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喜瀬雅則さんの新刊『阪神タイガースはなんで優勝でけへんのや?』より序章と目次を公開!

熱烈阪神ファンの元トラ番記者による「新・阪神タイガース論」ともいうべき新刊が出ました。本記事ではそこから長めの序章と目次を公開します。著者の喜瀬さんが球団名を冠した書籍を上梓すると、その年、その球団の優勝確率はこれまで100%です。果たして今年はどうなるでしょうか?

序章 歴史──人生も記者生活も、思い出は阪神タイガースとともに


私がまだ小学生だった頃だから、1970年代後半、昭和なら50年代のことになる。
我が家のテレビの上には、細長い箱が載っけられていた。その「チューナー」がなければUHF局の電波を受信できず、番組を見ることができなかったのだ。
午後6時になると、そのダイヤルをぐるぐると回す。白黒の波がしばらく続いた後、画面には、甲子園球場の遠景が映し出される。
物心ついた時から、プロ野球中継といえば「サンテレビ」の阪神戦だった。
プレーボールから、試合終了までやってくれる。
当時は衛星放送もなければ、地上波のサブチャンネルも、もちろんDAZNもない。
「サンテレビ」以外の地上波各局だと、阪神戦中継が午後9時前に終わることがある。
試合も佳境。阪神のチャンスの時に限って、ぶちっと試合中継が終了する。慌てて、ラジオのスイッチを入れる。
そのたびに必ず、テレビに向かって、怒りの突っ込みを入れる。
「サンテレビやったら、最後までやってくれるのに、何やめとんねん」
翌日の学校で、阪神ファンの友達同士でボヤくのだって、きっと関西だけなのだろう。

私の阪神ファン歴は、もう半世紀近い。
江本孟紀(高知/熊谷組/76年移籍)の「エモボール」の写真を見て、その握りで何度も投げたのだが、ボールはストンと落ちなかった。
小林 繁(鳥取/全大丸/79年移籍)が、両肘で帽子のつばを挟んで、きゅっと曲げる。
振りかぶった両手が胸元へ下り、そこから両腕が前後に開くのに合わせて右足がぐっと曲がると、小林の体が下がり、動きが一瞬止まる。
あの独特のサイドスローを、何度も真似したものだった。
掛布雅之(千葉/習志野高/73年6位)が、バットを投手側に回しながら、パンツの両足付け根部分を、まず右、そして左とつまむ。
続いて、内側に絞り込むようにしながら両膝を少し曲げ、構えに入る。
1978年オフ、田淵幸一(東京/法大/68年1位)、古沢憲司(愛媛/新居浜東高中退/64年入団)とのトレードで、真弓明信(福岡/電電九州〈現NTT西日本〉)や若菜嘉晴(福岡/柳川商〈現柳川高〉)らとともにやってきた竹之内雅史(神奈川/日本通運)の打撃フォームは、実にユニークだった。
右打者の竹之内は、投手に対するとき、左足を思い切りオープンに開く。バットの先は右肩の後方に下がり、グリップは目の高さまで上がっている。
投球モーションに合わせ、左足を本塁側へ踏み込んでいくその「マサカリ打法」は必然的に、死球も増える。
竹之内の通算166死球は、2022年シーズン終了時でも、196の清原和博に次ぐ歴代2位、ちなみに3位は鉄人・衣笠祥雄だ。
左は掛布打法、右は竹之内打法で、しょっちゅう草野球の打席に入った。
守備位置につけば、掛布のごとく、右手でグラウンドの土をはき、その土のついた指先で一度、右腰をこすった後、人差し指と中指を舌で舐めるのも真似た。
なんか、じゃりっとする。甲子園の土はええ味なんかな? と本気で思った。
クラスにいる、ちょっと体の大きい同級生のあだ名は決まって「バース」(米国・83年入団)だし、街でちょっと太った外国人を見かけたら「あ、バースがおる」
初めて体験した阪神の優勝は、あの1985年のことだった。
ちょうど大学浪人中。受験勉強のお供は、阪神戦を実況中継するラジオだった。
西武との日本シリーズ初戦は、模擬試験の時間と丸かぶりだった。
ポケット版のラジオを胸ポケットに入れ、利き腕と逆の左手にイヤホンをはわせ、試合の実況を聞きながら試験に臨んだ。
カンニング疑惑をかけられても、仕方のない格好だ。恐らく、試験監督の先生も気づいていたはずだ。でもなぜか、全く咎められなかった。
試合は、8回にバースが3ラン、先発の池田親興(宮崎/日産自動車/83年2位)が6安打完封。
「池田、完封や」
隣の友人に知らせたのだが、そのささやきが届くはずのない私から離れた席の受験生も、机の下でガッツポーズしているのが見えた。

