60年前の日本。米国人撮り鉄を魅了した「どこまでも続く線路」とその先の風景
光文社新書で1年ぶりに続編が登場した、昭和30年代のカラー写真を集めた『続・秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』。著者のJ・ウォーリー・ヒギンズさんは、米国出身で、日本と日本の鉄道を愛するあまり、日本に移住してしまった、現在92歳の老紳士。鉄道ファンの間では「撮り鉄」として名前が知られています。ウォーリーさんの撮った写真は、いま、鉄道写真としてだけでなく、当時の日本各地や人々の様子をカラーで記録した貴重な資料として、注目を集めています。
続編となる第2弾では、544枚の写真が掲載されていますが、それでも収録できない写真がありました。出版にあたり、取材、翻訳、写真整理に携わったライター・翻訳家の佐光紀子さんが、未収録コラムをご紹介くださいました。ぜひ、お楽しみください!
文/佐光紀子
写真/J・ウォーリー・ヒギンズ
「線路は続くよ、どこまでも」
こんにちは、ライターの佐光紀子です。前回ご紹介したウォーリー・ヒギンズさんの記事、読んでいただけましたでしょうか?(「未来から来た人|日本をこよなく愛する92歳の『撮り鉄』J・ウォーリー・ヒギンズさんのこと」)
私自身は、全く鉄道のことに関心がなかったのですが、今回、何千枚もあるウォーリーさんの写真を整理しながら、強く心を惹かれた写真に、「線路」の写真がありました。どこまでも、どこまでも続く線路。それがやがて山の彼方や海岸線へと姿を消して行く風景が、なんだか妙に美しく、センチメンタルなものに見えました。
ウォーリーさん自身は、以前、新幹線が好きではない理由の一つに、「運転席の前方が見えないこと」をあげてくれたことがあります。「線路が見えないと、どこに向かっているのかわからないから」というのがその理由でした。緩やかに弧を描く線路、その先に見えるであろう光景を想像しながら列車に乗るのは、確かにワクワクします。
旭川への移動中(北海道)1959年7月26日
また、路面電車について話してくれたときには、こう言っていました。「路面電車は国鉄などの駅につながっている。そこから乗ると、その先にさらに大きな駅があって、そこから別の世界へとつながっていくのが鉄道だ」と。
線路の先に、自分の知らない大きな駅や知らない生活が待っている。そうやって人と人、生活と生活、人生と人生とを線で結んでいく線路に、彼は大きな魅力を感じてきたんだろうなぁ。そう思って、「本当に、いい写真。どうして、こんな風に線路の写真を撮ったのかしら?」と水を向けたところ、大いに困惑したらしい様子で彼はこう言いました。
「どうしてって? 美しいと思ったからだよ。いいなと思う風景はシャッターを切っていたからね」。そして、勝手に線路に降りたりはしていないよ、と言わんばかりに、「ここにある写真の多くは、車窓や駅のホームから撮影したんだよ」と付け加えました。大丈夫、疑ってません(笑)。
その先にある未来に思いをはせて、ウォーリーさんが撮り続けた、どこまでも続く美しい線路の写真。本編には残念ながら収録できなかったので、こちらでどうぞお楽しみください。
※撮影地などは記録されたデータに基づいて記載をしています。万が一間違いがあった場合は、お許しいただけたらと思います。
宇治川おとぎ電車(京都府)1959年5月10日 線路脇に整然と薪が積まれている。
石北本線上川付近(北海道)1959年7月27日
山形交通八幡宮前(山形県)1959年9月7日
静内の西方(北海道)1961年7月17日 海岸のすぐ脇を通る日高本線
網走湖畔(北海道)1961年7月19日
稲梓駅付近(静岡県)1961年12月16日 伊豆急は山間を進む。
井川線のトンネルから(静岡県)1963年11月29日 大井川鐵道井川線はとにかくトンネルが多い。
畑の中を走る古江線(鹿児島県)1964年3月2日 遠くに桜島が見える。
輪島付近(石川県)1964年8月4日 夏の日差しの下を進む国鉄七尾線。
梺駅周辺(秋田県雄勝郡)1961年10月8日 羽後交通雄勝線。刈り入れの終わった風景。
そして、最後に、終着地点で、終わってしまった線路の写真も2枚ほど。
筑豊線(福岡県) 1958年10月5日
浅野川線粟ヶ崎海岸駅付近(石川県)1964年8月5日 金沢港の新設による海水浴場の閉鎖とともに、70年代にこの区間は廃線となった。
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ウォーリーさんが撮り続けた、美しい線路とその先の風景、お楽しみいただけましたでしょうか?
前作よりさらにパワーアップして発売された光文社新書『続・秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』。当時を知る人も、知らない人も、たっぷり楽しめます。またご家族やご友人へのプレゼントにも、ぜひお買い求めください…!
未読の方は、第1弾もおすすめです。