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水月昭道著『高学歴ワーキングプア』全文公開/はじめに、第1章「高学歴ワーキングプアの生産工程」

光文社新書編集部の三宅です。「非常勤講師とコンビニのバイトで月収15万円。正規雇用の可能性はほぼゼロ」――このオビの惹句とともに、水月昭道さんの『高学歴ワーキングプア』が刊行されたのは2007年10月のことでした。いわゆるポスドク(博士号取得者)の就職難問題を、当事者が赤裸々に書いた本書は、刊行と同時に大きな反響を巻き起こし、ベストセラーになると同時に様々な媒体で取り上げられました。その刊行から13年の2020年現在、この問題はどのような展開を見せたのでしょうか? 続編にあたる『「高学歴ワーキングプア」からの脱出』刊行を控え、『高学歴ワーキングプア』の全文を順次、公開していきます。本書は、博士の就職問題に焦点を当てたものではありますが、日本の「失われた30年」、超少子高齢化などから派生したモデルケースとして読むこともできます。ということは、本書の内容を、他の様々な社会問題に敷衍することも可能でしょう。

目  次

はじめに

第1章 高学歴ワーキングプアの生産工程   

博士卒・三〇歳・フリーターの始まり/もはや終わった「末は博士か大臣か」/溢れかえる博士卒/大学院重点化の前と後/研究大学以外の苦しい院生確保事情/ここでも割をくう〝ロスジェネ〟/その政策は〝渡りに船〟/本来存在し得なかった院生/院生数に見合わない教員市場/テリトリーをめぐる悲哀/植民地化された弱小大学院/その大学院に存在価値はあるか/企業は博士卒を必要とはしていない

第2章 なぜか帳尻が合った学生数   

重点化を取り上げた記事/「ポスドク問題」という見出しの増加/実効力を伴わなかった「ポスドク一万人支援」/学力低下という非難/見事に帳尻が合った学生数/若者に食わせてもらおう

第3章 なぜ博士はコンビニ店員になったのか   

気がつくと在籍一〇年/終身雇用に絶望する/運に左右される学位への道/パチプロ博士/講義もないのに学費を払い続ける日々/努力が報われる健全な社会はどこに/レフリー制度の矛盾/博士が日本の研究環境の土壌を肥やす

第4章 大学とそこで働くセンセの実態   

やっと結婚できそうです/勤務は週三日/教員間格差/進む講義のアウトソーシング化/特任制度というご都合なもの/守られる矜持/任期制度は有名無実/業績主義の光と影/ピラミッドはくつがえるのか

第5章 どうする? ノラ博士   

ノラ博士/サトウ教授の提言/ノラ博士が弱者を救う/塾講師という二番目の選択肢/三行半を突きつけよう/もしかしてチャンスなのか?/臨機応変に見切る/その時は必ずやってくる

第6章 行くべきか、行かざるべきか、大学院   

目が開かれる/コミュニケーションの達人へ/生き抜く力を身につける/六年の歳月にこだわる理由はない/博士論文執筆時に得た教訓/目指すべきゾーンへの道程/仕事ではなく、人生のためのキャリアパスに

第7章 学校法人に期待すること   

教員の意識と法人の方針/学生をカモにする法人の未来/学校法人における精神・教育・経済の序列/学生に愛される研究室の秘密

おわりに

はじめに

この国で、「ワーキングプア」の存在が注目を集め始めて数年になる。私の知り合いの非常勤講師(三三歳)は、今、月収一五万円で生活する日々を送っている。非常勤講師をしてもらえるバイト代だけではとうてい足りないので、他にもコンビニでバイトをしている。

学生時代から住むアパートの家賃は四万円。残った一一万円で、食費や携帯電話代、光熱費、大学の講義などで必要となる文献や資料代等をやりくりしている。当然、手元に残るお金はまったくない。

毎月二〇日と少し働いて一五万円程のお金を稼ぎ、一カ月が終わる頃にはすべてなくなる。そんな生活が、ここ二年ほど続いている。

彼女は一昨年、地方私立大学の大学院博士課程を修了して「博士号」を取得した。だが、〝博士〟になっても、正規雇用としての教員のポストはまったく見つからず、バイトを複数こなして食いつなぐ日々である。

「あと何年、こんな生活をしなければいけないのかなぁ」

会うたびに繰り返される彼女の口癖だ。彼女は正規の大学教員となって、こうした生活から抜け出したいと密かに願っているが、実はその可能性はまったくない。

現在、大学院博士課程を修了した人たちの就職率は、おおむね五〇%程度と考えていい。学歴構造の頂点まで到達したといってもよいであろうこれらの人たち。だが、その二人に一人は定職に就けず、〝フリーター〟などの非正規雇用者としての労働に従事している。

こうしたフリーター博士や博士候補が、毎年五千名ほど追加され続けているのが、日本の高等教育における〝今〟なのである。その生産現場は、もちろん「大学院」だ。

「博士」と呼ばれる人たちで、現在、正規雇用にない者(つまり、フリーター)の数は、すでに一万二〇〇〇人以上。一方で、大学院生の数は戦後最大となり、昨年には二六万人を突破した。

わずか二〇年前には、七万人であったことを考えると、これは驚異的な成長率である。「大学院重点化計画」における院生増産が、文部科学省の主導によって〝計画的に〟達成された結果である。計画の先鞭をつけるためにそのお先棒を担いだのは、文科省との太いパイプを持つ東京大学法学部であった。両者による〝謀〟は、少子化の兆しがハッキリと見え始めた平成三(一九九一)年に企てられた。

それまで、短大や大学への進学者数は、極めて順調な成長路線を歩んできた。だが、一転して、今後は急激に減少していく。その勢いは、放置しておけば、大学が潰れていくことが容易に想像できるほどのものだった。

成長減退を経験したことがなかった高等教育の現場が、真っ青になったことは想像に難くない。大学が潰れれば、教員もあぶれ出す。だが、彼らが慌てふためいた理由は、それだけではなかった。成長路線のなかで維持され続けてきた教員ポストがいきなり減るということは、自学(東大)を修了した院生や同系学閥教員の〝派遣先〟がなくなることをも意味していたからだ。

