第五章 2005年の落語ブーム――立川談春・タイガー&ドラゴン/広瀬和生著『21世紀落語史』17339字公開
タイガー&ドラゴン
「六人の会」が旗揚げした2003年、SWAが始動した2004年に続き、2005年には『タイガー&ドラゴン』と九代目正蔵襲名イベントという2つの大きな話題があり、マスコミが「落語ブーム」という言葉を盛んに用いるようになった。
2004年末の段階で真っ先に「来年はいよいよ落語ブーム到来」と書いたのは高田文夫氏だ。同年12月27日付読売新聞紙上の連載コラム「うの目たかだの目」において高田氏は翌年の正月特番として宮藤官九郎脚本のテレビドラマ『タイガー&ドラゴン』が放映されることを大きく取り上げ、「一気に落語の大ブームが来そうな予感」と書いたのである。
ちなみに同コラムの冒頭では2003年に『寿限無』がブームになったことにも触れている。これは、NHK教育テレビ(現Eテレ)の『にほんごであそぼ』という番組で落語『寿限無』の長い名前の言い立てを競うコーナーがあり、それによって子供の間で『寿限無』の言い立てが大流行した、という現象。子供の世界で「言葉遊び」として流行っただけではあるけれども、同番組に出演していた柳家花緑が需要に応えて「早口・普通・ゆっくり」と3段階のヴァージョン違いの言い立てを収録した「じゅげむ」というCDを出したことなども考えると、意外に「落語メジャー化」の追い風になったと言えるのかもしれない。(僕自身は『寿限無』が流行ったという実感はまるでなかったが)
2004年末に逸早く「2005年の落語ブーム到来」を予見した高田氏はさすがだが、実は『タイガー&ドラゴン』はある意味、ご自身の「仕掛け」によるものでもあった。
白夜書房の演芸専門誌『笑芸人』は「高田文夫責任編集」を謳って1999年11月に創刊され、2002年7月発売のVol.5までは不定期刊だったが、2003年3月発売のVol.6から季刊となった。そのVol.6には高田氏と宮藤官九郎氏の対談が掲載され、そこで高田氏は宮藤氏に「新作落語書いてくれよ。俺がセッティングするから会をやろう」と提案した。宮藤氏によれば『タイガー&ドラゴン』は、そのリクエストに別の形で応えたものだというのである。
そして『タイガー&ドラゴン』は、まさに「落語ブーム到来」への決定打となった。落語界の内側からの様々な動きとはまったく別のところから、人気脚本家によるジャニーズ主演ドラマというメジャーな形でもたらされた影響力の大きさはケタ違いだった。
落語に魅せられて入門するヤクザを長瀬智也、その師匠を西田敏行、廃業した元噺家(後に復帰)を岡田准一が演じる『タイガー&ドラゴン』(TBS系)は、まず2005年1月9日午後9時からの2時間スペシャルとして放映され、同年4月15日から午後10時スタートの連続ドラマ(1時間)として6月24日まで続いた(全11回)。組長役として笑福亭鶴瓶、兄弟子役として春風亭昇太も出演、高田氏も噺家役でキャスティングされている。
視聴率は正月特番が15・5%、4月から6月の全11回の平均が12・8%。毎回『三枚起請(さんまいきしょう)』『芝浜』『品川心中』『子別れ』などといった古典落語の演目をベースにしたストーリーが展開された。僕も全話観たが、落語云々以前にドラマとして実に面白い。とりわけ長瀬・岡田の2人の起用は重要なファクターで、彼らの個性がこの作品の価値を大いに高めている。
そして、その長瀬や岡田が「高座で落語を演じる姿」を見せたことによって「落語は古臭くて小難しいもの」というイメージが払拭されたのは、落語界にとって実に大きな意味を持っていた。実際、これを観て落語初心者の若い女性たちが寄席に大勢詰めかけるという現象も起こり、関係者を驚かせている。(もっとも、「初めての寄席体験」とドラマとの落差に愕然とするケースも多発したが……)
落語家を描くドラマは、この後も幾つか登場する。まずは六代目笑福亭松鶴をモデルにした中島らもの小説が原作の映画『寝ずの番』(2006年4月公開)。津川雅彦の「マキノ雅彦」名義での監督第一作で、中井貴一や木村佳乃が出演した。
2007年5月公開の映画『しゃべれどもしゃべれども』はTOKIOの国分太一が二ツ目落語家役で主演。佐藤多佳子氏のハートウォーミングな小説が原作で、少女漫画家の勝田文氏の作画で漫画にもなった。(白泉社『MELODY』の2007年2月号・3月号に掲載)僕はコミックスだけ読んだが、心に沁みる素敵な作品だ。『昭和元禄落語心中』が好きで未読の方にはお勧めしたい。映画では落語指導を柳家三三と古今亭菊志んが担当。
NHK連続テレビ小説で2007年10月1日から2008年3月29日まで放送された『ちりとてちん』は上方落語の世界を描いたもの。オーディションで選ばれた貫地谷しほりが上方の女性落語家を演じた。この時期こういうドラマが大阪で制作されたのは、前年に上方落語の定席「天満天神繁昌亭」がオープンしたのも関係しているだろう。
