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第一章 すべては志ん朝の死から始まった――広瀬和生著『21世紀落語史』12670字公開

4月13日のTBSラジオ「東京ポッド許可局」でサンキュータツオさんが『21世紀落語史』を推薦してくださいました。どうもありがとうございます!

※「はじめに」はこちらからご覧ください。

志ん朝の死がもたらしたもの

今、確かに「最近落語を聴き始めた」という新規参入の落語ファンが多いのは事実。いろんな落語会の客席にいて見聞きすることから、それは実感する。

しかし、この数年で突然「落語ブーム」がやって来た、とは思わない。

20世紀末に低迷した落語は21世紀に入ると活況を取り戻し、今に至っている。

大きな転機が訪れたのは2001年10月1日。この日、古今亭志ん朝が肝臓ガンのため亡くなった。享年63。この訃報はあまりにも衝撃的だった。誰もが認める「ミスター落語」、当代随一の名人、万人に愛されたスター、「昭和の名人」古今亭志しん生の倅(せがれ)にして「名人に二代あり」を体現した天才……志ん朝を褒め称える言葉ならいくらでも出せる。正真正銘の「理想の落語家」だった。

その志ん朝が63歳の若さで亡くなったのは落語界にとってこの上ない悲劇だ。いずれは父の名跡(みょうせき)を継ぎ、落語協会会長となって業界を引っ張っていってほしかった。

2010年に柳家小三治にインタビューしたとき、志ん朝の死に関して尋ねると、彼はこう言った。

「『なんで死んじゃうんだバカヤロウ!』と……志ん朝は、死んじゃいけない。あの人は生きてなきゃいけない。それはファンのためにじゃなくて、噺家のために」

志ん朝の死は、まさに「事件」だった。

そして、その「事件」を境に落語界と、それを取り囲む空気が変わった。

当然のように「これで落語の灯が消えた」とコメントした作家もいたが、意外なことに現実は逆だった。志ん朝の死という悲劇は結果的に、停滞していた落語界を活性化させた。数年後に爆発する「落語ブーム」は春風亭小朝の仕掛けたイベントやテレビドラマ『タイガー&ドラゴン』等によるところが大きいが、それらも含めて、「すべては志ん朝の死から始まった」のである。

志ん朝の死がもたらしたものとは何か。

まず何より、マスコミに「落語」が大々的に取り上げられたということだ。

春風亭小朝は2000年2月に出版した『苦悩する落語』(光文社)の中で、「今、落語が話題になるのは、高田文夫さんか立川流が絡んでいるときだけ。この10年間、もしも『笑点』と立川流がなかったら、落語がマスコミに取り上げられることはなかった」と指摘した。

放送作家でタレントの高田文夫氏は日本大学芸術学部の落語研究会出身。笑芸プロデューサーとして1992年に旗揚げした「関東高田組」には春風亭昇太、立川志らく、立川談春といった落語家が名を連ねていたが、自身も立川流Bコース(有名人コース)の真打「立川藤志楼」として90年代半ばまで積極的に高座に上がっており、実質的には立川流の人でもある。

立川流とは、1983年に落語協会を脱退した談志が自ら家元と名乗って創設した「落語立川流」のこと。東京に4軒ある寄席の定席(じょうせき)のうち上野鈴本演芸場は落語協会のみ出演、他の3軒(新宿末廣亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場)は落語協会と落語芸術協会の交互出演となっていて、立川流は寄席の定席には出演しない。

また2000年当時の『笑点』の司会は五代目三遊亭圓楽。1978年に師匠の三遊亭圓生が落語協会を脱退して「落語三遊協会」を創設、圓生没後は圓楽一門を除いて落語協会に復帰し、圓楽率いる「五代目圓楽一門会」(通称「圓楽党」)は寄席の定席に出演しない独立小団体となった。

