強でお恥ずかしい限りです。小社の校閲が朱字ではなくエンピツを入れてきた段階で、なぜエンピツなのかを確認すべきでした。この体たらくでは「老後は新潮社の校閲」も厳しそうです……。
ちなみに、実家に帰った際に「『的を得る』は誤用ではない」という話を父親や弟にしたところ、それはおかしいと大反撃を受けました。「あれだろ、誤用が定着したから認めただけだろ」とまで言われました。確かに最近、このパターンは多いですよね。
仮に、一般読者がこういう認識だとすると、校閲の指摘にどう対応すべきかが難しくなります。それなりに知識のある人ほど「的を射る」が正しいと認識しているはずなので、「得る」を放置すると、チェックが甘いと思われかねません。やはり「射る」に訂正すべきでしょうか……。
新年早々、一つ知識が増え、一つ悩みを抱え、老後への不安は高まる一方、という結果に終わってしまいました。