実のところ、『ちりとてちん』がどれだけ上方落語の隆盛に貢献したのか(『タイガー&ドラゴン』のような影響力はあったのか)、東京に住む僕には正直わからない。今の大学の落研に優秀な女性がとても多いのは、昔『ちりとてちん』を観た女の子たちが成長して大学で落語をやっている、ということだったりするのかしないのか。平均視聴率15・9%は朝ドラとしては低いが、それでも『タイガー&ドラゴン』よりは高いのだし……今度、関西の人たちに『ちりとてちん』効果の実態を訊いてみたい。
林家こぶ平の九代目林家正蔵襲名
2005年、芸能ニュースで大きく取り上げられて世間に「伝統芸能としての落語」を強く印象付けたのが、林家こぶ平の九代目林家正蔵襲名だった。
こぶ平が「2005年春に」正蔵を襲名すると正式発表されたのが2003年3月だったことは前にも触れたが、実は2002年8月には既に「3年後に」こぶ平が正蔵を襲名する、ということは公になっていた。
当時、落語ファンや一部の評論家から「こぶ平が正蔵なんて!」という批判が噴出したが、僕は「やっぱりこぶ平は正蔵を襲名するのか」と思っただけだった。八代目が「一代限り」として海老名家から譲り受けたとされ、1980年に林家三平(初代)が亡くなったときにその八代目が海老名家に名跡の返上を申し出て自らは彦六と名乗った以上、三平の長男が正蔵を継いでもおかしくない。
後に『笑芸人』Vol.16で正蔵自身が語ったところによると、この襲名はそもそも上野鈴本演芸場の席亭から持ちかけられた話で、母(海老名香葉子)は当初それを渋ったものの、こぶ平が春風亭小朝に相談したところ襲名を強く勧められ、2001年に『東京人』で対談したときの志ん朝の励ましの言葉も思い出して正蔵襲名を決意したのだという。
2002年8月にその発表があってから、小朝は「こぶ平が正蔵を襲名するので鍛えている」ということを盛んにマスコミで発言するようになった。なので僕は「六人の会」にこぶ平が名を連ねていても、「正蔵襲名のイベントを盛り上げるための下地を整えるんだな」と、むしろ当然のことのように感じた。
八代目正蔵の孫弟子である小朝が1988年に三平の娘である泰葉と結婚したとき、「これで小朝は正蔵を継げる」という穿った見方をする向きもあったが、三平の長男と次男が落語家である以上それは難しいだろうし、小朝自身にとってもさほどメリットのある話ではない。ただ、たまたま海老名家の身内になったことで、こぶ平の正蔵襲名への仕掛けを自らの手で行なえる立場になったことは大きかったに違いない。
大名跡ということに関連して言うと、小朝は当時「鶴瓶は八代目松鶴を継ぐのに相応しい人材」という発言をしていた記憶がある。また、2006年に六代目小さんを柳家三語楼(五代目の実子)が襲名するまでは、孫の花緑が小さんを継ぐのではないかという見方が強かった。そういう観点で「六人の会」のメンバーを眺めると興味深い。
「六人の会」の仕掛けは当たり、旗揚げから2年間で落語に対する世間の注目度は格段にアップしていた。そして迎えた襲名披露イベント。2005年2月27日にマスコミ向けに発表されたそれは、まさに前代未聞だった。3月13日、正蔵は石原プロの全面バックアップのもと、10億円の保険を掛けて、上野と浅草で特大車両7台を使った大々的なパレードを実施。さらに寛永寺と浅草では歌舞伎役者ばりに「お練り」も行なったのである。寛永寺のお練りは開山以来初、浅草のお練りは120人以上の史上最高人数。「六人の会」や林家木久蔵(現・木久扇)、舘ひろしも参加して上野鈴本演芸場から出発し浅草演芸ホールまで続いたこのパレード&お練りの見物人は14万人! しかも当日の午後は雪がパラついていたのに! 当然、マスコミはこぞってこのニュースを大きく取り上げた。
実は当時、このパレード&お練りが大きな話題になったのには伏線があった。この年の1月22日、人気俳優の中村勘九郎が、3月の十八代目中村勘三郎襲名を控え、浅草雷門から浅草寺までのお練りを行なっていたのである。当然のことながら、これは大々的にマスコミが取り上げた。その余韻の中、今度は落語家がお練りを行なうというのだから、インパクトは絶大だ。
落語ファン以外にとっては「林家正蔵」が「江戸時代から続く大名跡」であるということだけが重要であり、代々の芸風やこぶ平の力量は関係ない。むしろこぶ平は知名度のあるタレントである、ということのほうが重要だったりする。しかもこの名跡には「一代限りで譲り受けた先代が海老名家に返した」というストーリーがある。この流れから、「正蔵襲名」は「勘三郎襲名並みに凄いこと」だという印象を受ける一般人は多いはずである。要するに「箔が付いた」ということだ。
このパレード&お練りを「こぶ平がここまでやるか」と批判する落語ファンもいたが、「ここまでやる」からこそマスコミが騒ぎ、無関心だった人々を振り返らせることが出来たのである。そしてまた、それを可能にした政治力は尋常ではない。
実際に勘三郎襲名のお練りに便乗したのか、それとも偶然重なったのか、本当のところはわからない。ただ、落語が「伝統を継承する日本の文化」であるという側面を強調したことが、『タイガー&ドラゴン』とは別の意味で「落語ブーム」に大きく貢献したことは確かだ。事実、僕の知っている範囲でも、それまで落語にまったく関心がなかったのに「勘三郎に続いて正蔵がお練り」というのに食いついて「正蔵の落語を聴いてみようか」と思った人たちは実在する。