当の小朝自身はマスコミに出ずっぱりではあったけれども、この指摘で彼が言いたかったのは「寄席の世界はマスコミに相手にされていない」ということだ。

だがその翌年、「寄席の世界」の頂点に君臨する古今亭志ん朝の名が、「死」という悲劇を伴いながらではあるにせよ、全マスコミを席巻した。その取り上げられ方は有名タレントとしてではなく、あくまでも「古典落語の名人」としてのもの。マスコミは、彼の死によって「志ん朝の落語」が失われたことを悼み、悲しんだ。これが大きな意味を持つ。

「名人の早すぎる死」を悼む声の大きさに驚き、それまで存在すら念頭になかった落語なるものに初めて関心を持った人もいれば、かつては好きだったけれどいつしか聴かなくなった落語に再び目を向けた人もいただろう。「志ん朝の早すぎる死」という悲報が与えたインパクトの大きさは、忘れられていた「落語」を思い出させるに充分だった。

だが、それだけでは「落語ブーム」は来ない。デヴィッド・ボウイが亡くなって大回顧展が盛況となり、遺作が全米1位に輝いてグラミー賞5部門を獲得したように、志ん朝のCDやDVDが売れまくるだけだ。

それが単なる一時的な「志ん朝ブーム」、もしくは「物故名人回顧ブーム」で終わらず「落語界の活性化」に結びついたのには、理由があった。実はすでに、「機は熟していた」のである。

「充実した中堅層」と「イキのいい若手」

落語界が低迷した1990年代、大きな飛躍を見せたのが立川志の輔、立川志らくの2人だ。

1990年に真打昇進、マスコミでも売れた志の輔は1996年に「志の輔らくご 両耳のやけど」と題した落語CD全10枚を発売し、同年末には「志の輔らくご in PARCO」をスタート。1994年から赤坂の草月ホールで始めた月例独演会「志の輔らくごのばあい」は2000年に新宿の安田生命ホール(後の明治安田生命ホール)に場所を移して「志の輔らくご 20世紀は20日」となり、翌年以降の「志の輔らくご 21世紀は21日」に繋がっていく。

1995年に真打昇進した志らくはシネマ落語で注目され、独演会「志らくのピン」の名を冠したCDを3枚(1995年、1997年、1998年)リリース。2000年9月には初の著書『全身落語家読本』(新潮社)を出版する。

マルチに活躍する談志や小朝以外で1990年代に落語家として話題になっていたのは、(小さん、志ん朝、圓楽、小三治といったビッグネームを別格とすると)この2人と春風亭昇太くらい。1997年に真打昇進した立川談春が将来の落語界を背負って立つべき逸材であることは当時から明らかだったが、人気という面で彼が飛躍するのは21世紀に入ってからのことだ。

では、20世紀末の「それ以外」はどういう状況だったか。

寄席の世界で鎬(しのぎ)を削っていたのが柳家さん喬・柳家権太楼の2人。前者は1981年、後者は1982年に真打昇進した中堅世代で、今に続く上野鈴本演芸場での特別興行「さん喬・権太楼 特選集」は1999年に始まっている。同世代では五街道雲助、春風亭一朝、古今亭志ん五らが寄席通に人気だった。

その少し下の世代では、1985年に真打昇進している古今亭志ん輔が15年間レギュラーを務めたNHKの『おかあさんといっしょ』を1999年4月に卒業、寄席での存在感を高め始める。同じく1985年昇進組の春風亭正朝、入船亭扇遊らも寄席の重要な戦力となっていた。その下には談志をして「あいつは天下を取る」と言わしめた「昭和最後の真打」古今亭右朝(1988年昇進)がいたが、21世紀に入ろうとする頃に病に倒れ、2001年4月に52歳の若さで亡くなった。いまだに「右朝が生きていれば……」という声があるほど、彼の死は落語界にとって痛かった。

めきめきと頭角を現わしてきた若手真打が柳家喜多八(1993年昇進)、柳亭市馬(1993年昇進)、柳家花緑(1994年昇進)ら。その下の橘家圓太郎(1997年昇進)、三遊亭歌武蔵(1998年昇進)らも後を追う。

