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「ファイナルファンタジーVII リメイク」異例のヒットの理由―『メタバースは革命かバズワードか~もう一つの現実』by岡嶋裕史

2章③ 仮想現実の歴史 

光文社新書編集部の三宅です。岡嶋裕史さんのメタバース連載の7回目です。「1章 フォートナイトの衝撃」に続き、「2章 仮想現実の歴史」を数回に分けて掲載します。仮想現実(≒メタバース)の歴史をたどることで、メタバースへの理解を深めていきましょう。

 今回は「ファイナルファンタジーVII リメイク」についてです。 

 下記マガジンで、連載をプロローグから順に読めます。

ファイナルファンタジーVII リメイク(FF7R)

 世界的な知名度を誇るRPGシリーズである。その中でも特に人気が高いファイナルファンタジーVII(FF7)をリメイクした作品で、2020年4月10日にプレイステーション4をプラットフォームにリリースされた。その累積売上はまたたく間に500万本を超え、リメイク作品であること、オリジナルのFF7のうち序盤部分のみを扱った分作であること(「さいしょの街」であるミッドガルを出ていない)を考慮すると異例のヒットとなった。

 オリジナルのFF7は1997年の発売で、プラットフォームはプレイステーションだった。当時のゲーム用コンシューマ機の処理能力では、まだ3Dを駆使したゲームの開発は難易度が高かったが、そこにあえてファイナルファンタジーというビッグタイトルで挑んだのがFF7である。

 キャラクターの解像度や動作、戦闘や探索のインタフェースは、いま振り返ればお世辞にも洗練されているとは言いがたい。当時もプレイ中に戦闘などの難易度とは異なるやりにくさ(単純に道が見つけにくいなど)を感じていた。

 でも、利用者は熱狂した。平面で展開されていた「もう一つの世界」が、一つ次元を上げて自分たちの前に現れたのである。もう一つの世界を感じ取るための情報は増え、没入感はいやが上にも向上した。

 FF7は重厚なストーリーを持つコンテンツだが、メインのシナリオはそっちのけで、ゲーム内のテーマパークに入り浸って月単位、年単位の時間を過ごす人もいたのだ。みんな仮想現実の中で、好きなことを見つけ、好きに生きていた。

 それが、20年の時を経てリメイクされたのである。

 この20年のあいだに、コンピューティングを取り巻く環境は劇的に変化した。CPUの能力は比べるのもばかばかしいほどである。単位時間あたりの処理能力は桁が4つか5つは違っている。中央処理装置としてのCPUのほかに、(CPUから描画機能だけを切り出した)GPUも当たり前に使われるようになった(プレイステーションでは初代から搭載されていた)。ヘッドマウント型のVRもかなり普及し、音響はステレオ2chから、劇場では64chも使われるようになった。家庭用でも7.1chが一般化している。

 FF7RはVR対応のコンテンツではないので、最先端の技術を使って仮想世界を体験させているわけではない。プラットフォームがPS4であるから、たかだか1920×1080ドットのいわゆるフルHDに対応しているだけである。

 2021年6月に登場する、追加エピソードを同梱してPS5に対応させたインターグレード版でも、フレームレートを落とした遊び方(1秒間に表示する画像の枚数をテレビ放送並みに抑える)で4K(3840×2160ドット)である。

 VR HMDでリアルな没入感を得るには片目で16K(HMDでは左目用と右目用に別々のディスプレイが用意される)、両目で32Kは欲しいと言われており、実際に両目8Kの製品は市場にも出回り始めているので、それに比べればなんてことのない解像度である。

AIの多用

 それでも、FF7Rの感触は圧倒的だった。戦闘が美麗だとか、移動がスムーズだとかいうだけでなく、NPC(プレイヤーが操作しないキャラクタ。村人や店員など)の生活がしっかり表現されていて、その息づかいさえ聞こえるようだった。

 FF7Rにはセカンドライフなどと違って、ゲーム内通貨をリアルマネーに交換する機能は、公式には用意されていない。しかし、もしもこの世界の中で日銭を稼ぐ手段が与えられていたならば、ずっとこちらに住んでいたいほどにはそこはきちんとした世界だった。シナリオを進めなくても、街道を散歩して、NPCに話しかけるためだけにログインしたい街だった。

 ゲーム内でAIが多用されているのも印象的だった。いま「AI」と言われているものが、本当にAIかどうかといった議論は長くなり、かつ本筋を外れるので別の機会に譲るとして、AI的なシステムを導入しないと世界が成立しないのだと感じられた。従来の手続き型のプログラミングでは、記述できる振る舞いに限界があるのである。

 たとえばFF7Rでは、戦闘時に味方のキャラクタは自律的に戦闘を行う。操作対象となるキャラクタを次々に入れ替えて、すべてを自分で操作することも不可能とは言わないが、基本的には各キャラクタが「自分で考えて」行動するのだ。

 古くはドラクエの時代から、「ガンガンいこうぜ」「いのちだいじに」と大まかな指示をして、あとはシステムに任せる手法は存在したが、そのきめの細かさが違う。敵が使ってくる攻撃手段は範囲攻撃なのか、プレイヤはそれを知っているか、範囲攻撃ならば各キャラクタは距離を開けて分散したほうがいいのではないか、地形の高低を考えて高い場所に占位すべきではないのか。極めて多数のファクタから自らの行動を決定し、実行する。