2005年3月発売の『笑芸人』Vol.16は「エンタの大真打 落語」と銘打って『タイガー&ドラゴン』と「正蔵襲名」を特集した。そして同年7月には『笑芸人』編のムック『落語ファン倶楽部』Vol.1が出版され、『笑芸人』本体はVol.17をもって休刊、代わって『落語ファン倶楽部』が不定期で刊行されていくことになる。さらに言えば、「落語、いいねぇ!」という特集を2001年に組んで志ん朝とこぶ平の対談を掲載した『東京人』は、2005年9月号で「落語が、来てる!」と銘打って「ここ数ヵ月突如大ブームとなった落語」(リード文より)を特集している。
2005年、マスコミにより落語は「ブーム」として語るべきものと認定されたのだ。
画期的だった「ホリイのずんずん調査」
コラムニスト堀井憲一郎氏が『週刊文春』で1995年4月から2011年6月まで連載した「ホリイのずんずん調査」は、世の中のあらゆることを徹底的に調べる人気コラムで、「日本人がカメラにVサインをするようになったのはいつからか」とか「小説を出版社に持ち込んだら今の編集者はどう対応するのか」とか「ダウンタウンの浜ちゃんはツッコむときに松ちゃんのどこを叩くのか」とか「シンデレラエクスプレスで本当にキスをするカップルはどれくらいいるのか」とか、その対象はあらゆる方面に向かっていた。
2004年末、堀井氏はその「ずんずん調査」年末スペシャルで、じわじわ盛り上がってきた東京落語界の状況をリアルに反映させた「東都落語家ランキング」を掲載した。2004年だけで落語会や寄席に110回ほど通い、落語を600席は聴いたという堀井氏の、個人的実体験に基づいた主観的な「今の落語家」のランキングである。
これは画期的だった。
まず、業界と何のしがらみもない観客側の視点で遠慮なく書かれていたこと。
そして書き手が「今の落語の最前線」をたくさん観ていること。
この2点は、当時の「落語評論」に決定的に欠けていた。
堀井氏はこのとき、「落語の世界はみんな死んだ名人が好き。昔をどれだけ知ってるかの自慢話が渦巻いてウンザリする」「このランキングは古今亭志ん朝をナマで見たことがない人のためのもの」と言っている。
当時、雑誌などで落語を特集するときの切り口は「往年の名人をCDで聴こう」というものが多く、たまに「今の落語」を語る記事があったとしても、具体的な「観るべき現役落語家」についての情報は皆無、もしくは非常に偏った形だったりしていた。そんな中、金を払って落語をたくさん観ている堀井氏の「リアルな現役落語家ランキング」が『週刊文春』というメジャーな場で登場したことに、僕は快哉を叫ばずにはいられなかった。
ご自身がインタビューなどで語ったことによれば、関西出身の堀井氏は高校時代から上方落語を聴きまくっていたが、東京の大学に入って落語から遠ざかり、東京での生活が10年以上になった90年代から「なんとなく」東京の落語も聴くようになったという。そして2001年の志ん朝の死や2002年の小さんの死、柳家喬太郎ら新しい世代の台頭を実感したのがきっかけとなって「今の東京の落語」を積極的に追いかけるようになったそうだ。
つまり、もともと堀井氏には上方落語が染みついていて、現在進行形での東京落語に関しては「21世紀の聴き手」。だからこそ「志ん朝をナマで聴いたことがない人のためのランキング」が、余計な先入観なしにニュートラルな立場で作成できたのだと言えるだろう。それは、堀井氏のランキングを見ればハッキリわかる。堀井氏は過去の評価も人気も関係なく「今だけ」を見ているのだ。
実は、この2004年度落語家ランキング以前にも、「ずんずん調査」に落語ネタはたまに登場していた。例えば2003年には「今売られている落語CDの中で多くの演者によってやられている演目ランキング」が掲載されたし(1位は『らくだ』)、2004年には大阪府池田市を舞台にしたNHK連続テレビ小説『てるてる家族』(2003年9月~2004年3月)にちなんで上方落語『池田の猪買い』の「大阪から池田までの道中付け」を実際に歩いてみた結果が報告されている。
そんな堀井氏が明確に「ランキング作成のための調査」を開始、聴いた落語をエクセルに入力していくようになったのは2004年2月。談志を積極的に追いかけるようになったのもこの年だとか。その後、堀井氏は年々落語を聴くペースが上がり、2011年2月までの7年間で1万15席を聴いたと書いている。年平均1431席だ。
2004年から堀井氏が「年末恒例」として発表するようになった落語家ランキングは「東京の落語家を金を出して聴くに値する順に並べたもの」で、「あくまで個人的なもの」としながら「その理由は説明できる」と言っている。その「理由」を裏付けるのが堀井氏の聴いた落語の数の圧倒的な多さだ。
ちなみに堀井氏はこの手のランキングに関して必ず「東都落語家」という言い方をしていて、明確に上方落語と区別している。さすが上方落語で育った人だ。
もちろん、落語家に順位を付けるなんて無理な話だし、結局はそれぞれの好みが左右することだから、客観的に見て「正しい」ランキングなんてあり得ない。実際、僕も堀井氏のランキングを見て「それは違うだろ」と思う部分は多かった。が、それは僕自身が毎日落語をナマで観る「落語バカ」であるがゆえの「こだわり」に過ぎない。重要なのは「ランキング」という非常にわかりやすい形で「現役の魅力的な落語家」を紹介した、ということなのである。