大学時代にアルバイトをしたのは、デイリースポーツの編集局だった。他紙も含め、毎日のように、すべてのスポーツ紙をむさぼり読んだ。
憧れたのは『江夏の21球』の著者、山際淳司氏だった。
1979年の日本シリーズ第7戦。広島の1点リードで迎えた9回裏、守護神・江夏豊(大阪/大阪学院高/66年第1次1位)が近鉄に無死満塁にまで詰め寄られる。
そこから佐々木恭介を三振、石渡茂のスクイズを外して三塁走者・藤瀬史朗がタッチアウトになり、最後は石渡が三振でゲームセット。広島が日本一に輝いた。
1球ごとに動く試合状況と、選手たちの心理状態を克明に描いた筆致に衝撃を受けた。
スポーツ・ノンフィクションの嚆矢とも言うべき山際氏は、NHKのスポーツキャスターも務めていた。そのマルチな活躍ぶりに、勝手に自分の未来図を重ね合わせていた。
「俺は、この人になる」
どこから湧いてきたのか分からない、根拠のない自信。若さゆえとお笑いください。
大学在学時は、まだバブル経済の真っ只中。就職活動中、自宅には大手銀行や商社に勤めた先輩たちから何度となく、電話が入ったものだった。
「はい、よろしくお願いします」と言えば、入社できたのかもしれない。
しかし、その名だたる大企業には見向きもせず(?)産経新聞社へ。サンケイスポーツ編集局への配属希望も、最初から叶えられた。
父が阪神の元監督・安藤統男(統夫=※登録名は統男)氏(茨城/慶大/62年入団)と親しい関係にあった。
私がサンケイスポーツに配属されることを聞いた安藤氏が「俺の名前があれば、何かと役立つかもしれんからな」と、入社の際の「保証人」になってくれた。
書類に直筆の署名を入れ、実印も押してくれて「いろいろあるやろけど、頑張れよ」
だから私にとって、野球界に関わっている限り、この世界では安藤氏が〝親代わり〟なのだ。サンスポに配属された途端、編集局長に「安藤とどういう関係や?」と尋ねられた。
先に明かしておくが、これが第7章の〝伏線〟である。