 もしも操作しているのが、アクションをあまり得意にしない利用者であれば、余計なことをせずにAIで動く仲間に任せておいたほうが簡単に勝利してくれるほどの精度である。

 街に出れば、群衆は思い思いの行動をし、群衆同士で会話をする。黎明期のゲームの、一カ所に立ち止まり、話しかけてもピントの外れた同じ台詞を繰り返し続けたキャラクタたちとは隔世の感がある。

 操作キャラクタが唐突な移動を行ったとき、仲間はすぐに後を追ったりしない。過去のRPGの先頭を行くキャラクタの後にいもむしのように続いた仲間とは明らかに違う。仲間のキャラクタは操作キャラクタを観察し、逡巡したあと、後を追おうと決める。操作キャラクタが急に止まれば、その動きに追従しきれずに少し追い越してしまってから帰ってくる。

 時間も資金も工数もひっくるめて莫大なコストがかかるこれらの実装を、それでも敢えてAIを使ってまで行っているのは、コンテンツ内で表現される情報の密度が現実に近づいたからである。

 ドット絵で表現される世界では、勇者パーティがいもむしのように行軍していても、「そういうものだ」と納得することができた。しかし、寝ぼけた頭でチラ見するぶんには、リアルとまったく変わらないほどのクオリティで描かれたキャラクタが連なっていもむし行軍していたらあきらかに異様である。

 だから、キャラクタたちの振る舞いもリアルに近づけざるを得ないのだ。コンテンツを一つのパッケージとして成立させるには各要素のバランスが重要で、映像表現だけが突出しているのに、シナリオや台詞、キャラクタの振る舞いが前時代の手法では、ヒロイックファンタジーやSFが、ただのコメディになってしまう。

 これらの要素が組み合わさると、コンテンツ内で描かれる共同体やキャラクタはよりリアルな質感を得て、その存在を主張するようになってくる。

 たとえば、前述(2章①)のSAOの新章では、シナリオ上の重要なモチーフとして「ゲーム世界におけるNPCの人権」が取り上げられていた。もはやゲームのモブキャラは、それを理由に意味のない人生を送らされたり、プレイヤーの勝手で殺されていいような空疎なデジタルデータではなく、仮想現実で確かに生活を営み、息づく存在なのだ。

 これは決して絵空事ではない。リアルの社会でも、AIが絵や音楽を自動生成できるようになったことで、「その著作権は誰に帰属するのか」が問題になってきている。もし、AIの人格が真剣に議論されるようになると、ゲーム内でAIを用いたNPCを殺害するゲームは作れなくなるかもしれない。

ファイナルファンタジーXV(FF15)の評価はなぜ厳しいのか?

 では、FF7Rはリアルを志向しているのか、いずれ現実になりたいのかと言えばそうでもない。街と街のあいだの移動(それなりに手間も時間もかかる)は、目新しさが伴う初回の移動はともかく、二回目以降は都合良く捨象される。リアルの人生において、超えられない壁にぶつかることはままあるが、この世界では(世界が初期設定として許しているならば)およそどんなことにも解決法があり、それを見つけるための親切なナビゲーションもある。

 なかなか倒せない敵やモンスターに行く手を阻まれることもあるが、それは利用者にストレスをかけることで、解決を導いたときの爽快感を増大させる要素に過ぎない。世界はどこまでも快適で、正しく存在している。投じた努力に対して、それに見合うだけの報酬を必ず与えてくれるのだ。

 このさじ加減はゲームコンテンツにとって決定的に重要である。ここを間違えると、利用者はそのコンテンツに目もくれなくなる。不平等や不公平といった要素は慎重に排除される。そんなものは、リアルというクソゲーで飽き飽きしているからだ。

 たとえば、同じファイナルファンタジーのナンバリングシリーズでも、FF15に対する利用者の評価は厳しい。プラットフォームはプレイステーション4、Xbox OneでFF7Rと同等であり、用いられている技術にも大差がないにもかかわらずである。

 利用者がコンテンツから離れる要因はいくつもあるが、FF15の場合は「かなりリアルに寄せてある」ことが大きいのではないかと考える。FF15の移動は退屈だ。FF7Rのように、常に一定距離、一定時間で何かのイベントが起こるようには設計されていない。それは、FF15がオープンワールド型のゲームで、映画のような一本道のシナリオを往くだけではなく、その世界の中を好きに歩き回れる形態になっていることと関係している。

 この形式のほうが自由度が高く、リアルに近い世界と考えられるが、であればこそ広大なフィールドでそうそう事件は起こらない。今いる場所から目的地までの移動にはそれなりの手間と時間がかかり、道中はとくにすることもない。ゲームを進行させるために先を急ぎたいときでも、夜は危険であるから休まなければならず、それを押して強行軍を行えば相応のリスクを負う。

 リアルでは、そうした困難や制約も含めて、旅だとされている。そう、きっとこのゲームは利用者に旅を体験させたかったのだ。でも、利用者は現実と同じ体験を求めていなかった。作られた仮想現実のなかくらい、いやな要素を排した都合のいい空間に浸りたいのである。オープンワールドを作るにしても、リアルに寄せすぎてはいけなかったのだ。「もう一つの世界」は、利用者ひとり一人にとって快適でなければならない。(続く)

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