「ずんずん調査」の落語家順位
2004年末に堀井氏が発表した「東都落語家ランキング」は50位まで。1位は談志。2位が小三治、3位が小朝と続き、以下志の輔、権太楼、昇太、さん喬、談春、喬太郎、志らく、市馬、こぶ平、花緑、たい平、圓楽、正朝、歌丸、歌武蔵、馬生、志ん輔、三太楼、喜多八、扇辰、白鳥、桃太郎、扇橋、扇遊、鯉昇、雲助、そして30位の歌之介と続く。ここまでが「おすすめ」。31位から50位も「かなり楽しい落語家さんですよ」と書いていて、それを見ると堀井氏が「とにかく万遍なく数多くの演者に当たるべく寄席に通う」ことを重視しているのだな、ということがわかる。
特に僕が堀井氏の「万遍なさ」が表われていると思ったのは、「伯楽、いっ平、寿輔、米丸、馬風、園菊、小せん(先代)、勢朝」といった演者が50位までに入っているところ。一方で、当時の僕の実感では、堀井氏は立川流寄席にはあまり顔を見せることがなく、その結果(だろう)、50位までに立川流は「談志、志の輔、談春、志らく」しか入っていない。
興味深いのはこの2004年当時、堀井氏がランキング発表に際して「落語を聞きに行くと、とにかく客の年齢が高い。年寄りだらけだ」と書いていること。2005年の「落語ブーム」勃発前夜、まだ寄席の客席はそんな感じだったのだ。
落語家のランキングと共に、堀井氏は「2004年ホリイの聞いた落語のベスト15(聞いていてとても幸せになった落語15)」も併せて発表。1位が談志の『居残(いのこり)佐平次』(町田)。伝説の「町田の居残り」である。当然だ。僕も選べと言われたら2004年の1位は「町田の居残り」しかあり得ない。2位が談志の『鼠穴』(横須賀)。これも同感だ。
3位が昇太の『富久』(下北沢)、4位が権太楼の『火焔太鼓』(浅草)。5位は談志の『紺屋(こうや)高尾』で、これは浜松での口演。浜松! さすがに僕もそれは行ってない。談志の『紺屋高尾』は2002年1月の亀有で大きく変わり、2003年12月の調布で進化した。おそらく2004年3月の浜松の『紺屋高尾』はそれに準じた演じ方だったはず。(僕はその2ヵ月後に東京・国際フォーラムで談志の『紺屋高尾』を観ている)
そして6位が……こぶ平の『子別れ』(松戸)となっている。一貫して小朝・こぶ平の評価が高いのが堀井氏の特徴で、この辺は20世紀まであまり東京の落語を観ていなかった人ゆえのフラットな感覚のなせる業なのかもしれない。僕も正蔵襲名時に『子別れ』は観たが……。
ところで「ずんずん調査」の「ずんずん調査」たる所以は、主観によるランキングに留まらないところ。堀井氏はこの年、「2004年独演会ランキング すべての独演会に行った時にかかる金額」を集計してみせた。1位が断トツで志の輔の「29万2700円」、2位が小朝の「16万8300円」。この2人は単価もさることながら公演回数が圧倒的に多い。まだ2004年当時の落語界においては独演会を数多く行なう東京の落語家は少なかったのである。何しろ3位志らく、4位談志のあとは5位が喜多八、6位が談笑と続くのだから。(今となっては驚きだが談春は談笑のひとつ下の7位だ)
こういう「どこまで意味があるのかわからない」数値の計算となると堀井氏の独壇場、この発想の面白さは誰も敵わない。
翌2005年、堀井氏は落語会に年間350回通って年末に再びランキングを発表。1位が談志で2位が小三治、以下権太楼、志の輔、小朝、昇太、談春、さん喬、志らく、市馬、喬太郎、志ん輔、喜多八、雲助、花緑、正蔵、たい平、白鳥、小遊三、歌丸……といった塩梅。以降も堀井氏は落語に通い続け、連載終了まで折に触れて各種ランキングを発表するだけでなく、ときにランキング形式から離れて「落語のどこが面白いのか」をわかりやすく語っていた。
もちろん『週刊文春』という媒体の性質上、落語の話題を取り上げるにも限度があるだろう。実際、担当から「落語が続きますね」と言われたこともあるらしい。それもあってか、堀井氏は演芸情報月刊誌『東京かわら版』の2006年11月号から、観た落語の様々なデータ分析を行なうコラム「ホリイの落語狂時代」の連載を開始、現在も続いている。「落語狂時代」は「読者がマニア」という前提なので、これでもかと細かいデータが発表され続けていて、本当に面白い。(ちなみに歌丸追悼特集号となった2018年8月号では「ホリイの聞いた歌丸のネタ」ランキングが掲載されていた。さすがだ)
堀井氏の落語論は「通い詰めている観客」の立場で書いているので説得力がある。ただ惜しむらくは、それぞれの落語家についての「どう面白いのか」の紹介はコラムという形態の性質上、極めて断片的なものに限られてしまう。
2005年から2006年あたりの時期、僕は「堀井さんが落語家ガイドの本を書いたら喜ばれるだろうなぁ」と思っていた。だが一向にその気配がない。「それならば自分が」と、僕が落語家ガイド『この落語家を聴け!』の書き下ろしを決意したのは2007年の春だった。
談春の飛躍