大学(東大)が、派遣先というパイを失うのと同様に、いやそれ以上に、文部科学省にとって大学市場の急激な縮小は、それまで築き上げてきた自らの権益(各種補助金や天下り先)も急速かつ大幅に縮減することを意味した。いうまでもなく、文部科学省という中央官庁は、〝少子高齢化〟という日本がかつて経験したことのないメガトレンドを正面から受けねばならない組織である。一八歳人口の急減という、当時高等教育市場で起ころうとしていたツナミの第一波は、そこに生きる者たちを戦慄させた。

「既得権を守らねばならない」

支配者たちの瞳に鈍くどす黒い光が輝いた瞬間だった。

自らの牙城を守るためには、喰われる者の存在が欠かせない。〝若者〟は、こうして無惨にも、既得権者たちのエサとされることが決定された。

一度方針が決定すれば、あとは実行あるのみだ。こうして、次から次へと大学院生は養殖され続けた。一八歳人口が減少する第一歩を刻んだ平成三(一九九一)年から一六年が経った今、短大や大学への進学者は予測された通りに激減した。だが、大学院だけは逆となった。少子化などどこ吹く風とばかりに、院生は大量に増殖した。

短大と大学、そして大学院をあわせた進学者数に注目すると、平成三年に比べ、今では減るどころかわずかながら増えているのである。つまり、高等教育市場は、少子化という逆風が吹くなかでも、なぜか安定した成長が続いているのである。

自然の理に逆らうようなこんなパラドックスが続けば、どこかに歪みが生じることは火を見るより明らかだ。大量増産された博士たちは、行き場を失い瀕死の状態で世間をさまよい続けている。そして、高等教育現場における教員市場は、〝超〟のつく買い手市場となっている。

その足下を見透かすように、大学教員市場では非人間的な雇用がまかり通っている。

冒頭に紹介した私の友人が、なぜ年収二〇〇万円に満たないバイト先生生活を余儀なくされているのか、そのウラにある理不尽な構造の一端が垣間見えてきたのではないだろうか。もし、彼女が正規雇用によって専任教員となれば、年収は六〇〇万円にふくれあがる。それに伴う年間経費も、百万単位で増えるだろう。だが、非正規雇用であれば、それは必要ない。これで年間五百万以上の金が浮くわけである。

二〇年で一億円以上。彼女が本来手にするはずだったお金は、一体どこに消えていったのであろうか。こうして、搾取され、誰かのために損をし続ける立場の者が大量発生している。

損をしているのは何もこうしたバイト先生だけではない。

教育を受ける学生やその親御さんも、また、損をしているはずだ。なにせ、大学の授業の大半は、実はこうしたバイト先生が担当しているのだ。大学に正規に所属する教員の授業と、不安定な立場でコピー代まで自己負担するアルバイトの先生による講義。教育現場において、どちらが理想的な環境であるか、その答えは明白だろう。

市民とて大損をしている。大量の税金により育てられたはずの「博士」が、有効に活用されることなく、フリーターとして人材廃棄場にただ捨ておかれているのだから。何のために、市民の大事なお金が使われたのか。結局、得をしているのは誰なのか。

成長減退期にでき上がったパラレル・ワールド。わが国の高等教育環境が崩壊の危機に瀕している一方で、高等教育市場を牛耳る者たちにとってのみ、理想的な安定市場が維持され続けているという矛盾。

一体何がどうなって、こんなことになったのか。本書では、そのカラクリを解き明かす。鬼に食われ続ける若者とその両親の姿なぞ、もう見たくはない。高等教育現場の歪みに巣くうように出現してしまった「地獄」。本書がそこに降りる一本の糸になれるとしたら望外の喜びである。

第1章 高学歴ワーキンプアの生産工程

博士卒・三〇歳・フリーターの始まり

〝〇・〇二四%〟。これは、平成一六(二〇〇四)年九月時点の日本における〝自殺者〟の割合だ(WHO発表)。

〝一一・四五%〟。これは、同じ年に文科省(文部科学省)から発表された、日本の大学院博士課程修了者の〝死亡・不詳の者〟の割合である。

一〇万人あたりの数値に直すと、前者は二四名。後者は一万一四五〇名。

今、大学院博士課程を修了した、いわゆる高学歴とされる層に異変が起こっている。自殺者や行方不明者の増加。そして、フリーターや無職者となる博士が激増しているのだ。私の周囲でも、「仕事、見つかりましたか?」が、挨拶代わりとなって久しい。

私自身、任期のない常勤職(専任教員。大学における、いわゆる正社員)を探して三年目になる。だが、今もって先の見通しは立っていない。

ちなみに、私には六名の先輩と五名の後輩がいる。同じ研究室で、同じ指導教官に学んだ人たちで、いずれも博士卒。この内、常勤のポジションを日本で得ているのは、私を含めた全一二名の内たった三名。日本でというのは、他に二名の留学生がいるからだ。この内の一人は、故国に帰ってアッサリと仕事を得た。

ともあれ、同じ研究室を出て、常勤として日本の大学に就職できた人の割合は、二五%という数字になる。残りは、〝フリーター〟などの非正規雇用者として働いている。

こうしたことは、なにも私の出身研究室だけに限った現象ではない。医学や工学といった理系の一部を除いては、どこも、大体似たり寄ったりといった状態なのだ。

〝大学院博士課程修了〟というと、通常最低年齢は二七歳である(とび級進学者は含まない)。大学受験で浪人を経験したり、在学中に留年したり、大学院試験でつまずいたりしたら、あっという間に三〇歳をオーバーする。

三〇歳で博士を修了し、いざ就職しようと周りを見渡してみる。この時、多くの者は、いくら探しても「どこにも仕事などない」ことに気づき、愕然とするのである。

だが、仕事はなくとも食わねばならぬ。一体、どうすればいいのか。

ほとんどの博士卒にとって、ここが、〝三〇歳からのフリーター〟のスタート地点となる。これが現在、日本の〝大学院博士課程修了者〟の多くが辿る紛れもない道なのだ。

保険も一時金もない。どれだけ長期間勤めても、もらう給与にさしたる変化もない。ボーナスなどとんでもない、いわゆる〝ワーキングプア〟と呼ばれる状態。

今、日本において〝博士卒者〟たちが、ココへの新たな定住者として確実に仲間入りし始めている。

「高学歴ワーキングプア」

これが彼らの実態である。

もはや終わった「末は博士か大臣か」

「末は博士か大臣か」という言葉がある。

昭和の時代、この言葉には、明確に尊敬の念が込められていたように思う。当時は、「博士」も「大臣」も、その社会的地位は今よりはるかに高かったはずだ。正真正銘の〝ステータスあるポジション〟だったのだ。