今まで挙げたのはすべて落語協会所属の落語家だが、落語芸術協会には突出した面白さの春風亭鯉昇(1990年真打昇進/現・瀧川鯉昇)、江戸落語の伝統を体現する若手の桂平治(1999年真打昇進/現・十一代目桂文治)らがおり、評論家筋に注目されていた。

五代目圓楽率いる圓楽党は鳳楽(1979年真打昇進)・圓橘(えんきつ)(1980年真打昇進)・好楽(林家九蔵で1981年真打昇進/1983年圓楽一門に移籍)・楽太郎(1981年真打昇進/現・六代目圓楽)ら幹部が組織を固める「四天王」体制で独自の活動をしていたが、次世代のエース不在が立川流と対照的だった。

今まで見てきたのは真打だが、実はこの時期、次代を担う有望な二ツ目たちがすでに注目を集め始めていた。林家たい平、柳家喬太郎、三遊亭新潟(現・白鳥)、橘家文吾(現・文蔵)、柳家三太楼(現・三遊亭遊雀)、横目家助平(現・柳家一琴)、入船亭扇辰、林家彦いち、古今亭菊之丞らである。

20世紀最後の年である2000年の3月に林家たい平と柳家喬太郎の2人が抜擢で真打昇進。そして21世紀最初の年である2001年の9月、新潟改め白鳥、文吾改め文左衛門、三太楼、横目家助平改め柳家一琴らが真打昇進した。翌2002年3月に扇辰と彦いちが真打となり、2003年9月には菊之丞が単独真打昇進で話題を呼ぶ。さらに言えば、2005年9月に桃月庵白酒として真打昇進する五街道喜助、2006年3月に真打昇進する柳家三三の2人は、もっと前の2004年頃に抜擢で昇進していてもおかしくないと思われていたのである。

先に述べた「機は熟していた」というのは、そういうことだ。

「志ん朝の死」で世間の目が落語という芸能に向いたとき、そこにはビッグネームや立川流以外にも「充実した中堅層」と「イキのいい若手」がいた。世間が知らなかっただけで、この時期の落語界には豊富な人材が揃っていたのだ。

そのことを、小朝も『苦悩する落語』の中で指摘していた。「これからはユニットの時代だ」と主張する項では、「昇太、志の輔、志らく、談春、花緑、新潟、たい平、喬太郎」他の名を挙げて「お客様を呼べる若手がこんなにいるじゃないですか」と言っている。それに続けて「これを放っておくのはもったいないと考えるのが普通でしょう」と言っているのは、だから所属団体の壁を超えて興行を打てばいいのに、との意だ。

ちなみに志らくの『全身落語家読本』にも面白い若手落語家として「談春、花緑、たい平、喬太郎、新潟、三太楼、助平、文吾」といった名前が列挙されている。

小朝、志らくの著書にやや遅れて目覚ましく動き出したのが、そこに名の挙がった一人、柳家花緑だ。

落語界の新たな顔・柳家花緑

志ん朝が亡くなった翌月の2001年11月、柳家花緑が初めての著書『僕が、落語を変える。』(新潮社)を出版した。

正確に言えば作家の小林照幸氏との共著で、形式は小林氏が花緑に密着取材したドキュメンタリーだが、実質的には花緑の「21世紀に生きる落語家としての決意」を語った、一種の告白本のようなもの。そこに書かれていたのは五代目柳家小さんの孫として生まれたがゆえの苦悩と葛藤を乗り越えて「花緑が花緑であり続けるために頑張るしかない」と前向きに落語に取り組むに至った、彼の赤裸々な思いだった。

1994年に31人抜きの大抜擢で戦後最年少(22歳)の真打昇進を果たした花緑は、「小さんの孫」というプレッシャーと闘いながら努力を重ね、国立演芸場花形演芸大賞や彩の国落語大賞などの受賞で落語家としての実力を証明する一方で、演劇など多方面での活躍で「今一番忙しい落語家」と評されていた。シェークスピアの戯曲を江戸を舞台とする落語にアレンジし、得意のクラシックピアノ演奏と合体させたCD「じゃじゃ馬ならし」を2001年2月にソニーからリリースすると、NHK『トップランナー』、テレビ朝日系『徹子の部屋』、TBS系『情熱大陸』といったテレビ番組がこぞって花緑を取り上げ、知名度も一段とアップ。「人間国宝の孫」というキャッチフレーズも相まって、花緑は落語界の新たな「顔」となっていた。