スポーツ紙の阪神担当、通称「トラ番」
関西版の1面は、決まって阪神。2面も3面も当然、裏面まで展開する日がある。
キャンプも、オープン戦も、ペナントレースも、シーズンオフも、常に〝3枚〟は阪神のページだ。勝っても負けても、試合がなくても、阪神のことを書くのだ。
「おい、野球の記者やからって、野球のことを書けるなんて思うなよ。お前らに求めているのは、カネ、女、揉めごとや」
入社6年目、初めてトラ番になった時、取材キャップから忠告されたことを忘れない。
負けている試合で、1面になるような話題がないケースはしょっちゅうのことだ。こんな時、会社への原稿打ち合わせの電話が、なんとも億劫になる。
試合の報告をしたところで、全く食いつきもしてくれなければ、締め切り時間が近づいているせいか、逆切れに近い剣幕で怒鳴られることも多々だ。
「そんなん、おもろないな。誰か、監督と揉めてへんのか? 文句言うてへんのか?」
そんなこと、しょっちゅう起こるわけがない。それでも、書かなきゃいけない。
なぜかしら、1面のどでかい見出しだけが、先に決まっていることがある。
「こうやろ?」「いや、そんなことは……」「いや、アイツならこう言うはずや」
まだ〝ひよっこ記者時代〟だった。デスクの強引な捻じ曲げぶりを押しとどめられるような力は、全く持ち合わせていない。
突っぱねられないどころか、つい「そういう……ニュアンス……ですかね……」
送った原稿の段落の頭には、知らぬ間に「だが」「しかし」と挿入されている。
見出しに合うように、内容がなんとも都合よく(?)変換されてしまうのだ。
自分の与り知らぬところで、書いた原稿の意図が変わっている。そんな見出しが躍った日には、決まってコーチや選手にベンチ裏へと呼ばれる。
「あれ、なんや?」「なんで、あんなこと書くんや」「お前がやったんか?」
言った、言わない。これで阪神の選手たちは、次第に口数が少なくなる。
そこに生じた摩擦と行き違い。これが、多くの悲劇を生んできた。
今回、取材に応じてくれた「阪神ドラフト1位」の選手たちの述懐を聞き、当時の葛藤が鮮明に蘇り、改めて心が痛んだ。
取材する側としての「反省と後悔」も、今回の執筆動機の一つである。

今回の企画は、ひょんなところから生まれた。
2021年12月に出版した前著『オリックスはなぜ優勝できたのか』の編集担当・三宅貴久は、熱心なヤクルトファンだ。
打ち合わせと称した野球談議は、近い将来、オリックスと阪神の「関西決戦」が実現するのか否か、という話へと進んでいった。
ちなみに『オリックス〜』の前に出版した『ホークス3軍はなぜ成功したのか?』は2020年4月出版。その年、ソフトバンクは日本シリーズ4連覇を果たした。
「喜瀬さんが書けば、そこが優勝しますね。じゃあ、次は阪神にしませんか? そうしたら、阪神が優勝するかもしれませんよ」
打診なのか、単なる雑談なのか。判断はつきかねたが、私はつい、こう返していた。
「阪神のことは、僕には書く勇気がありません」
これが、偽らざる本音だった。
関西には、それこそ阪神の情報が溢れかえっている。
スポーツ紙では、毎日のように阪神の情報〝ばかり〟が載る。関西のテレビ局が制作する朝夕のニュース番組のスポーツコーナーの中心は、揃って阪神だ。
勝っても負けても、オリックスが日本一になろうとも、何があってもタイガースなのだ。
関西のスポーツ紙では、阪神以外の球団を担当している記者で「仕事ができる」と評価されると、即座にトラ番へと〝昇格〟する。
エース記者になり、1面原稿をバンバン書いて、トラ番キャップになる。
会社で昇進していくためには、それこそ「阪神」を経験しなければならないというのが不文律であり、どの社の人事を見ても、記者上がりで役職についているのはトラ番経験者だ。
阪神取材一筋、何十年という名物記者もごろごろいる。阪神の歴史にも詳しく、球団の上層部との太いパイプを持っているベテランもたくさんいる。
関西のタレントや芸人、大学教授といった文化人の方々でも「阪神ファン」を看板に、テレビやラジオで、タイガースを語る人たちがわんさかいる。
阪神を書けば、いやこうだ、やれこうだと、各方面から言われるのも間違いない。
それぞれの「阪神論」がある。この〝阪神沼〟に踏み込むと、底なしなのだ。