人びとの尊敬を集める理由には、「簡単になれるものではない」ということもあっただろう。どちらも、望んだからといって、手が届くような代物ではないからだ。一族の中から、このどちらかが出ようものなら、それは最高の誉れとなったはずだ。この言葉が子どもに向けられるときには、「博士」や「大臣」のような〝立派な人〟になってほしいという願いも含まれていただろう。

昭和の初期には、まだ、大卒者が「学士様」と崇められていたのである。とすれば、この時代、「博士」は、「神様」の領域だったのではないか。かつて、このように、「博士」がキラキラと輝いていた時代が、たしかにあったのだ。

こんな時代であるから、世間に「あの人は○○博士だ」と知れたとすると、周囲の態度ががらりと変わったということもあっただろうし、呼び方が「先生」と変わることも珍しくなかったようだ。このように、博士と先生は、同一の線上にきちんとつながっていたのである。

だが、時代が移り平成となった今、「博士=先生」という構図は、もはや成立することのほうが珍しくなった。平成の世では、「博士=フリーター」だからである。尊敬の念などどこに湧くというのか。

溢れかえる博士卒

一体どうして、このような事態が生じてしまったのか。経緯を追ってみたい。

現在、大学院全体の在学者総数は約二六万一〇〇〇人(内、女子七万九〇〇〇人)となっている(平成一八〈二〇〇六〉年度、学校基本調査速報)。過去最高の数字だという。ちなみに、昭和六〇(一九八五)年は約七万人。約二〇年で、四倍近いアップを果たしたことになる。

なぜ、こんなに人数が増えたのだろう。大学を出て、さらにその上の大学院にまで進学したいという〝勉強熱心な人〟が、世の中に増えているということなのか。否、事実はそうではない。この異常な増加は、自然発生的なものではないからだ。

今から一〇年前、文部省(現・文部科学省)から発行された「進む大学改革 パンフレット(平成八〈一九九六〉年版)」には、すでに次のような文言が見える。

「大学院学生数は着実に増加していますが、国際的にみるといまだ十分な水準とはいえません」

当時の大学院在籍者数は、すでに一五万人超。にもかかわらず、文部省は「まだ十分ではない」といっている。それに応えるかのように、そこから現在までの一〇年で、院生の総数は約一〇万人も追加された。そして、まだその動きにストップがかかる気配はない。これを見る限り、大学院生は、政策的な課題として「産めよ増やせよ」という方向で急激に増やされ続けていることがわかる。

では、こうした院生増産計画のはじまりはどこにあり、なぜスタートすることとなったのか。

これは、平成三(一九九一)年に、文部省が大学審議会からの提言を踏まえて打ち出した「大学設置基準等の改正」が直接的にはかかわっている。ここで、大学改革の方向性として三つの方針が示されたのだ。

それが、「教育機能の強化」「世界的水準の教育研究の推進」「豊富な生涯学習機会の提供」の三つ。この内、大学院重点化に直結しているものが、二番目の「世界的水準の教育研究の推進」というものだ。

その目的は次の通り。

「世界をリードするような研究を推進するとともに、優れた研究者や高度の専門能力を持った職業人を養成するための拠点として、大学院を充実強化していくことです」

これが、大学院生増産計画の「はじまりと目的」である。

計画は予定通りに進み、その結果は冒頭に挙げた二六万人余りもの大学院在学者数へとつながっている。さすが官僚、大成功である。だが、ある疑問が頭をもたげてくる。

増産によって上積みされた大学院生や卒業生たちは、社会のどこに吸収されていったのか?(二〇年前に比べて約一九万人も増えている)

そもそも社会は、大学院卒という人間をどれほど必要としているのか?(院にいくと就職できないという話は昔からあった)

膨大な数の院生は、それぞれが自主的に進学を決めたのか?(政策課題ということであれば、集められたということも考えられる)

今、社会のなかに「高学歴ワーキングプア」と呼ばれる層が、急増している。実はその原因こそが、そのまま、これらの疑問に対する解答なのだ。本書では、この疑問と解答の間に隠されている問題の本質をひもといていく。

さて、もう一度博士卒の数に目を戻してみる。

平成一八(二〇〇六)年度の博士課程修了者数は、一万五九六六名。もちろん過去最高だ。その内、「死亡・不詳の者」、一四七一名(九・二%)。つまり、博士卒の約一割は、社会との接点が確認されることなく姿が消えているのだ。

とくに私の出身である人文・社会科学の分野では、修了者二六〇一人中「死亡・不詳の者」は四九五名(一九%)となっている。ちなみに、就職者は八九七名(三五%)。まさに絶望的な数字だ。

では、博士全体ではどうか。約一万六〇〇〇人の修了者の内、就職者九一四七名(五七%)。これは人文・社会学系に比べると随分マシではあるが、やはり絶対的に低い数値には違いない。要するに、博士卒の約四割は常勤の職を持たずに巷をさまよっているのである。しかも、分野によっては、六五%の人が行き場を失っている。

だが、こうした数値にも、実はマジックが仕込まれている。医学や薬学など、修了が仕事と直結している者たちも含まれているからだ。これらを除くと、就職率は五〇%に急落。これが、医歯薬系を除く、文系・理系をあわせた平均的数値である。このなかで、さらに系統によって大きな差が生じている。とくに人文・社会学系は危機的状況だ。

「優れた研究者や高度の専門能力を持った〝職業人〟を養成するため」に、大学院生増産の計画は立てられたはずであった。

だが、その計画が達成されたことで、結果的には、母体集団に対して異常な割合で膨大な数の「無職人・自殺者・行方不明者」を生み出すという、悲惨な状況を招いているのだ。これは一体、なんの皮肉なのだろうか。