その花緑が、志ん朝が亡くなった翌月に『僕が、落語を変える。』というタイトルの本を出したのだから、インパクトは絶大だ。

もっともこの本自体は志ん朝の死とは関係ない。21世紀最初の日の寄席に向かう花緑のドキュメンタリーから始まる『僕が、落語を変える。』は、新潮社の編集者との食事会で作家の吉川潮氏が「今の花緑さんに足りないのは自身の本だ」と言ったことがきっかけで生まれた企画で(河出文庫版「まえがき」より)、同年1月3日に四代目桂三木助が亡くなったことについては言及されているけれども、志ん朝の死には触れられていない。

だが偶然とはいえ、花緑がここで『僕が、落語を変える。』と宣言したことは、業界的にも大きな意味を持っていた。花緑は、当時の落語協会の噺家としては異例と言えるほど、立川流との関係が深かったからだ。

1993年4月からフジテレビ系で始まった『落語のピン』は立川談志の高座をメインとしたテレビ番組で、小朝や志の輔、昇太といった真打の他に二ツ目の有望株も出演、中でも志らくが一気に人気を高めたことで知られるが、花緑(当時まだ二ツ目で柳家小緑と名乗っていた)もここに参加、それが談志と直接話をした最初の機会だったという。

この『落語のピン』に出演していた若手のうち昇太、談春、志らく、小緑、三遊亭新潟(現・白鳥)、橘家文吾(現・文蔵)、横目家助平(現・柳家一琴)らが「らくご奇兵隊」というユニットを結成したのは1993年5月のこと。スローガンは「うまい落語家と言われるよりも面白い落語家と言われること」で、後見人が談志と山藤章二氏。この「らくご奇兵隊」で受けた衝撃が、花緑の落語観を変えた。2009年に僕が行なったインタビューで、花緑はこう言っている。

「それまで僕は、うちの祖父や小三治師匠が落語として『正解』の形で、あれに向かっていくんだと思っていました。とにかく稽古を重ねていれば、あれに近づいていけるんじゃないかと。そんな僕の前で、昇太兄さんや志らく兄さんは、僕の彼女や親友をバカウケさせたんです。で、僕の芸は彼女や親友には通じなかった。同世代の人間に、僕の芸は面白くなかったんですよ。そして昇太・志らくという、僕より年上の人たちがウケさせていた。それが一番ショックでした。そのショックを談春兄貴が見抜いて、『おまえはな、死に物狂いで彼女をウケさせろ。彼女がウケる芸だけをやれ』と言ったんです」

昇太・志らく・談春への憧れが、後の花緑落語の原点となった。とはいえ、彼が「小さんの孫」である事実に変わりはなく、葛藤は続いたという。そんな花緑が吹っ切れるきっかけを与えたのは、真打昇進時に交わした談志との「一時間の立ち話」だったと『僕が、落語を変える。』に書かれている。いろいろと言われた中で最も感銘を受けたのは「落語がダメなんだと思うな、おまえがダメなんだと思え」という言葉だったという。

小さんと絶縁状態にある談志は、花緑にとっても絶縁状態であるべき、というのが当時の落語協会の「常識」だったはず。だが花緑は志らくや談春との交流を深め、談志にも可愛がられ、2001年には立川企画で「花緑飛翔」なる独演会まで始めている。その花緑が『僕が、落語を変える。』と宣言した。ではどう「変える」のか。

花緑は翌2002年11月に『柳家花緑と落語へ行こう』(旬報社)、さらに2003年8月には『東西落語がたり』(旬報社)という2冊の書籍を立て続けに出版、そこにはより具体的な「提言」が示されていた。それは小朝が『苦悩する落語』で語っていたプランとも一部符合するものであり、ある意味、その後の落語ブームを予見するものでもあった。