そして私も、阪神にまつわるエピソードには、なぜかしら事欠かない。
記者は、球場に入るための身分証明として、NPB(日本野球機構)から発行された、社名、自分の名前、顔写真の入ったパスを首から下げていく必要がある。
中日担当をしていたある日、阪神戦の取材で、甲子園球場にやって来た時のことだ。
関係者入り口前で、カバンからそのパスを取り出した。
パスをぶら下げている「ストラップ」は中日球団からいただいたもので、ドラゴンズのロゴ入りで、青色だった。
「おりゃ、サンスポ!」
声の方を振り向くと、阪神のハッピを着たおじさんが私の胸元を睨んでいた。
「サンスポのくせに、なんで中日なんじゃ。ここは甲子園じゃ。アホか」
記者ですらこれだから、選手はさらに大変だ。
ある年のセ・パ交流戦でのことだった。
甲子園の外野フィールドで、ソフトバンク・和田毅が短いダッシュを繰り返していた。
「おい、和田〜」
何度も何度も外野スタンドから呼びかけられたので、声のする方へ振り向いた。
「ちゃうわー」
ん? 状況が飲み込めず、困惑する和田に、勢いづいたファンがこう叫んだ。
「甲子園で『和田』っちゅうたら『和田 豊』(千葉/日大/84年3位)のことじゃ。お前とちゃうわ」
練習から戻って来た和田は苦笑いを浮かべながら、そのやり取りを明かしてくれた。
「和田は、お前じゃないって、そんなこと、分かりませんよね?」
中日時代の福留孝介(鹿児島/日本生命/13年移籍)が、外野の守備練習中、甲子園のライトスタンドの方を向いて、何やら話し込んでいた。
三塁側ベンチに引き揚げてきた際に「何、してたん?」と尋ねてみた。
「あ、あれ? スタンドに、知り合いがいたんですよ」
話しだした福留の口元が、すでに緩んでいた。
「それでね、アイツら『福留、お前は打ってもええけど、最後は阪神に勝たせてや〜』って。いやー、阪神ファンですよね、ホントに」
ヤジ一つにも笑いとオチをつけ、選手をダシにして周囲のファンを笑わせにかかろうという、関西人特有のノリに溢れているといえば、贔屓が過ぎるだろうか。
ファンの熱さに、関西という土地柄と人が絡み合い、醸し出されるその空気感も独特だ。
こうした種々の要素も、これから先の話での〝スパイス〟になってくる。
「そういうこと、私も初めて聞かせてもらいました。熱心な阪神ファンでも、意外と知らないことなんじゃないですか? 多分、面白いですよ。ぜひ書いてください」
三宅からの注文は、今までにない「阪神論」を、というわけだ。

トラ番の世界では、こんな〝言い伝え〟がある。
「阪神ファンは、トラ番になったら不幸になる」──。
その意味は「取材すればするほど、勝てないのが分かるから」だという。確かに「暗黒時代」と呼ばれた1990年代は、その通り(?)だった。
ただ、時代が進むとともに、ちょっと様相は変わってきている。
日本一の翌年、1986年から次のリーグ優勝を遂げる2003年の前年、2002年までの17シーズンで、最下位10度、Bクラスは15度を数える。しかも、1993年から2002年までは10年連続Bクラス。文字通りの「暗黒時代」だった。
2022年シーズン終了時でも、1985年を最後に日本一からも遠ざかっている。この長きブランクは、広島の1984年に次ぐ〝ワースト2位〟でもある。
直近のリーグ優勝も2005年のことだ。それでも、2006年から2022年までの17シーズンで、Bクラスは5度のみ。最下位は1度しかなく、2位が8度もある。
矢野燿大(大阪/東北福祉大/98年移籍)の監督4年間は、すべてAクラス。むしろ誇るべき結果でもある。
2022年も、セ・リーグの開幕連敗記録としてはワーストとなる「開幕9連敗」を喫しながらも、最後は3位に滑り込んでいる。
間違いなく、力はついてきているのだ。なのに、リーグ優勝から長く遠ざかり、平成の時代には、一度も日本一になれなかった。
阪神タイガースはなんで優勝でけへんのや?