2003年頃から兆しを見せ始め、2005年に本格化した「落語ブーム」。
その中で「次代の名人候補」として一躍注目を集めるようになったのが、立川談春だ。
二ツ目時代から談春の「落語の上手さ」には定評があった。1997年の真打昇進時に談春の『庖丁』を聴いて師匠の談志が「俺よりうめぇ」と言った、というエピソードは有名だ。
もっとも、テレビ番組『落語のピン』での人気を背景に2年早く真打昇進した弟弟子の立川志らく(入門は1年半遅い)が「シネマ落語」を前面に打ち出して順調に売れていったのに対し、談春は真打昇進後、しばらくは雌伏(しふく)のときを過ごしていた。
もちろん、見る人はちゃんと見ていて、演芸写真の第一人者である橘蓮二氏が2001年12月に出版した撮り下ろし写真集『高座の七人』(講談社文庫)には小朝、志の輔、昇太、花緑、たい平、喬太郎と並んで談春も登場、作家・演芸評論家の吉川潮氏が談春の逸材ぶりを激賞し、「私はなるべく長生きしてこ奴が名人になった姿を拝みたい」と結んでいる。2001年の時点でここまで言う評論家は吉川氏だけだった。
吉川氏はその中で志らくと談春を「前座の頃からモノが違った」と評し、談春を150キロの豪速球を投げる高卒の投手、志らくを七色の変化球を投げる大卒投手にたとえて、即戦力の志らくと異なり談春は大器晩成だとしている。
そんな「未完の大器」談春の躍進が始まったのは、入門20周年を迎えた2004年のこと。この年の11月に3日間連続で行なわれた「大独演会」は「二十年目の収穫祭」と銘打たれた一大イベントで、談春の快進撃はここから始まる。
だが、その前兆は1年前からあった。
2003年1月、談春は月例独演会の場を前年までのお江戸日本橋亭から築地本願寺ブディストホール(座席数164)に移した。この会をベースとして、談春は来たるべき飛躍のときに向けて着々と地盤を固めていく。
3月18日、談春は第1回「東西落語研鑽会」のトップバッターとして登場、『替目(かわりめ)』を演じた。これは、小朝が「選りすぐりの若手」として真っ先に談春を起用したということだ。
同月、2002年度国立演芸場花形演芸大賞金賞を受賞。花形演芸大賞は国立劇場や国立演芸場などを運営する独立行政法人日本芸術文化振興会が若手芸人に与える賞で、大賞、金賞、銀賞の3段階。若手を対象とする賞の中でも「国が認めた」という意味で最も重みがあると言われる賞だ。(談春はこの翌年、2003年度の大賞を受賞することになる)
この年の10月14日から16日までの3日間、落語立川流創設20周年を記念して、池袋の東京芸術劇場小ホール2(客席数300)で「立川流真打の会~家元に捧げる三夜」と題した3日連続の落語会が開かれた。立川流の真打全員が出演するこのイベントの第一夜に談春はトップバッターとして高座に上がり、『道灌』を演じた。
この会のプログラムには立川流の新顧問に就任した吉川潮氏が各演者について寸評を載せていて、談春についてはこう書かれている。
「『大器晩成』が、思いの他、早く開花した。高座姿は『容姿端麗』でかっこいい。『新進気鋭』が勤める開口一番はぜいたくだ」
吉川氏は「開花した」と書かれていたが、僕には正直、談春が「開花」したという実感がなかった。僕にとってはまだ談春と言えば知る人ぞ知る「隠れた逸材」だった。
だが、早くから談春をよく知る吉川氏は、この時点でおそらく翌年からの「談春の飛躍」を予感していたのだと思う。
吉川氏はウェブマガジン連載の2003年3月31日付「私のイチ推し」という記事(牧野出版刊『芸能鑑定帖』所収)で談春と志らくの2人を大いに推しているが、そこに書かれていたニュアンスは2001年当時とあまり変わらない。ということは、そこから10月までの半年間での談春の成長・開花を、吉川氏は見て取ったのかもしれない。
だが僕自身は、毎月ブディストホールに通うような熱心な談春ファンではなかったからか、談春の「開花」をそれまでの高座から感じたことがなかったし、2003年10月に観た『道灌』からも特に強い印象を受けることはなかった。(もちろんこの日は開口一番という立場をわきまえて、談春はあえておとなしく演じたのだろうが)
そんな僕が「談春が化けた⁉」と強烈な印象を受けたのは、2004年7月3日の「談志一門会」(有楽町・よみうりホール)で観た爆笑編の『鰻の幇間(たいこ)』。それまで僕が抱いていた「口調がきれいで達者な演者」というイメージから「豪快で面白い天才落語家」という談春像に変えたのが、このときの高座だった。
それはあくまで僕にとっての、たまたまのきっかけだったのかもしれないが、少なくとも僕にはあのハジケた『鰻の幇間』から、遂に談春が本来の「器の大きさ」を解放し、大きく開花したのだということを感じ取った。そしてそれ以来、「豪快で面白い天才落語家」としての談春を、僕は意識的に追いかけるようになる。
最もチケットを取れない落語家
「未完の大器」と呼ばれた立川談春が「最もチケットを取れない落語家」と言われるほどの存在になっていく過程では、節目の年が2年置きに3回訪れた。
まずは2004年の「立川談春大独演会〝二十年目の収穫祭〟」。
次に2006年の「談春七夜」。