落語界における「危機意識の芽生え」

春風亭小朝の2000年の著書『苦悩する落語』に「宙に浮いたままのある企画」という項がある。そこにはこう書かれていた。

「実は数年前、高田文夫さんと二人で『銀座落語祭』という大イベントを企画したことがありました。ニッポン放送と、銀座の旦那衆のバックアップで、歌舞伎座、新橋演舞場、有楽町朝日ホール、博品館劇場、ガスホールなど、銀座の主要ホールをつかって三日間、朝から夜までの大落語祭を開催しようというのです」

言うまでもなくこれは、後に「大銀座落語祭」として実現することになるアイディアだが、この時点で小朝は4団体(落語協会・落語芸術協会・落語立川流・五代目圓楽一門会)の壁を超えて「東京の落語界が総力を結集したイベント」にすることは不可能と判断、企画は頓挫したと言っている。

この構想は小朝の「日本全国から注目されるイベントが行なわれないと落語界にはますます陽が当たらなくなる」という危惧から生まれた。もちろんこの時点では2001年に「志ん朝の死」という悲劇によって落語が注目を集めることになるとは小朝が知る由もない。

『苦悩する落語』の背景にあるのは一種の「諦観」である。小朝は演者の立場から低迷する落語界の現状を分析し、プロデューサーの立場から「何をなすべきか」を提言しながらも、終章で「どうせ何も変わらない」「空しい」という冷めた心情を吐露し、変わらない理由は「落語界はひとつのものに向かって力を結集することができない」からだと断言している。

それからたった数年で「大銀座落語祭」を含む様々な提言が実現することになったのはなぜか。まず指摘できる最大の要因は、落語界(特に落語協会)における「危機意識の芽生え」である。

2001年に古今亭志ん朝が63歳の若さで亡くなり、翌年には人間国宝の五代目柳家小さんが逝去。どちらも落語協会が誇る看板だ。その2人が亡くなったことで「古典落語の灯が消えた」という紋切り型の表現がマスコミを賑わす中、「なんとかしなければいけない」という空気が、特に中堅・若手から生まれてきたのは間違いない。

その象徴的な存在が柳家花緑だ。彼は21世紀初頭、紛れもなく「落語界のスポークスマン」だった。

2002年11月に出版した『柳家花緑と落語へ行こう』の「おわりに」で花緑は「最近の落語界は、とても動きが早い。10年かけて出来なかったことが数ヵ月で現実になったりする」と指摘、「落語界を良くしていこうというみんなの気持ちが、そちらに向かわせているのだと思います。志ん朝師匠、そして祖父・小さんの死も、大きな影響を与えているのでしょう。もちろん私を含めてそうです。だから、この本を出版するのにも熱い思いがあるのです」と書いている。

「熱い思い」。この時期の花緑の活躍ぶりは、まさにその一言に集約される。志らくや昇太の落語が若者にウケているのを身近に知っている花緑は、落語が他のジャンルのエンターテインメントに比べて引けを取るはずがないという信念のもと、「寄席に来てほしい」というメッセージを発信し続けた。

『柳家花緑と落語へ行こう』では落語の基礎知識と演目紹介、芸人紹介などに続き、最終章では東京の4派の壁を超えたオールスター・ラインナップによる「夢の寄席」のプログラム案を掲載、それを見せながら談志・小遊三・小朝・圓楽と各団体のトップランナーにインタビューを敢行している。

はっきりと「危機意識を持っている」と口にしながら団体の壁を超える必要性を真剣に考えている花緑に対し、談志は「こういうの考えるの楽しいだろ? やってみたらいいじゃねぇか」とエールを贈り、圓楽は「全面的に賛成します」、小遊三は「道は遠いね」としながらも「こういうのを見せられると説得力があるね。階段を上っていけば、また別の形があるかもしれない」と言った。

