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新刊『「文」とは何か』の「ビーグル」にまつわる箇所を全文公開します!

8月刊『「文」とは何か』が、おかげさまで発売前から日本語好きの方を中心に話題になっています。とりわけ今回目を引くのが帯の「ビーグル」の写真。実は著者の橋本陽介先生はビーグルをこよなく愛しておられて、そのビーグル愛ゆえに本書の例文にも登場させていたのでした。今回は発売記念に、帯にもある「ビーグル!」の一語だけでも「文」であるというくだりを公開いたします。

単語一つでも「文」

前章では、主語と述語、それから格を中心に「文」とは何かについて考えた。ただ、これまで取り上げてきたのは、主語と述語も修飾語もそろっているようなちゃんとした「文」だった。


 ビーグル!


みたいな、一語からなるものも「一語文」と呼ばれていて、これも「文」に含まれるとされている。

なんでこんなものを「文」と認めるのか。ただ単語を一つ言いはなっただけではないのか?

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帯に登場している元気いっぱいのコです…!

そうかもしれない。だが、これだけでも十分意味を成すことがある。私はビーグル犬を偏愛しているので、街で歩いているビーグルを見つけるとついこのワードを発話してしまうのだが、この場合には「ビーグルがいる!」というような意味で使っている。

それなら、この「ビーグル!」は「ビーグルがいる!」の省略形なのか? そうかもしれない。ただ、同じ「ビーグル!」という発話でも、「あなたの好きな犬の種類は?」と聞かれたり、「空港で麻薬捜査に当たっているにおいをかぐのが好きな犬の種類は?」と問いかけられた場合の答えとして、「ビーグル!」は単独で立派に「文」として通用する。

一語でも「文」と見なされることがあるとすれば、「文」なるものの要件はむしろ、主語だとか述語だとか格だとかそういう形式にあるのではなくて、何かを述べたてることそのものにあるのではないか。

私自身は、「ビーグル!」のように単独で出てくる名詞も述語と認めてよいと考えている。

つまり、「文」であることにとってもっとも重要なのは、主語―述語ではなく、述語だ。述べ立てる機能を持つのが述語である。

では、「何かを述べたてる」とは何か。そりゃ、言葉なんだから何かを言っているに決まっているだろう。「文とは何かを述べ立てること」だなんて、何も言っていないに等しいではないか?

もう少し考えてみよう。「文」とは、「あるまとまった意味や考え」であるとする説を前章で取り上げた。「あるまとまり」なるものは、どこにあるのか? それは客観的に存在するというよりも、話者が主観的にまとめるものである。「ビーグル!」が「文」として意味をなすのは、それがなんらかの意味を表すものとしてまとめられ、述べられているからだ。

だが、「ビーグル!」という一語文の中に、その話者の主観なるものはどこに見られるのか?

それは、文字としては表れていないが、音声としては表れている。街で散歩中のビーグルを発見したときの私の気持ちは高ぶっている。その高ぶりは言葉の上ずりとして音声上に現れることもあろう。「そこにビーグルがいる」という認識をしたことが表現されていると言えるかもしれない。

いや、「ビーグル!」なる発話は、一人ですることもあるが、他者に伝えようとしている場合もある。一緒に歩いている友達は、私がビーグル好きであることを知っている。そこで友達が「ビーグル!」と言ったとするならば、私にその情報を知らせていることになる。人は言葉を使ってコミュニケーションするので、他者に何かを伝えることも「文」の重要な機能の一つである。

つまり、「何かを述べたてる」には、主観的に何かを「一つのまとまり」としてまとめ上げること、そしてそれを伝達することの二つが含まれることになる。

この二つは、日本語の文法形式の中にもきちんと表されている。文法形式として話者の主観が表現されるのは、日本語では述語の末尾である。学校文法では助動詞と呼ばれているものの中に、それは表現される。


↓こちらの橋本先生のツイートでは、目次が読めます!



『「文」とは何か』は遅くとも8月19日(水)くらいまでに全国書店に並びます。ぜひお手にとってみていただければ幸いです!



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