香月泰男、イサム・ノグチ、北大路魯山人、柳宗理、ガウディ……etc.|「芸術風土記」エッセイ
古里は遠きにありて……
田舎の小都会や地方の辺境の町にへばりついて生涯生きておられるかも知れないし(それが案外、いっこう暗澹たるものでなく、気楽で快活愉快面白可笑しさ満載ということも多々あるだろう)、そういうのが嫌で、躍起跳梁して憧れの大都会でご活躍しておられるかも知れない。
いずれにしてもこの小著を読む旅にあたって、もう一冊絶好の本を抱えて歩かれたらいかがかと思う本がある。
出だしはこうだ。
昭和の大流行作家・林芙美子の『放浪記』。
この一書で昭和の文壇に殴り込んで大ヒットし後に舞台や映画になり、テレヴィジョン番組「うず潮」のもとになった。
何で殴り込んだかというと、女性作家というのもあるが、この半自伝小説、モダン東京に上京してカフェの女給をやりながら逞しく生きる少女の日常を書いた。金がないから歩く歩く、道端のバナナから牛すきの匂いから今ならインスタ満載の「下世話で庶民のB級グルメ」にラッシュする「欲望」満載の体当たり小説。だから大ヒットした? それもあるでしょう、彼女を支持したのは、当時、山村農村地方から大都会に押し寄せ、工場労働事務所労働を始めたわれわれ一庶民サラリーマン層の元祖大群だ。
売れたのはだから万単位であって大衆文化の創成期だ。明治の文豪・鷗外、漱石大先生なんてそんなに読者はいない。「とかくこの世は生きにくい」などと嘯いてインテリの内面を描いた漱石先生など、大グルメであったのに小説にはそんな食道楽など出てはこない。男子厨房に入らず食い物の美味い不味いを語らず、やはり大時代明治であろうか。
生まれ故郷の大先輩であることをはるかに超えて、昭和のはじめ、それこそ大都市に地方から大量の新しい市民層が流入して大異変が起こる、その「根なし草」的われわれ近代人すべての心情を、この闊達で元気いっぱいの少女は宣言して、圧倒的な支援を受けたものであった。
われわれ近代人すべてが、畢竟、故郷喪失者であるということは、土着の生き方を選ぶか否か、あるいは似非都会人たるかたらないかにいっこう拘泥しないと思われる。
芙美子の喝破の百年前に、シューベルトは「冬の旅」を歌ったからだ。
旅が人生を豊かにする?
旅が人生を豊かにするというのは、真っ赤な嘘である。
いや、あるいは本当である。
では、人はなぜ旅をするのか?
その理由は百万あるのを承知の上で、私はこう言いたいと思う。
その一、「人生そのものが旅である、ということを学ぶため」
これはある意味大正解。
だからたいへんな思いをして旅行に出る必要など全くない。要らないのだ。日日日常、ただ淡々延々と繰り返される毎日の生活のディテールの中にもしも驚異的な出来事が見つからないのなら、それを見つける能力も感受性もないのならば、おそらくは旅に出たってそれは同じことだろう。土台無理だ。
だが、もっと。
その二、「旅に連れ添わない、置いてきた最も大事な人が、本当に最も大事だと思うため」。
これが本当の正解と私は信じるがねえ。
だが、本当の本当は?
そんなこと私の知ったことじゃないから、銘々この本(ぐらいではとうてい見つかるまいが)を斜め読みでもしながら、考えたらいいのじゃないかと勘案する。
「モダンアート、グローカル・アート」の旅
だが、この本のテーマそのものは、旅ではない。
「モダンアート、グローカル・アート」を旅する、だ。
だからモダンアート普遍で永遠でいかにあっても、あるいはあればあるほどグローカル=つまりその生まれた風土の匂いや風を背負っているものだというのが話の筋だ。
この小著はそれぞれの町や都市が生んだアートを、その風土に絡めて語った「芸術風土記」エッセイ。
ほとんどは二〇世紀の作家芸術家たちだが、モダンアートというと風土や地域性を超えてもっと尊大広範な普遍性を求めた芸術闘士たちというイメージがある。
それも一方あるだろうが、それだけでないのは当たり前だ。
どこそこのある地方を生涯出なかった絵描きが終生コツコツ描いたものが、別の国別の人種にはごくつまらないと感じられたとすれば、それはただその作家に才能がなかっただけだ。そういう現象は何百何千万捨てるほどあるが、逆の現象はこれもまたゴマンぐらいはある。
そういうものだ。だが、そういう地域や風土を超えて永久永劫万人の心を打つ名作、名人のグローバルなモダンアートにこそ、その風土の匂いがユニークに実は染みついているものだ、というのが「モノ」に触れて学んできた私の生涯一学芸員としての信条だった。
その一端をこういう形で書かせてもらったので、しばしその風合いにでもどうかおつき合い願いたい。