小朝は、数多くの演者を入れ代わり立ち代わり登場させる花緑案を見て「僕だったら思いっきりメンバーを厳選する」(これは翌年スタートすることになる「東西落語研鑽会」の基本理念だろう)と意見を述べた後、「でもあなたはまず自分のために走って全国制覇を狙うべき」と忠告した。これが翌年の花緑の著書『東西落語がたり』で宣言する「花緑メジャー化計画」に結びついていくのだが、ここで小朝が説く「まずは個々の使命感で動いて、それぞれが実力をつけておいてほしい。将来的に落語にスポットが当たったとき、それに応えられる人材がいなかった、じゃ困る」というのは、2005年以降の落語ブームの実態を考えるとき、先見の明があったという他ない。

ここで大きなポイントは、「夢の寄席」案を持ってきた花緑に対して小朝が「これ自体は遠くない」「5年のうちに落語界は大きく変わる」と言い、「そんなに時間かからない、大丈夫」と励ましていること。2年前には「団体の壁を超えるのは不可能」「空しい」と語った小朝が、である。

この小朝の発言から見えてくるのは「志ん朝の死」がもたらしたもうひとつの要素、「重石が取れた」という側面だ。

重石が取れて動きやすくなった

落語協会所属のある中堅落語家がこう語っていたことがある。

「うちの協会では志ん朝師匠が絶対的な存在で、みんな志ん朝師匠にひれ伏していた感じ。今の小三治師匠(この発言当時は落語協会会長)も特別な存在ではあるけれど、全然違う。あの頃は、志ん朝師匠にダメって言われたら本当にダメ。立川流で談志師匠がいいと言ったらいい、というのと一緒で、志ん朝師匠に逆らうってことはもうここにはいられない、っていうくらい」

肩書こそ副会長だったが、立川流における家元と比較されるくらいの存在だったという志ん朝が亡くなったとき、落語協会には「これでもうおしまい」というムードが蔓延していたのだという。

柳家権太楼は2006年の著書『権太楼の大落語論』(彩流社)の中で志ん朝の死を「司令官の死」にたとえた。小さんは参謀本部にいる元帥みたいなもので戦場の兵士にとっては遠い存在、だが志ん朝は最前線で戦う部隊を指揮する司令官だった、その司令官を突然失った部隊は戦場でどう動いていいのかわからなくなってしまった、と。

その「絶対的なエース」を失ったことで危機意識が生まれ、中堅・若手の奮起を促したことは前にも指摘したが、志ん朝存命中から危機意識を持っていた小朝にとっては、「重石が取れて動きやすくなった」という側面があったことは否めない。

断っておくが、志ん朝自身は小朝の目指す改革に反対する立場ではなく、むしろ積極的に応援していた。2006年の著書『いま、胎動する落語』(ぴあ)の中で小朝が明かしているところによれば、志ん朝が亡くなる少し前、池袋演芸場で小朝が立てた企画に横槍が入って中止になったことを聞いた志ん朝が、小朝に連絡してきて、「おまえのやりたいことはよくわかっているから、これから何かあったら、まずおれのところへ話を持ってこい。そうしたらおれが、それを通してやるから」と言ったのだという。なんと頼もしい言葉だろう。さらに志ん朝は小朝に「おれが上になったら(=会長になったら)、いろいろと助けてもらいたいから、力を貸してくれよな」とも言ったというのだ。

だから、もしも志ん朝がもっと長生きして落語協会の会長になった場合、それこそ志ん朝の「鶴の一声」で、小朝の提案の数々がスムーズに実現した可能性もある。だがそれはあくまでも「志ん朝のお墨付きをもらう」のが前提になっているわけで、小朝がなんでもかんでも自由に行動できるわけではないし、落語協会全体を背負う立場になったときの志ん朝と小朝の思惑がすべて一致するとは限らない。

いずれにしろ、現実には志ん朝は落語協会会長の座に就くことなく病没し、小朝は独自の道を歩むことになる。2002年、団体の壁を超える「夢」を語る花緑に対して「これ自体はそんなに遠くない。僕は5年のうちに落語界は大きく変わると言ってて、それは変える意志があるからそう言ってるんだけど、そんなに時間かからない、大丈夫」ときっぱり言ってのけた小朝は、もはや『苦悩する落語』を書いたときの「どうせ変わらない」「空しい」と言っていた小朝ではない。「変えることができる」という確信に満ちている。