大学院重点化の前と後

計画達成の裏に一体何があったのか。大学院重点化の前と後に注目してみたい。

重点化前、「大学」と「大学院」の関係は、(学部を有する)大学が〝主〟で大学院は〝おまけ〟というような形であった。旧帝大を中心とする、いわゆる研究大学における標準的位置づけでは、多くの権限は学部を有する〝大学〟にあり、教員の所属も○○大学○○学部教授というように〝学部〟であった。大学の本体は、あくまでも学部を有する〝大学〟にあって、〝大学院〟の存在は、その上に〝付属的〟に位置するという形だったのだ。

ところが、重点化後には、多くの権限が大学院にシフトしていく。これにより教員も、○○大学大学院教授、というように学部所属ではなく大学院の所属となった。そして、学部の位置づけは大学院の下という認識となった。

つまり、本丸が、大学(学部)から大学院へとシフトしたということだ。

こうした重点化の動きを最初に起こしたのが、東大法学部であった。学部の全教官を大学院の教官へとシフトして大講座制(一つの講座に専門を異とする数名の教官が配置され、その教官らが緊密に連絡をとりながら講座を運営していく制度)を敷くとともに、大学院の教官が学部教育を兼任するという形式を整えたのだった。

要するに、東大法学部は、文部省に対して、「ウチの大学院重点化はこのようにやってみました」という模範解答を作ってみせたわけだ。すると、文部省からは、「当局が政策として推し進めようとしている〝大学院重点化〟に合致してます」ということで、「予算二五%増」のプレゼントを贈られている。

大学院重点化政策とは、単純化していえば、「大学院の教育課程や教育条件の改善・改革を行った大学には、予算を二五%増してあげましょう」という、文部省からのお達しでもあった。これに対して東大法学部は、真っ先にアイデアを出し、予算をゲットしたのである。

これを見た、東大内の他の学部や旧帝大(旧帝国大学の略称で、東京大学、京都大学、大阪大学、名古屋大学、東北大学、北海道大学、九州大学の七大学を指す)は、予算獲得を目指し我も我もと動いていくこととなった。

なんとしてでも、文科省から「おたくの重点化案は大変よろしい」というお墨付きがほしい。その切実な想いが、文科省の顔色を窺う態度へとつながっていく。そして、その〝お墨付き〟を得る前提は、「定員数を確保すること」にあった。

自学の大学院〝重点化〟を是が非でも成功させたいという願いは、各大学になりふり構わぬ態度を取らせていった。定員に満たない場合は、二次募集を行ったり、社会人のリクルートを行ったりするということが、もはや当たり前の光景となっていったのだ。こうして、大量の大学院生が生み出されるシステムの基礎が構築されていくこととなった。

研究大学以外の苦しい院生確保事情

その大学院生の多くは、〝研究大学〟と称される旧七帝大と東工大・筑波大・一橋大・神戸大・広島大、私立では早稲田・慶応などの大学を中心として生産されている。すでに平成一〇(一九九八)年には、東大の入学者三四〇〇名、大学院入学者三七〇〇名と、院と学部が逆転するほどに院生数が増えている。もちろん、どの大学も大学院〝重点化〟は完了している。

これらの研究大学では、当然大学院を戦略的に使った大学運営が意欲的に行われている。法科大学院や臨床心理系の専門職大学院などの設置である。大学院での学習が、資格試験に直結しているというわかりやすさに加え、社会人にも広く門戸が開かれているというのがその特徴だ。

資格取得や、スキルアップ、ステップアップへのキャリアパスを目指す社会人にとっては、それまでも、MBA(経営学修士号)の取得などといった道筋があった。それらに加え、司法試験合格者、臨床心理士、会計専門、福祉専門など、広くさまざまな分野における専門職業人養成のための大学院が設置され始めたのである。

これらは、お客となる大学院生予備軍の頭のなかに、ハッキリとしたイメージ──大学院に通うことで得られるメリット──を構築させやすい形態の大学院であるともいえる。そのため、学生が集まりやすい。目的に特化した教育を行う、こうした大学院に対する社会からの期待は、現実的にも非常に高い。おかげで大学院の募集枠も増やすことができる。そして、募集枠が広がれば、文科省からの助成金もより多く落ちてくる。こうして、研究大学は、大学院重点化政策を利用する形で、運営資金を得るための多くの魅力的な戦略を立案するチャンスを得たのである。

だが、金が流れるということは、当然、その流れも厳しく監視されることになる。計画に沿った運営が達成されているかということがチェックされるのだ。とくに、計画通りの定員数を満たしているかは、助成金の不正受給をしていないかという点も含めてチェックの重要な対象となる。ここでも、定員数の〝正常化〟が厳しく求められることとなった。

だが、すでに〝重点化〟も終え、社会へのアピールも十分に行ってきた研究大学にとって、もはや定員数確保は憂うべき問題ではなくなっていた。他大学出身者が、大学院でのステップアップを狙い、殺到するという運にも恵まれていた。

一方、そこに入らない大学院にとっては、これが大きな負担となった。せっかく育てた学生が、大学院では皆、〝研究大学〟に吸い上げられてしまうからだ。実はこのことが、高学歴ワーキングプアになることを余儀なくされる層を生み出す悲劇を引き起こす、最初の呼び水となった。

ここでも割をくう〝ロスジェネ〟

かつて、大学院進学の決定は、学生本人の自発的意志によっていた。学部の四年を卒業してもなお、「大学に残りたい」という者だけが、大学院へと進学していったのだ。

関西の私立大学に勤める山下教授(仮名。以下モデルとなる人名は原則として仮名)は、自身が大学院に進学したときのことについてこう振り返る。

「当時、民間に就職したくなくて、大学に残ろうと思いました。少しかっこつけていうと、もっと勉強したかったということかな。自分の先輩も後輩も、同じような感じだったと思います。誰かに誘われたからというようなことはなかったと思いますよ」

重点化前の大学院は、組織として実質的にはあまり重要視されていなかった。なので、大学院入学者定員についても、取り立てて問題になることもなかった。実際は、どこも定員割れという状況だったにもかかわらず。

つまり、「来たい人だけ来てください」というのが、当時の大学院のスタイルであり、それは研究大学であっても同じだった。だが、そんな牧歌的な状況も、重点化後は一変することとなった。定員枠をキッチリと埋めることが求められ始めたからだ。