いわく、マスコミが、毎日毎日、あることないこと書くからや。
いわく、ファンが、ぎゃーぎゃー言い過ぎるからやろ。
いわく、タニマチが、夜の街に選手を連れ回すからや。
いわく、OBたちが、ごちゃごちゃと現場に口を出し過ぎやん。
いわく、スカウトが、ええ選手を獲ってけえへんからやろ。
いわく、2軍で、若い選手をちゃんと育てへんからやん。

列挙した「阪神のアカンところ」は、もはや拭い去れない定説のようになっている。
こうした話を掘り下げ、突っ込み、厳しく分析したような書籍やレポートを探してみたのだが、どれも隔靴掻痒の感が否めない。
じゃ、お前はそれを取材して、書いてきたのか?
そう問われると、俯かざるを得ない。この部分での自己批判と反省は大いにある。
ただ、繰り返しにはなるが、どことなく「阪神ってこういうもんやろ?」というところですべての話が、とどまっているような気がするのだ。
この、どこかふんわりとした〝謎〟に切り込んでいこうというのが、本書における最大のチャレンジでもある。
多くの選手たちが超人気球団で破格の注目を浴び、その中でプレーするという重圧に苦しんできた姿を、私も取材の現場で目のあたりにしてきた。
それでも、現役の選手や首脳陣だと、自分たちの所属する組織の〝良くない思い出〟の一部を語ってもらうことになる。その取材に、球団の了解が容易に出るとは考えづらい。
また、現役時代に活躍した阪神OBになると、どこかのスポーツ紙と専属評論家としての契約を結んでいるケースが多い。阪神時代の振り返りは、まさしく、そういう話をしてもらうために契約しているわけだから、この取材もなかなか困難だ。
言い訳ばかり先に並べてしまったが、つまりは過去の取材体験から考えてみても「今、阪神に関わっていない人」に絞るのがベストではないまでも、ベターで無難なプランになる。
それでも、阪神に〝関わる人〟が絶対数として多いのだ。
新たな切り口での取材は、やっぱり大変だった。ある程度の覚悟はしていたが、取材に応じてくれる人を探すのに、実はかなり難航した。

取材依頼と企画書、執筆の動機を記した手紙を添え、こちらが「話を聞いてみたい」と思った元選手たちに、まずは郵送することにした。
「丁寧な企画書、ありがとうございました」
智辯和歌山高監督・中谷仁(和歌山/智辯和歌山高/97年1位)からは、直接電話をいただいた。
「でも、本当にすみません。今、立場上、高校野球とは別のことで話題になったりするのは避けたいと思っていまして、この件での取材はすべてお断りしているんです。またお話できるようになれば、必ずお答えしますので」
奈良で整体院を開業している萩原 誠(大阪/大阪桐蔭高/91年1位)からは、メールが届いた。
「ご丁寧な企画書を頂きましたが、今、野球に関する取材は、こちらの都合ですべてお断りしています。すみません」
的場寛一(兵庫/九州共立大/99年1位)からも「ドラフト1位の話は、もう、ちょっと辛いんです。お声がけ頂いたのに申し訳ございません」という旨のメッセージが届いた。
伊藤隼太(愛知/慶大/11年1位)も、2022年まで所属していた独立リーグ・愛媛の球団広報から「申し訳ありません、とお伝えくださいとのことでした」と電話をいただいた。
彼らの思いも、いやというほど分かった。
かつての「挫折の日々」を、改めて聞かれるのだ。こうした件に関して、初めての取材でもないだろう。悔しい、辛かった思い出を、さらにえぐり出されるようなことになる。
取材に応じてくれなかったから、恨んでいるわけでもなんでもない。そこだけは強調しておきたい。ただ、彼らの体験してきた苦悩が、それぞれの断りの中に、強くにじみ出ているような気がしてならなかった。取材依頼をしたことで、むしろ申し訳ない気持ちになった。
これも、阪神タイガースの「現実」なのだ。
あえて執筆の前段階になる経緯に触れたのも、これから記していく〝阪神論〟の伏線になっていることを、承知しておいていただきたい。

