小澤征爾、小林研一郎、佐渡裕、沖澤のどか...クラシック音楽を彩る指揮者たち|本間ひろむ
不思議な音楽家
指揮者は一切、楽器に触れない(演奏しない)不思議な音楽家だ。
リハーサルでも楽器は弾かない。が、よく喋る。
リハーサルでこんな指示を出すのは、尾高忠明。
というディレクションをするのが、広上淳一。
どちらの指揮者もNHK交響楽団の凄腕楽員たちを相手にリハーサルをした時のものだが、こんなふうに演奏してください、というリクエストをするだけで、かくも個性が炸裂する。
このようにリハーサルは言葉で伝える言語コミュニケーション(指揮者の性格やパーソナリティがそのまま出る)。
一方で、演奏会本番では指揮者は観客に背中を見せ、無言でタクトを振る。これすなわち、非言語コミュニケーションの極致である。この使い分けが指揮者の腕の見せ所であり、聴き慣れたあの名曲が違って聴こえてくるというマジックはここから生まれる。
一緒にいてラクな人が多い
日頃、クラシックに限らずプロの音楽家のみなさんと接していて感じることは──もちろん演奏スキルがえげつないことは自明ですよ──この人たちは「非言語コミュニケーションに長けているな」ということ。あれこれ余計な説明をしなくてもいいので、一緒にいてとてもラクな人が多い。
これはどうゆうことかというと、この非言語情報に対するセンス(人はそれを「野生」と呼びます)を磨かないと職業的に音楽家にはなれないということだ。そして、この非言語情報に対するセンスを磨くことでしか「教養」は獲得できない。
一方で、教養のない人ほど言葉そのもの(記号論でいうとシニフィアンですね)にしがみつく。例を挙げるなら、
なんて言い方をする人。こんな人がまわりにいたらなかなかシンドイ。
話が逸れてしまったが、要するにクラシック音楽は教養そのものということだ。ただ、頭だけで理解しようとしてもだめです。まずは体の中に音楽を招き入れること。
たとえば、モーツァルト《交響曲第40番》と聞いて「あ、大きいト短調ね」となるでしょ。そして、あの主旋律が頭の中に流れてくる。ついでに、小さい方のト短調(交響曲第25番ですね)の冒頭のあのエキサイティングなパッセージ(映画『アマデウス』の冒頭で使われてたやつです)も流れてくる。もっといえば、バッハの《小フーガ ト単調》のあの物悲しい旋律まで頭に流れてくるでしょ。パイプオルガンの音で。
しかし、スコア(楽譜)にあるのは記号のみで(もちろんAllegroといった速度記号などは言語情報ですが)、クロード・ドビュッシーみたいに「はい、これはなんちゃらという日本の版画で『海』のスコアの表紙に使いますよ」なんて親切なことはいってくれない。ロマン派までのクラシック音楽は、非言語情報の嵐です。速度記号や発想記号でもシニフィアン(言葉の表の意味)だけではなく、楽曲の全体像を見てシニフィエ(言葉の裏の意味)も把握する必要があります。
そして、指揮者はそのスコアを担保にして、オーケストラのみなさんに自分のイメージしたとおりの「大きいト短調」を演奏させなければいけない。
映画監督!? CEO!? 投資家!?
自分では直接手を染めない、という点において、指揮者は映画監督、サッカーや野球の監督、もしかしたら最高経営責任者や投資家のみなさんにも近いのかも知れない。
チームの状況(会社の情報)をきちんと把握し、マーケットの情報(サッカーなら同じリーグのほかのチームの戦力)を随時キャッチアップして、自分のチーム(会社)を成長させる。投資家はその銘柄が成長するかどうかを見極める。そこは言語情報をキャッチアップするだけでは(残念ながら)不十分である。非言語情報に対するセンスが問われるのだ。
では、指揮者はどうか──。
リハーサルでは言語情報の嵐。本番はタクトを振るだけ。
この2通りのアプローチを使い分け、本番(演奏会)を成功に導かなかればいけない。
そして、受けて立つのがオーケストラ──。
思えば、あそこ(プロオケのプルトの前)に座るためには、子供の頃からピアノを習い、それ以外の楽器(ヴァイオリンや管楽器や打楽器など)をとことんさらい、気がつけば数千万円と20年前後の時間(というコスト)をかけて座っている。そんなプロの音楽家が100人、舞台の上に乗っているのがオーケストラ。そんなこんなの猛者たちが、せーのでいっせいに演奏するんですよ。そりゃあ、あーた、沼ですよ、沼。
ビートルズだってせいぜい4人ですよ。しかも、彼らは大してコストかけてないし。ジョージ・ハリスンなんて大してうまくないし(失礼)。
そして、その100人の猛者を一気に束ねるのが指揮者というお仕事。両者が一体となって作られる音楽のなんと豊かで、贅沢で、心躍ることか──。
今でもオーケストラの生演奏を見ると、翌朝シャキッと目覚めることができる。どんなサプリより、朝陽をたくさん浴びて(セロトニンを分泌させて)散歩する朝より、コレは効きます。
オーケストラ音楽は心と体が喜ぶのだ──。
本書は、こんなふうに誰かを沼に引きずり込んでしまった(あるいは自ら沼にはまってしまった)日本の指揮者とオーケストラの物語だ。
もちろん、ピアニストもヴァイオリニストも沼の住人ではあるのだが、そちらは拙著『日本のピアニスト』や『日本のヴァイオリニスト』にてお楽しみください。