もともと、大学院に進学しようなどという人たちは、どちらかというと変わり者と見なされ、大学卒業者全体から見ればごく少数派だった。だが、大学院重点化政策では、各大学に設置された入学定員枠を満たすことが求められるから、そんなことも言っていられない。

しかも、ただでさえ進学者は少ないのに、せっかく育てた学生は〝研究大学〟に吸い上げられる。研究大学以外の大学にとって、自発的に進学したいという学生を待つだけでは、もはや、定員を満たすことが不可能なことは明白だった。

では、どうするか。北陸地方の国立大学大学院出身者の加藤さんと青木さんはこういう。

「私の場合、指導教官に誘われたことが最大の理由です。私の出身大学では、大学院進学は少数派で、私自身もはじめから考えていたわけではありません。当時就職が決まらなくてどうしようと悩んでいたところ、指導教員から大学院に誘われたので、そのまま入院(大学院に入ること)しちゃいました」

つまり、もともと大学院に進学する〝つもりのなかった〟人や、若年労働市場の異常な縮小により、〝就職難で困っていた人〟が、ずるずると大学院生になっていたということが起こり始めたのだ。その先には、フリーターという選択肢が待ち受けているとも知らず……。朝日新聞が命名した〝ロスジェネ〟と呼ばれる当時の若者たち(バブル経済崩壊後の就職氷河期に社会に出た、現在二五歳から三五歳にあたる人たちが該当するといわれる)は、こんなところでも割をくっていた。

地方国立大学などにおける地道で組織的な、学部生を大学院に引っ張るための一本釣りが繰り返されるなかで、悲劇の主人公を演ずることになる最初の層がこうして誕生していった。

だが、地方国立大学出身者および、そのレヴェルに該当する私立大学出身者には、まだ就職に関しては一抹の希望があった。自学の院が重点化前に設置されていた場合も少なくなかったからだ。つまり、多少でも歴史があるからだ。歴史があればコネも持っているかもしれない(このコネについては四三ページの「植民地化された弱小大学院」で詳述する)。

フリーターになることが、もはや絶対的に避けられないという意味で、「高学歴ワーキングプア」の中核を成すことになる層は、実は、重点化後の私立大学──特に中堅以下──の動きによって形成されている。次に、その点を見ていこう。

その政策は〝渡りに船〟

大学院重点化計画を利用することで、〝大学院を有していなかった〟全国各地の私立大学は、「積年の思いを叶えよう」とした。

彼らは、大学院設置にほのかな期待を寄せていた。それは、実入りのアップが多少望めることもあったかもしれないが、何より大学院を持っているということ自体が、その大学のイメージアップにつながることが大きかった。

ある地方私立女子単科大学の学長は、自学に大学院がないことをこう嘆く。

「うちには大学院がないでしょう。だから、私は何とか開設にこぎつけたいんです。だって、大学院もない大学なんて、ちょっと恥ずかしいでしょう」

小さな大学であればあるほど、大学院を持っていることの意味は大きくなる。大学院を持っているということは、その大学にとってのステータスになるからだ。

ところで、大学運営のための基本収入は、受験生が落としてくれる受験料と在学生の学費である。したがって、自学を受験してくれる学生が多くなるほど、大学は助かる。在学生数にしても同様だ。定員きっちり入ってくれると、とても嬉しいのだ。

だが、これを実現するには、自学のイメージが受験生たちのなかにどのように構築されているかが重要となる。大学院を持っているということは、実はこんなところでもプラスに作用する。

地方の小さな私立大学にとって、「大学院のあるなし」は、経営戦略上の重要なポイントとなる。要するに、化粧と同じだ。見る側に、良いイメージを形作らせることができたら勝ちだ。

こうして、大学院重点化政策は、これらの化粧で表面を繕いたい私立大学にとっては〝渡りに船〟となった。

大学院を新たに設置することや新しい学科や専攻を増やすことは、たとえ私学といえども勝手には行えない。必ず文科省への申請と許可が必要となる。許可を得る必要があるということは、当然ながら、通常は大変困難な道のりを歩むことになる。

しかし、今回の場合、その許可を与えてくれる立場である元締めが、自ら大学院を「作りなさい。増やしなさい」と言ってくれているのだ。通常時に比べれば、かなりやりやすくなるだろうことは、想像に難くない。

こうして、大学院を備えた私立大学が全国津々浦々に広がっていった。その勢いは、いまや、大学院を有していない大学を見つけることのほうが難しくなったと言えるほどだ。私立大学数五四四校中、大学院設置校は三九二で七二%(平成一六〈二〇〇四〉年時点)。

だが同時にそれは、本来〝必要とはしていなかった〟大学にまで、大学院が設置されてしまったことを表す。おそらくそれは、学生にとってはメリットとは言えないだろう。

だが、できてしまったからには、人を入れなければならない。もし入らなければ、文科省の指導が入る。人を入れるためには、工夫が必要となる。さて、どうするか。

本来存在し得なかった院生

地方私立単科大学の大学院に籍を置く西村さんは、自身が大学院博士課程進学を決めるきっかけとなった時のことについてこう語ってくれた。

「最初は、修士を終えて就職を考えていたんです。知っている先生にそのことを相談すると、『君は就職向きじゃない』と言われました。タイミング良く、大学院に博士課程が創設された年だったので、薦められるままに進学してしまったというのが本音です」

西村さんは、現在、博士三年生。もちろん就職は決まっていない。大学からの就職サポートなどまったくないという。ちなみに、彼に進学を薦めた教授は、退官してすでに大学にはいない。

「博士課程進学の決断は、もちろん最終的には自分で行いました。しかし、信頼している先生からの一言が、決断への大きな後押しとなったことも事実です。就職についても心配ないというような情報を与えられました」

だが今、西村さんは職に就けそうもない局面に立っている。これは、どういうことなのだろう。苦情を訴えてもよさそうに思える。

「もちろん、言いましたよ。だけど、進学したのは自己責任だろうという答えが返ってきたんです」

就職の相談をしにいったら、進学を強く薦められた。その結果、大学院生になったが、大学院を修了する時には、仕事がまったくない状況に直面した。そのことは、自己責任だというのである。心配ないというようなことを、学校側が言っていたにもかかわらず。

「少し、タイミングがよすぎるかな、とは思ったんです。でも、先生の仰ることだし、相談にいった手前、やはりその時、就職しますとは言いづらい雰囲気だったこともありました。今ではやられちゃったかなというのが本音です」