そして2008年の書籍『赤めだか』(扶桑社)と「立川談志・談春親子会 in 歌舞伎座」である。
「二十年目の収穫祭」と「談春七夜」は談春自身が仕掛けたイベントで、前者は「立川談春ここにあり!」と落語界にその存在感をアピールすることに成功し、後者は大胆な「名人宣言」として話題となった。
発想といい実行力といい、談春の「自己プロデュース」は実に見事だが、実はこの2つのイベント、どちらも談春の心の中では「志ん朝の死」という大事件と密接な関わりがあったようだ。
「談春七夜」が「志ん朝七夜」(1981年)を意識したイベントなのは明らかだが、「二十年目の収穫祭」に関しては、演芸情報誌『東京かわら版』2004年11月号掲載のインタビューで、こんな風に話している。
「誰が志ん朝師匠が63歳でいなくなると思った? 本当に惚れた、自分がプロになるきっかけを作ってくれたような芸人の気概をね…引き継ぐ覚悟を真剣に持つか持たないかを、20周年を機に考えようと」
「落語を独自に発展進化させている人は大勢いるけど、残す・伝える・途切れさせない、ということに、私を含めて本気の噺家って一体何人いるんだろうね」
談春にとってこのイベントは「20周年を祝うお祭り騒ぎ」ではなく、志ん朝のいなくなった落語界における自分のあり方を自ら問い、覚悟を決めるという意味合いを持っていた、というのである。
「二十年目の収穫祭」は2004年11月12日・13日・14日の3回公演(東京芸術劇場小ホール2)。12日は談志がゲストで談春の演目は『九州吹き戻し』『遊女夕霧』、13日は鶴瓶がゲストで談春の演目は『大工調べ』『文七元結』、14日は小朝がゲストで談春の演目は『野ざらし』『三軒長屋』と予告され、これら3公演は発売と同時に完売したため、13日の昼間に昇太ゲストの追加公演も行なわれた。
この公演で談志は談春に「お墨付き」を与えた。12日、一席目『九州吹き戻し』の後に高座に上がった談志は「袖で聴いてて結構なもんだと思いました」「今あれだけ出来る奴はいません。一番上手いんじゃないですか、今ああいうのやらせたら」「圓生師匠みたいな部分を持った落語家になれる可能性があるのは談春しかいない」「ああいうものをやろうという了見がいい」などと絶賛したのである。
文芸評論家の福田和也氏は週刊文春の連載コラム「闘う時評」(2004年11月25日号)でこの「二十年目の収穫祭」の初日と二日目の模様を取り上げて談春の高座を大いに賞賛し、「これから、談春の時代を、ともに生きていけると思うと、幸福な気持ちになります」と結んだ。
この福田氏が責任編集に名を連ねる文芸誌『en―taxi』の2005年春号から2007年秋号まで談春は自伝的エッセイ「談春のセイシュン」を連載、それを2008年に書籍化したものがベストセラー『赤めだか』となるわけだが、既存の「落語評論家」ではなく福田氏のような論客がこのように「談春とともに生きる悦び」(見出しより)を週刊文春で書いたことは、談春が「特別な存在」であると印象付けた。(そして週刊文春では1ヵ月後の12月30日・1月6日合併号には堀井憲一郎氏の落語家ランキングが登場、談春は堂々ベストテン入りを果たすのだった)
落語ブームが本格化した2005年、いつの間にか談春はその中心にいた。当初はこれまでのブディストホールの会も続けていたが、もはや談春には規模が小さすぎ、この年の9月で終了。代わりに横浜にぎわい座(391席)や博品館劇場(381席)、東商ホール(596席)といった中規模のホールでのプロモーター主催による独演会が増えた。
6月11日には再び「立川談春大独演会」と銘打った会を、今度は一回り大きな東京芸術劇場中ホール(834席)で開催、ゲストの談志と『慶安太平記』のリレー(談春「善達の旅立ち」~談志「吉田の焼き打ち」)を行なった。談春はこのリレーの後で『厩火事』で爆笑を誘い、談志とのアフタートークで「こういう噺(『慶安太平記』)をやりたいと思う気持ちが素晴らしい」「『厩火事』の亭主の怒ったところの口調なんか誰にも引けを取らない」と、またしても師匠に誉められている。
11月1日には高田文夫氏のプロデュースで志の輔・志らく・談春が揃う「立川流三人の会」(紀伊國屋ホール/418席)が実現、チケットは発売と同時に完売した。この会のスペシャル感は談春人気が急激に加速したからこそ生まれたものだ。
そして翌2006年、談春は「談春七夜」という極めて刺激的なイベントを行ない、自ら「次代の名人候補」としての名乗りを上げることになる。
「談春七夜」
「談春七夜」と題する7日間連続の独演会が10月3日から9日まで東京芸術劇場小ホール2で開催されることが発表されたのは、2006年の「大銀座落語祭」が終わって数日後のことだった。チケットの発売日は7月28日だったが、発表はその1週間前くらいだったと記憶している。
本格的な落語ブームが訪れている中での「談春七夜」開催は大きな話題となり、チケットは発売直後に完売。僕自身は頑張って全日程のチケットを確保したが、「取れなかった」と嘆く知人も多かった。1週間後には「10月8日午後2時から追加公演決定」と案内され、「今度は取れないかも」と焦ったが、何とか取ることが出来てホッとした。