これを「志ん朝が死んで重石が取れた」と解釈するのは志ん朝に対しても小朝に対しても失礼かもしれないが、絶対的な存在が失われた以上、小朝が矢面に立って改革を進めることを否定できる人間がいなくなったのは事実。だからこそ小朝は堂々と、誰に憚ることもなく「六人の会」で「団体の壁」を超えてみせた。『柳家花緑と落語へ行こう』で花緑は「最近の落語界は、とても動きが早い。10年かけてもできなかったことが数ヵ月で現実になったりする」と書いたが、「動きが早い」のは志ん朝や小さんといった絶対的な権威(=重石)がなくなったからだ、と解釈するべきではないだろうか。

志ん朝を失った落語界。そのとき、新たなリーダーとして名乗りを上げたのが小朝であり、「なんとかしなくてはいけない」との使命感に突き動かされたのが花緑、そして「まだ俺がいるじゃねぇかバカヤロウ!」と闘志を燃やしたのが立川談志だったのである。

いわゆる「落語ブーム」がマスコミで喧伝されるようになった2006年、小朝は『苦悩する落語』の続編とも言うべき『いま、胎動する落語』を出版し、「まだ全然ブームじゃない」「本当のスタート地点は2010年。そこでようやく他のジャンルと闘っていけるだけの人材が揃う」と書いた。2010年と言えば「こんなに面白いのにまだ二ツ目⁉」と春風亭一之輔の抜擢待望論が高まり、2008年に真打昇進した三遊亭兼好がメキメキと頭角を現わし、ついでに言うと僕が「ヘタだけど面白い立川こしら」を推し始めた時期だから、つくづく小朝の慧眼には頭が下がるが、その著書の締めくくりで小朝はこう述べている。

「そう遠くない将来、協会という枠はあっても、噺家たちはかなり自由に行動するようになります。そのとき、多少実力のある人たちが先輩風を吹かせて若手をおさえようとするでしょうが、圧倒的な実力を持っているわけではないので、結局はおさえきれません。力と人気のある若手たちは、そんな圧力にイヤ気がさし、自分たちで好きなように活動しようとします」

「志ん朝の死」という衝撃で幕を開けた21世紀。落語界は大きな喪失感に囚われながらも、否応なしに「新しい時代」に向き合わなければならなくなった。それはある意味、敗戦後の日本国にも似ている。それまでのすべてがいったんリセットされ、どん底にあった落語界はここから「復興から繁栄へ」の時代に突入していくのだった。

古今亭右朝の死

ところで、志ん朝の死を乗り越えて落語界が繁栄期に向かう道のりを振り返る前に、その志ん朝より5ヵ月早く亡くなった弟子について触れておきたい。古今亭右朝。あの談志をして「あいつは天下を取る」と言わしめた逸材だったが、2001年4月29日に肺ガンのため52歳の若さで亡くなった。

1948年生まれで、日大芸術学部の落語研究会では高田文夫氏と同期。在学中から寄席文字の橘右近に師事し、橘右朝と名乗った。1971年に大学を卒業後、紆余曲折を経て1975年に志ん朝に入門。2年の見習い期間を経て1977年に古今亭志ん八で前座、同名で1980年に二ツ目昇進。メキメキと頭角を現わした志ん八は1985年のNHK新人落語コンクール最優秀賞とにっかん飛切落語会努力賞を皮切りに1986年、1987年と連続でにっかん飛切落語会奨励賞、1987年には国立演芸場花形若手演芸会新人賞金賞など二ツ目対象のあらゆる賞を獲得した。評論家の保田武宏氏はCD「古今亭右朝1」(2011年/キントトレコード)のライナーノーツで「この頃の志ん八は他を圧倒していた」と書いている。