こう聞くと、「何を甘いことを言っているのだ」と思う人もいるだろう。だが、自らが所属する大学の先生の言葉を、頭から疑ってかかる学生がどれほどいるだろう。ましてや、先生が自分たちに不利になるようなことを言うかもしれないなどと、一般学生のどれほどが考えるだろうか。

西村さんは、現在の心境をこう続けた。

「まさかね、引っかけられるとは思いませんでした。でも、考えてみれば大学も経営がありますからね。後輩には自分のようにはなってほしくないですね。これからは、自分の所属している組織であっても疑ってかかることにします。そのほうが、後で裏切られたと感じなくてもいいですからね。先生も組織人として振る舞わざるを得なかったとは思いますが、お互い辛いことですよね」

西村さんのような形で、院生になってしまった者は修士でも博士でも少なくない。そして、ここが問題なのだが、彼のような立場の院生は、本来存在し得なかったということを指摘しておきたい。なぜなら、こうした私立大学では、本来、大学院を必要としていなかったからだ。

そして、この院生になる〝はずがなかった〟層こそが、「高学歴ワーキングプア」への絶対不可避的転落という宿命を背負った存在として、その中核を成すようになるのだ。

ちなみに、西村さんが在学中に支払った学費は、すでに一〇〇〇万円を超えたそうだ。大学にとっては誠に結構な金づるだろう。

院生数に見合わない教員市場

ここで、大学院博士課程卒に対する社会における〝需要〟に目を向けてみたい。まずは、教員市場の実態を取り上げる。

戦後の教員市場が最大となるのは、一九八〇年代後半から九〇年代前半にかけてだ。八〇年代前半は、団塊世代の狭間であり、大学進学率が一旦頭打ちになったが、後半からは第二次ベビーブーマーの対策として各大学では学生の定員増が行われた。それに伴い、教員市場も最大規模を迎えた。もちろん、直後の一八歳人口の急減により市場は急速に冷え込んでいく。

さて、その八〇年代後半に市場規模が大きくなっていたとはいっても、当時の院生にとっては厳しい就職状況だったようである。

昭和六〇(一九八五)年四月二七日付朝日新聞(夕刊)には、「京大で女性博士浪人の調査へ」という見出しが出ている。京大大学院を修了したものの定職がない女性が中心となって、自学院卒の全女性を対象としたアンケート調査を始めるというものだった。

この調査を行うことになった背景が、実に興味深い。それまで彼女たちは、他大学の非常勤講師をしながら糊口を凌いでいたのであるが、その口を男性に横取りされるという事態が生じ始めたというのだ。

市場が最大規模といわれる時代にあってさえも、教員への道は弱肉強食の就職戦線であったということだ。さらに前後して、それを裏付けるような記事が続いたので紹介したい。

「〝若い頭脳〟の流出防止に『特別研究員』を新設 月額奨励金を支給」(朝日新聞昭和五九〈一九八四〉年一二月二八日付朝刊)

二一世紀の学術研究を支える優秀な若手研究者を大学につなぎ止めておくため、助手並みの給与(年俸三四〇万円余り)を払うという制度が導入されるという紹介だ。その背景には、教員のポスト不足を理由に、将来への見切りを早い段階からつける院生が後を絶たず、彼ら〝若い頭脳〟は海外や企業に転出しがちであるという問題があった。

この時代においても、教員市場におけるポスト不足とオーバードクター(博士卒無給者)問題はかなりの頭痛の種になっていたようだ。

要するに、日本の教員市場では、現在までずっと、その少ない市場をめぐって壮絶なテリトリー争いが繰り広げられてきた(自学出身者によるポストの占有問題や旧帝大系出身者によるポスト占有率などについては、山野井・浦田・藤村らの研究報告が明るい)。

テリトリーをめぐる悲哀

さて、その教員ポストをめぐる現代の就職戦線も、いくら就職がないとはいっても、まったくないわけではなかった。では、就職に成功した者と不成功に終わった者との間には、一体どんな差があるというのだろうか。

私の知り合いの研究者が、〝専任講師〟を獲得したときの話をしたい。少数派の勝ち組に、彼や彼女はどうやって入ったのか。

谷村さんは、私より少し下の世代の研究者であった。面白い論文を発表する人物であったし、能力的に非常に優れているのは間違いなかった。彼が博士課程在学中の時、卒業後の進路について話したことがある。そのとき、谷村さんは「まったく不明です」といっていた。だが、それから一年半後。彼から次のような連絡が入った。

「就職しました。○○大学の講師になりました」

その時、私は某大学の非常勤講師をしながらのフリーター生活者であった。すでに公募(大学教員募集のための公の告知。教員が必要となった大学によって出される。教員を目指す者は、ここへの書類提出が必須)へも相当数の応募をしていたが、すべてダメだった。驚いた私は、彼に何度で通過したか聞いてみた。

一度だった。

ちなみに、彼はT大学大学院卒だ、などということは、ここでは言わない。ただ、就職に強い大学があるということだけわかってもらえればよいのである。

博士卒が就職先を探す場合、重要なことが二点ある。まず、出身大学。次に、出身研究室。どんな組織の中にも、力関係が存在する。とすれば、組織の意思決定に多大な影響力を持つ勢力に縁故があることは、非常に重要なことだ。同じ大学や研究室の先輩が、就職しようとする大学にいるか、いないか。このことは、彼が専任教員になれるか、それとも無職者に終わるか、ということを左右しかねないのだ。とくに、大半が無職博士となるご時世である。だからこその、〝ご縁〟頼みだ。厳しい時代、苦しい環境だからこそ、仲間内の結束がものをいう。

こうしたテリトリーは、確実に存在する。だが、テリトリーは、その性格上そこに入らないものをはじき出す構造をもつ。食い扶持がかかっているのだから、その構造はさらにシビアになるのは言うまでもない。これが、日本全国津々浦々の大学で展開されると、それはさながら国盗り合戦の様相を呈すのである。こうなると、元々力の強い者がますます有利になってくる。

坂田さんは、旧帝国大学の出身者である。博士課程に在籍して五年目となったある日、天の声が降りてきたそうだ。

「日本の南のほうに空きが出たといわれました。名前を聞いた時は、とても小さな大学だったのでどうしようかと迷ったのですが、次に常勤のポストがまわってくるのはいつになるかわからなかったので、決めました」