事前に案内されていたのは各公演にテーマカラーが設けられているということだけで、演目やゲストなどの発表は一切なかったが、落語ファンはこのイベントが「志ん朝七夜」を模したものであると感じていたし、談春自身も「志ん朝七夜ごっこです」という言い方で、それを裏付けていた。
「ごっこ」とは言っても、それは談春が「俺が志ん朝のような存在になる」と宣言したのと同じことで、快く思わない向きも多かった。当時は関係者・落語ファンのどちらにも「アンチ立川流」が根強く存在していたからだ。
もちろん談春も「七夜」開催が不穏な空気を生み出すことは百も承知だったろう。それでも、あえて「七夜」というタイトルを打ち出したことは、彼自身のキャリアにとってのみならず、落語界全体にとっても大きな意味を持っていた。
「二十年目の収穫祭」で「志ん朝がいなくなった落語界における自分のあり方」を見つめた談春の、次のステップが「談春七夜」だったのである。
10月3日、「談春七夜」開幕。第一夜のテーマカラーは「東雲(しののめ)」。入口で受け取った和紙製パンフレットは三つ折りとなっており、「東雲」と書かれた東雲色の小さなシールで封がしてある。中を開けると談春自身による文章がしたためられており、そこにはこのイベントが「志ん朝七夜」を意識したものであること、東雲にちなんだ噺として『芝浜』をやることが書かれている。
番組表(演目欄は空白)を見ると、開口一番は柳家三三。談春は三三が二ツ目の頃から彼の技術を高く評価しており、この年の6月に紀尾井小ホールで開かれた「柳家三三真打昇進記念公演」にも出演して口上に並んでいた。その経緯から三三がゲストというのは納得だが、「小三治一門で将来を嘱望されている本格派」の三三がこの記念すべきイベントに参加していることは意味深く思えた。
開演すると、まずは談春がマイクを持って袖から登場、立ち姿で挨拶を述べる。
「この七夜を、伝説にしましょう。『名人談春のスタートラインは、あの七夜だった』ということにしちゃいましょう。放っておくとこの先、名人というのは出てきません。だったら、観客の皆さんがこれを伝説にしてください。私だって実は『志ん朝七夜』を観てないんですから。伝説は、観た人が創るもの。談春は名人だ、と皆が言い続ければそうなります。私は、もう逃げません」
堂々たる「名人宣言」だ。
以下、「談春七夜」全公演の演目を記しておく。
〈第一夜:東雲〉 10月3日
柳家三三『転宅』/立川談春『粗忽の使者』/~仲入り~/立川談春『芝浜』
〈第二夜:雪〉 10月4日
柳家小菊(俗曲)/立川談春『錦の袈裟(けさ)』/~仲入り~/立川談春『除夜の雪』/立川談春『夢金』
〈第三夜:闇〉 10月5日
柳家三三『引越の夢』/立川談春『首提灯』/~仲入り~/立川談春『妾馬(めかうま)』
〈第四夜:緋〉 10月6日
柳家三三『大工調べ』/立川談春『おしくら』/~仲入り~/立川談春『たちきり』
〈第五夜:海〉 10月7日
桂吉坊『蔵丁稚(くらでっち)』/立川談春『桑名舟』/~仲入り~/立川談春『居残り佐平次』
〈白昼祭:山吹〉 10月8日昼(追加公演)
柳家三三『道灌』/立川談春『紙入れ』/~仲入り~/立川談春『木乃伊(ミイラ)とり』
〈第六夜:蛍〉 10月8日
柳家三三『乳房榎(ちぶさえのき):おきせ口説き』/立川談春『乳房榎:重信殺し』/~仲入り~/立川談春『棒鱈(ぼうだら)』
〈第七夜:銀〉 10月9日
柳家三三『突き落とし』/立川談春『小猿七之助』/~仲入り~/立川談春『庖丁』
最終日、『庖丁』が終わって幕が降りても誰も席を立たず、鳴り止まぬ拍手に応えてカーテンコール。「思ったほど、良くない日がなかった。お客様に助けられました」と振り返った談春は、「名人というのは、お客様に乗せられて創られる、ということを初日に言いました。皆さんの信頼を裏切らないようにしたい。万感の思いを込めて、ありがとうございました!」と、深々と礼をしてイベントを締めくくった。
7日間の演目とそれぞれの演出を振り返ったとき、「志ん朝七夜ごっこ」と見せたこのイベントの本質は、談志の弟子としての談春の「師匠の芸と理念を継承しつつ、自分にしか表現できない世界の確立を目指す」という決意表明だったように、僕には思えた。
だからこそ、「談春七夜」は「伝説」となり得たのである。
「談春のセイシュン」――『赤めだか』の大ヒット
「談春七夜」の成功で、立川談春は一躍シーンのトップに躍り出た。
2007年になると明らかに談春の客層が広がった。「噂の談春を観てみよう」という落語ファン、さらには「落語ブームだから」と落語に興味を持った「落語初心者」も客層に加わったのだ。
客層が広がった結果、2つのことが起こった。ひとつは大会場での独演会が増えたこと、もうひとつは(会場が大きくなったにもかかわらず)チケット入手が一層困難になったことだ。
会場の規模に関しては、2006年にも既にシアターアプル(客席数700)やイイノホール(当時は改装前で客席数694)で独演会をやるようになっていたが、2007年2月には客席数900の銀座ブロッサム中央会館で初の独演会を行なっている。(そこで披露した『たちきり』の新演出は衝撃的だった)