その志ん八がまさかの「真打試験不合格」となったのが1987年5月のこと。落語協会では1980年から真打認定試験制度を導入、1983年に立川談四楼、立川小談志が不合格となったことが師匠談志の落語協会脱退の引き金になったことはよく知られている。この1987年には「林家こぶ平が合格して志ん八が不合格」という結果に落語ファンからブーイングが起こり、マスコミも「疑惑の判定」と騒いだが、寄席の席亭たちからも協会に対して抗議の申し入れがあったため、協会はすぐに追試を行なって志ん八を含む前回の不合格者3人の昇進を認めた。これを最後に真打認定試験制度は廃止。志ん八改め古今亭右朝の昇進披露興行は翌年5月1日から6月10日まで一枚看板で行なわれ、志ん朝は40日間欠かさず口上を述べた。

聴き心地の好い軽妙な語り口で古典落語の魅力を見事に引き出した右朝。ネタ数も豊富で、2002年に有志により自主製作された3枚組CD「追善古今亭右朝」のブックレットに記載されたネタ帳には202席の演目が書かれていた。加えて仲間内でも落語博士と異名を取るほどの博識ぶりで、落語界屈指の理論派として知られ、後輩からの人望も厚かったという。

そんな右朝が90年代の落語界においてそれほど存在感を発揮しなかった最大の原因は、寄席を中心とする落語界全体の低迷にあったとは思うが、当人の「今は実力を蓄える時期」という思いもあったのではないだろうか。録音エンジニアで落語研究家の草柳俊一氏はCD「古今亭右朝1」のブックレットでこう書いた。

「真打になってから、どこか妙におとなしく感じられた。もっと表へ出て行けばいいのに、独演会も開いたらいいのに、と思ったファンも多かったのではないか。そう言うといつも決まって言うのが、『もうちょっと待ってください』だった」

右朝の逝去直後、30年来の付き合いだった立川談四楼は雑誌の連載コラムで「落語界は本当に惜しい男を失った」とその死を悼み、故人を「落語一筋であえてマスコミに背を向ける傾向にあった男」「ガツガツしたところは少しもなかった」と評した。夥しい数の弔問客でごった返す通夜の場で誰もが右朝の芸を讃え、数々のエピソードが披露されるのを聞いていた談四楼の脳裏に浮かんだのは「決して人にこびへつらうことのない、右朝の胸を反らした姿だった。そして『実力をつけるのが先です。人気やマスコミはあとからついてきます』という彼の自信にあふれた言葉だった」という。(シンコーミュージック刊『そこでだ、若旦那!』より)

21世紀に入ると共に亡くなった右朝は、本来、21世紀の落語界を牽引すべき男だった。落語ブームで大量の「新たな落語ファン」が寄席の世界へと流れ込んできたとき右朝がそこにいたならば、間違いなく彼に「人気やマスコミがついてくる」時代がやってきたはずだ。たとえば作家の色川武大氏はかつて「談志は60代の高座をターゲットにしている」と言ったというが、右朝が生きていたなら60歳になるのは2008年。彼の言う「もうちょっと」が「60歳になる頃」だったと仮定するなら、それはまさに落語ブーム真っ只中ということになる。

右朝の通夜で悲しみに暮れ、ガックリと肩を落としていた志ん朝の姿が忘れられない、と関係者は口を揃える。5ヵ月後、その志ん朝も亡くなってしまうわけだが、古今亭の一門にとっては、それに先立ち志ん朝の信頼厚かった右朝をも失っているということが、ダメージを何倍にもしたことだろう。

右朝と同じ1948年生まれの現役落語家には柳家さん喬、五街道雲助がいる。柳家権太楼は1歳上の1947年生まれ。「今、右朝がいたら……」在りし日の彼を知る人間はいまだにそう嘆く。もしも志ん朝亡き後の落語界に右朝がいたならば、その勢力図はだいぶ違っていただろう。談志の予言した「右朝が天下を取る日」を、ぜひともこの目で見たかった。

(次回、第二章に続きます。木曜更新予定)


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