その大学に「派遣」される教員は、代々坂田さんの属する大学からという「伝統」があった。

坂田さんは言う。

「待っていれば、そのうちまわってくるとは思ってました」

先の西村さんが、まったく就職の展望が見えないのとは、実に対照的ではないか。彼は探しても探しても見つからないのだ。

「就職にコネはつきものだ」という声もあるかもしれない。だが、テリトリー争いには、「しかたがない」とはいえないような、もっとドギツイ実態があるのだ。

植民地化された弱小大学院

就職に強い大学院(テリトリー持ち)があれば、もちろん逆のところもある。

一般に、地方私大の院や単科大学に設置される院、地方女子大の院などは、就職時における推薦や公募で苦しい立場に立たされることが少なくない。もちろん、コネがないからだ。ここでいうコネとは、自らが所属する大学院の先輩で、教員になっている人の影響力を指している。

これがない大学院は、いうまでもなく新しいところが多い。歴史が浅いため、人材の育成が量的にも質的にも不十分である。そのため、どこかの大学に知った人を探そうと思って見渡してみても、いるはずもない。

大学全体の序列(偏差値的)のなかでもまた、低いところに位置する場合が少なくない。卒業生の進路は、さまざまな点で難しいコースを辿ってしまいがちである。とりわけ、大学の教員になるなどというのは、非常にレア・ケースであるというのが現実だ。

だからこうした場合、学生が自らの大学の講師陣を見渡してみても、その大学の関係出身者は皆無のはずだ。それは、とどのつまりこういうことである。

その大学や学科を形作ってきたのは、「母校の出身者ではなく他学の出身者だ」ということだ。当然、そうした他学による生え抜きグループの影響力はとても強い。

「母校へ奉仕したいと挨拶にいきましたが、その後、梨のつぶてです。ただ、ついこないだ、某旧帝大から一人雇われたと聞きました。母校は、そこの出身者が多いんです」

こう語るのは、大学院重点化以降に作られた地方私立大学の大学院修士──いわゆる弱小大学院を修了した岡崎さんである。彼はその後イギリスに留学し、そこで博士号を取って帰国した。帰国後すぐに、故郷に錦を飾る思いで母校に報告にいったそうだ。だが、その時のことを思い出すと情けなくなるという。

「博士号の報告にいくと、『ああ、そうですか』というようにあっさりとながされました。もちろん、私に目をかけて下さっていた幾人かの先生は喜んでくれましたが、多くの先生方はあまり歓迎ムードではなかったですね」

母校の学生が留学までして博士号を取ってきたというのに、不思議な話である。

「うちは、教員の〝博士〟学位取得率があまり高くないのです。もしかしたら、三流私大出身の私が学位を取ってしまったことに不快感があったのかもしれません。ドクターコースへの進学が決まった際にも、『入るのは誰でも入れるからな』と、ある教員からいわれたこともありますから」

たんたんと語る岡崎さんの口からは、信じられないような言葉が次々と飛び出す。だが、いわゆる三流私大と格付けされているからこそ、母校の学生が博士号まで取って戻ってきたら、両手を広げて歓迎するのがふつうではないのか。

「教員は、学生のレヴェルを知ってますからね。自分たちから見れば、馬鹿も同然の学生が、学位を取ったこと自体信じられない思いでしょう。馬鹿であるはずの学生が、さらに教員のポストを要求してくることなど、彼らからしてみれば、聖域を侵されるようなものなんじゃないかな」

教員は、通常〝よい大学〟(旧帝大・東工大・一橋大・筑波大・神戸大・広島大・早慶など)を出ている場合が多い。その彼らが、いわゆる三流大学に勤めることになった場合、学生を見下していることもあるという。彼らにとっては、そんな学生が、自分たちと同じ教壇に立つなど、許せないことなのかもしれない。

自嘲気味に語る彼の背中は、とても寂しそうだった。母校の教員が、いつも学生を大事に考えているとは限らないのだということを、彼の話は教えてくれる。

こんななかで、岡崎さんは博士号を取得したわけだ。だがそれが、母校の教員にとっては、癪に障ったのかもしれない。これが本当だとすると酷い話だ。だが、岡崎さんが失望した本当の原因は、実は別のところにあったのだ。

「学位取得の報告を喜んでもらえなかったとか、そういうのは実はどうでもいいんです。問題は、母校が、一部の勢力に食いものにされているということなんです。それが、どうにも我慢ならないんです」

彼の言葉を借りれば、「伝統的な優秀校を出た者たちが、比較的歴史の浅い地方大学へと教員を送り込み続けることで、そこが植民地化されている」ということだ。ちなみに既出の〝研究大学〟(一橋大は含まない)による市場占有率は、五二・八%(二〇〇一年、広島大学高等教育研究開発センター)。そうであれば、これまでの一連のことも理解できる。なぜなら、こうした教員にとって、そこは餌場にすぎないのだから。

だが、それでは彼らに指導された学生たちの立場はどうなるのだ。既得権を持つもの──その大学における人事などを掌握している教員たちとその背後勢力──を食わせるだけの存在なのだろうか。このように、昔からの支配権を持つ一部の大学関係者だけが食い扶持を確保する陰には、多くの食われる者の存在がある。

つまり、岡崎さんたちのような、この業界に遅れてやってきた〝新参者〟には、既得権で固められた世界に食い込むチャンスすらないということだ。それは、フリーターに転落しやすい博士卒と転落しにくい博士卒が、ある時点ですでに決まっていることを表す。

だが、こうした既得権をまったく持たない博士卒が、あとからあとから生み出されているのが現在の状況なのだ。彼らは、市場全体からみればおそらく二割程度だが、確実にフリーターになるという意味では中心的存在となる。

西村さんや岡崎さんたちが、高学歴ワーキングプアの中核を成す理由はこういうわけだ。

その大学院に存在価値はあるか

つまり、高学歴ワーキングプアが増えているといっても、実は出身大学および大学院の階層によってその深刻さには大きな違いが見られる。一定枠の市場が弱肉強食の論理で争われているからだ。

