【第24回】21世紀に必要なのは科学と哲学を軽やかに往来する知性である!
■膨大な情報に流されて自己を見失っていませんか?
■デマやフェイクニュースに騙されていませんか?
■自分の頭で論理的・科学的に考えていますか?
★現代の日本社会では、多彩な分野の専門家がコンパクトに仕上げた「新書」こそが、最も厳選されたコンテンツといえます。この連載では、哲学者・高橋昌一郎が「教養」を磨くために必読の新刊「新書」を選び抜いて紹介します!
20世紀の天才たちによる30の大論争
再び拙著を紹介するのはおこがましいのだが、ぜひ読者に楽しんでいただきたいのが『20世紀論争史』である。全30章・456ページという新書は、これまで私が上梓してきた中でも最も分厚い作品だが、「21世紀に必要なのは科学と哲学を軽やかに往来する知性である!」(編集担当者作成によるPOP)という趣旨を、どなたにもわかりやすく把握していただけるように執筆したつもりである。
本書は、「教授」と「助手」が、コーヒーを飲みながら研究室で対話する形式で進行する。とくに読者対象としてイメージしていたのは、教養課程に在籍する大学1・2年生である。実際に私が大学で使用する際には、まず事前に「論争」を指定して、どちらの見解に共感するか学生に考えてきてもらう。たとえば第3章であれば、学生はベルクソンとラッセルのどちらの見解に賛同するかを考えてきて、授業時にはベルクソン派とラッセル派に分かれてディベートを行う。
そのディベートで浮かび上がってきた論点を抽出し、整理して、それらが現在の学界ではどのように議論されているのか、改めて解説する。授業後のリアクションペーパーでは、学生自身の最終的な見解を熟考したうえで、小論文にまとめて提出してもらう。本書で扱うような根源的な「論争」の背景には、さまざまな哲学的問題が潜んでいることが多く、必ずしも単一の絶対的解答が存在するわけではない。そして、私の授業で行う「哲学ディベート」は、「競技ディベート」のように、他者への説得力によって勝ち負けを競うものでもない。あくまでディベートを通して、むしろ視野を広げることが重要なのである。
したがって、最終見解で、ベルクソン派だった学生がラッセル派に意見を変えるのも、その逆も自由である。お互いの意見や立場の違いを明らかにしていく過程で、かつて考えたこともなかった発想や見方を発見し、さらにそこから新たなアイディアを生み出すことこそが、「哲学ディベート」の目的だからである。
本書の「論争」は、ベルクソン対ラッセル、ウィトゲンシュタイン対ポパー、アインシュタイン対ボーアのように個人間における狭義の「論争」が基本となっている一方、ソーカル対「ポスモダニスト」、チューリング対「反人間機械論」、カーツ対「反科学思想」のように思想的な対立という意味で広義の「論争」を指す場合もある。全30の「論争」から、大いなる知的刺激を味わってほしい。
そもそも、なぜ20世紀に多種多彩な「論争」が生じたのか、そこからどのように枝分かれして別の「論争」に繋がっているのか、それらが21世紀現在ではどのように議論されているのか。このように単なる個別「論争」を超えたメタ問題について考える姿勢も、現代思想の根源に迫るためには必要不可欠である。
読者には、ぜひ一緒に議論に参加していただき、多彩な「論争」を上空から俯瞰して、何が20世紀の「源泉」で生じたのか、21世紀に生きる我々にどのようなヒントを与えているのか、幅広い視野で把握していただけたら幸いである。
本書のハイライト
教授 かつて「生命」「言語」「真理」「認識」「知性」「存在」「正義」などに関する根源的な問題は、哲学の世界で思弁的に議論されるばかりだった。これらの問題に対して、自然科学からアプローチできるようになったのが二〇世紀といえる。したがって、「科学を視野に入れない哲学も、哲学を視野に入れない科学も、もはや成立しなくなった」というのが、私が二〇〇二年に上梓した『科学哲学のすすめ』で述べた見解だ。
助手 第一線の哲学者や科学者が根源的な問題を議論したら、当然「論争」が生じることになりますね。
教授 その種の「論争」は、二一世紀の現代になっても形を変えながら深層で継続し、ますます重要性が高まっている。
助手 おもしろそう! 先生、いろいろな「論争」について、教えてください!
(p. 16)。
第23回はこちら
著者プロフィール
高橋昌一郎/たかはししょういちろう 國學院大學教授。専門は論理学・科学哲学。著書は『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『愛の論理学』『東大生の論理』『小林秀雄の哲学』『哲学ディベート』『ノイマン・ゲーデル・チューリング』『科学哲学のすすめ』など、多数。