取材がある程度進んだ段階で、阪神ファンの編集者・田頭晃とのミーティングを行った。
「その話を、一度〝腑分け〟してみたら、面白いんじゃないですか?」
その示唆に、ひらめくものがあった。
熱狂的なファン、そして、これでもか、とばかりに連日、関西のスポーツ紙は破格の扱いで、阪神報道を展開していく。
野球のないオフであっても、たいてい1面から3面まで、ずらっと阪神の記事が並ぶ。それが、阪神という「看板」の輝きと重さでもある。
さらに、阪神タイガースという〝場〟が放つ、眩いばかりの輝きと空気感。それは関西という独特の「風土」に根を持つものでもある。
そのオリジナリティーに戸惑う「他地域の出身者」という、恐ろしいばかりのハレーションも、はっきりと見えてくる。
本書の冒頭にも記したように、この本の中で登場する阪神OBたちの名前の下には、その出身地と最終経歴、ドラフト指名を受けた年とその順位を付記してある。
これから展開していく〝風土論〟を理解する一助にしてもらうためでもある。
1990年代に頻出した弱気なドラフト「戦略」とリンクしているのは、2022年の開幕スタメンに高卒野手のレギュラーがいなかったという「育成」の停滞でもある。
そうした要素が複合的に絡まり合ったことが、かつての若きエース・藤浪晋太郎(大阪/大阪桐蔭高/12年1位)の〝行き詰まり〟と「苦悩」に象徴されている。
それこそ「1を聞いて10を書く」とまでいわれ、連日のように、膨大に報道される阪神の話題が、いつの間にか、固定化されたストーリーへと変わってしまう。
その恐ろしさを「誤解」で描いている。
一方で、マスコミにとって、阪神はまさしく〝飯の種〟だ。
阪神報道で主導権を取ることは、その社にとっての、大きなセールスポイントになる。
過去を遡ってみると、球団の主導権争いに乗じて、番記者も動くという暗闘が繰り広げられていた。まるで政治の世界の「派閥抗争」のような、どろどろとした人間模様の中に、実は私も、知らぬ間に足を突っ込んでしまっていたことがあった。
「派閥」の章を読んでいただければ、章題に添えた「与党」と「野党」という意味合いも、よく分かっていただけると思う。
私の実体験は、超人気球団を取り巻くスポーツ報道の隠れた〝負の一面〟でもある。
最終章は、2023年から15年ぶりに阪神監督に復帰した岡田彰布(大阪/早大/79年1位)が「優勝」という言葉を「アレ」と置き換えるようになった、オリックス監督時代のその誕生秘話と、この本のまとめの意味合いも含めた、関西における「阪神」の存在意義を探ってみた。

取材依頼書には「40分から1時間程度」での取材をお願いしていた。
ところが、取材に応じてくれた元ドラ1たちは、例外なく、その倍以上の時間をかけ、たっぷりと、思いの丈を話してくれた。
こちらも、つい取材であることを忘れてしまうほど、話に聞き入った。疑問に感じていたことを遠慮なく、どんどんぶつけさせてもらった。
阪神ファンとしては、至福の時間でもあった。
その〝熱〟を、少しでも皆さんにお伝えできればと思っている。

おっ? その見方はちょっとおもろいやん!
えっ? それはちょっとちゃうんとちゃうか?

そうやって、どうぞ、あちこち突っ込みながら読み進めてください。それこそ、阪神タイガースの「楽しみ方」でもありますから。
一つだけ、ここで強調しておきます。
この本を貫き通しているのは〝阪神愛〟です。(了)


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