大学に階層(一流・二流など)があるように、大学院にもそれはある。多くの場合、それは、母体の大学のレヴェルがそのまま反映されている。だからこそ、院生とはいっても、どこの院生なのかということが就職の際には大事になる。

その院生であるが、少々位置づけがややこしい。というのも、大学生であれば、入った大学のランクそのままが学生に適用されることになる。この場合、どこの高校出身かということは問われない。

だが、院生の場合はすこし異なる。出身大学と所属大学院が異なっている場合が少なくないからだ。とくに、文科省が大学院流動化──自学出身者の占有率を下げ、他学からの学生を研究室に入れることを推奨する動き。最近では、生え抜きを三割程度にとどめるようにとの具体的数値が示された──を求めているため、この動きは激しい。すると、この院生はどのレヴェルにいるのかという判断を下すことが難しくなる。だから、多くの場合、次のような方法でラベル付けがなされる。

その区分は、四つ。(A)一流大学から一流大学院。(B)一流大学から二流大学院。(C)二流から一流。(D)二流から二流。以上について説明すると次のようになる。

(A:一流→一流)は文字通りAランク。旧帝大やそれに並ぶ大学出身者で、大学院も同様のレヴェル(研究大学)に所属している院生を指す。フリーターに転落しない可能性を最も模索できるのがこの層だ。

(B:一流→二流)は、めずらしいパターンだ。出身大学はAランクだが、大学院進学の際にBランクに移動してきた者たちだ。その理由は、希望の研究室がたまたまBクラスに位置していたからというものがほとんどだ。彼らも明確な目的をもって、あえて都落ちをしているので、フリーターになる可能性を回避する策を練っている(だが、Aよりは不利)。

(C:二流→一流)大学院では割と珍しくないパターン。出身大学は二流だったが、大学院では一流に移った者たち。本人たちには気の毒だが、よく「ロンダ(学歴ロンダリングの略語)」などの隠語で生え抜きから蔑まれるなど、彼らはいつも胃の痛い思いをしている。就職では、苦しい展開になる場合が多い。

(D:二流→二流)出身大学が二流で、大学院も二流。彼らの多くは、内部推薦でプッシュされた者が多い。就職はもちろんほとんど絶望的だ。

そして、現在世をにぎわせている高学歴ワーキングプアを、階層によって分けてみると、以下の四つに分類される。

①最初からそうなることが決定づけられている層(二割程度)。②なることを避ける手だてがほとんどない層(三割程度)。③ならない手だては打てないこともないが、運に左右される層(一割程度)。④ならないような手だてを打てる機会を最も多く有する層(四割程度)。もちろん、これらの違いには、既得権のあるなしが関係している。

さて、①と②に該当する、DおよびCのパターンの人は、大学院入学の時点ですでに、圧倒的不利な状況に立たされている。それでも、Cの場合はまだましだ。自らの意志で選択しているのだから。

だが、Dはひどい。自らの意志というよりも、うまくのせられて、気がつくと大学院生になっていたという場合が少なくないからだ。〝新規〟に大学院が設置されれば、定員を満たすために学生が釣り上げられる例は、ここまで示した通りである。

読者のなかには、「でも、最後は自分で決めたんでしょ。なら仕方ないんじゃない」という声もあるかもしれない。

だが、大学側は完全に説明責任を果たしていたのか。新設大学院にありがちなリスクについては説明がなかったかもしれない。就職については、現実とはほど遠いことを言っていたかもしれない。

大学というところに身をおいてきた自らの経験から、どうしても気になることがある。それは、大学院に誘った教員は、最初から学生たちの未来を〝見通していた〟可能性があるのではないかということだ。頭の中には、最初から学生たちの未来について、ある結末が描かれていた。だが、真実を告げることはなかった。いや、告げられなかった。彼らは組織人だからである。これが、大方の事実ではないか。

大学という組織は、学校法人の中枢に座する理事会によって意思決定がなされる。経営戦略のなかで何が優先されるのか。それによって、さまざまな動きが生じる。Dの場合、おそらく法人はピラニアになる決定をしたのだろう。

このように、高学歴ワーキングプアは、そうならざるを得ない立場の者が最初から確定されていた上、さらに研究大学からの転落者が加わるという、重層構造が形成されているのである。なぜなら、既得権を持たない者は、最初からフリーターになることが確定しているからだ。

企業は博士卒を必要とはしていない

これまで見てきたように、大学院博士卒の行き先は、基本的には大学にぶら下がるしかない。だが、一応、民間にいく場合についても見てみたい。

平成一三(二〇〇一)年五月二一日発売の雑誌「アエラ」では、「さまようポスドク(ポストドクター。博士号を取得し教職や研究職に就いていない者)一万人 若き頭脳が埋もれている」という見出しで、あぶれる博士問題に関するテーマが設定された。どこの研究機関にも所属せず、自宅の五畳間で論文を書き続ける四三歳の物理学者の話や、〝ニセ公募〟の問題を取り上げ、博士号取得者が使い捨てになっている現状が取り上げられている。

博士号取得者の雇用予定がたった三%にすぎないという、企業の雇用実態についても言及された(「九八年の全企業における博士号取得者の採用予定比率」、旧科学技術庁資料)。

この背景として、企業には「自分の考え方を大事にするような博士卒は必要ではない」という考えが根強くあるようだ、と記事では指摘している。ほしいのは企業の営利にあった研究を行ってくれる者というのが、企業の本音らしい。

平成一七(二〇〇五)年五月二日付読売新聞(夕刊)でも、博士号取得者で常勤として雇用されていない者、つまりフリーターの数が一万二五〇〇人に達していることが問題として報じられている。そして、このなかでも、企業側が「博士卒は視野が狭い」などの理由で採用に消極的であるということが取り上げられている。

バブル期のツケに苦しみ続けてきた企業は、立て直しのためリストラを繰り返してきた。そんな状況のなかで、中途採用に近い形になりかねない博士卒など到底採用できないという本音もちらつく。だが、最大の理由は、「企業が日本の博士課程修了者の実力をあまり信用していない」(読売新聞平成一一〈一九九九〉年八月二六日付朝刊)ということにあるようだ。

いずれにせよ、一般的な進路として、博士卒が民間に就職できる可能性は限りなくゼロに近いということだけは間違いない。

(第2章に続きます)

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