後者は個人的な実体験が伴っている。2007年、僕は「黒談春」(紀伊國屋ホール/客席数418)、「白談春」(紀伊國屋サザンシアター/客席数468)、「談春七夜アンコール」(横浜にぎわい座/客席数391)といったシリーズ企画独演会のチケットを確実に取るために「発売日に始発電車で出かけて早朝から窓口に並ぶ」ようになったのだ。それまでにも「志の輔らくご」やSWAのためにチケットぴあに朝から並んだりローソン店頭のLoppiの前で陣取ったりというのはあったが、この年の「談春のチケット争奪戦」はちょっと異常だった。(早朝から並ぶ常連の皆さんと親しくなったのは楽しかったが)
ちなみに「黒談春」というのはネタおろしを中心とする、談春曰く「田植えをする」会。熱心なファンだけが来てくれればいい、という趣旨で、十八番をやる「白談春」と差別化した企画だったが、第1回、第2回は初談春の観客が結構な割合を占めていたようだ。(結局2008年3月の第5回で「黒談春」は幕を閉じることになる)
もっとも、東京を中心とする落語ファンの間での談春人気は過熱していたが、一般的な知名度はまだまだ低かった。その談春を「全国区の人気者」に押し上げたのが、書籍『赤めだか』(扶桑社)の大ヒットだ。
文芸季刊誌『en―taxi』に2005年春号から連載開始された自伝的エッセイ「談春のセイシュン」は抜群に面白く、僕も当時、それまで存在すら知らなかった『en―taxi』という雑誌を、そのためだけに発売日に買うようになったものだ。
そもそも、上手い書き手による「青春記」は問答無用で面白い。そして談春は言葉を操る天才だ。談春が書き手として非凡であることは2004年の「二十年目の収穫祭」のパンフレットに掲載された文章で証明されていた。その談春が、彼だけが知る「談志とのエピソード」を青春記として綴っているのだから面白いに決まっている。なにしろ「立川談志」という存在そのものが強烈なエピソードの塊なのだから。
談春を口説き落として連載開始に持ち込んだのは文芸評論家の福田和也氏。福田氏は立川流一門による2003年の書籍『談志が死んだ』(講談社)で談志が談春の『庖丁』を絶賛しているのを読んだのがきっかけで独演会通いを始め、「とてつもない才能を秘めた噺家を見つけた」と興奮したのだという。(文庫版『赤めだか』解説より)
連載開始時に談春が「二ツ目になるところまで」と宣言したとおり2007年秋号(9月発売)で本編連載は終了、次の2007年冬号(12月発売)に番外編として「誰も知らない小さんと談志 小さん、米朝――2人の人間国宝」が掲載され、そこまでを書籍化した『赤めだか』は2008年4月11日に発売された。
福田氏と扶桑社はこの『赤めだか』出版に合わせて、大きなイベントを仕掛けた。6月28日の「談志・談春親子会 in 歌舞伎座」である。歌舞伎座で出版記念の親子会が開催されることは書籍の帯(裏表紙側)にも大きく謳われているから、プロデューサー役の福田氏はかなり早くから用意周到にこの一大イベントを仕込んでいたのだろう。
5月6日には談志と談春、福田氏が同席しての記者会見が行なわれ、その席上で談志は「古典落語は今、こいつ(談春)が一番上手い。俺よりも上手いんじゃないですか。よく俺の領域を荒らすところまで来た」と絶賛。談春は「師匠に『慶安太平記』と『三軒長屋』のリレーをお願いした」と明かした。
この出版記念親子会のチケットは松竹歌舞伎会先行で5月8日発売、チケットweb松竹及びチケットホン松竹が5月9日、窓口販売が5月11日で、1900席が即完売。僕は2006年5月の新橋演舞場「談志・志の輔親子会」のチケット入手に大苦戦したのを教訓とし、歌舞伎会先行ルートで確保した。
残念ながら談志の体調悪化によりリレー落語は実現せず、談志は口上と『やかん』のみで、談春が『慶安太平記(善達の旅立ち)』と『芝浜』の二席を演じるという内容に変更されたが、「談志と談春が歌舞伎座で出版記念の親子会を開催」という話題性は大きく、『赤めだか』は多くの媒体で取り上げられ、発売されて間もなく10万部を突破するベストセラーとなり、談春は第24回講談社エッセイ賞を受賞した。(その後累計13万部を超えている)
書籍は、内容が良ければ必ず売れるというものでもないし、いくら媒体に大きく取り上げられても内容が伴わなければベストセラーにはならない。『赤めだか』は最高の形で世に送り出され、その内容の素晴らしさによって長く売れ続けた。2015年12月28日には嵐の二宮和也が談春役を務めるスペシャルTVドラマ『赤めだか』(TBS系)も放映されて再び話題となり、それに伴い2015年11月に発売された扶桑社文庫版『赤めだか』は2016年上半期の推定売上が約10万部に達した。
『赤めだか』の大ヒットで談春は「全国区の人気者」となり、2008年12月には初めて大阪フェスティバルホール(客席数2700)で独演会を開催。以降談春の勢いが衰えることはなく、テレビドラマや映画への出演などでさらに知名度はアップ、全国ツアーにも力を入れて「全国区の人気」を維持し続けている。■
続きはこちらでもお読みいただけます。連載時の原稿をすべて公開しています。もちろん、書籍化するにあたり、誤りの訂正、細部の修正、加筆をしていますので、内容は少し異なります。