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井上智洋が提言する「脱労働社会の可能性」

〈資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい〉
 アメリカの思想家フレドリック・ジェイムソンによるこの言葉は、スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクやイギリスの批評家マーク・フィッシャーを筆頭に世界中で引用されてきた。自己破壊的な資本主義システムは終わりを迎えるまで世界を喰いつくすのであり、かといって資本主義に取って代わるオルタナティブはないのだ、という諦念がそこにはある。
 こうした「出口なしの資本主義」に対して、脱出を試み、敗北を喫してきた論者はかねてから数多く存在するだろう。井上さんによれば、かつての脱出論者には問題設定の時点で根本的な誤りがあったのであり、見過ごされてきた欠陥が資本主義には存在するのだという。
「資本主義からの脱出」を図るには「銀行中心の貨幣制度からの脱却」こそが必要である、というのが井上さんの主張の核心である。(文/本書の共著者・高橋真矢さん)
(以下、松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ』、第三章「現代資本主義の問題点」(文/井上智洋)より一部アレンジして抜粋)

出口なしの資本主義「資本主義リアリズム」とは?

 世の中に貧富の差があるのは、なんらかの不正や不公正があるからではないかと考える人が今ではすっかり少なくなったが、かつてはたくさんいた。
 資本家が労働者を使役して利益を得ることが「搾取」と呼ばれ、不当な営みであるかのように見なされていた時代があったのである。 
 ところが、1990年前後にソ連・東欧の社会主義国が軒並み崩壊して30年近くが経ち、「搾取」は博物館の収蔵物のようなかび臭い言葉になってしまった。

 労働者に十分な賃金を与えずに酷使するような企業は「ブラック企業」などと糾弾されるが、経営者や株主であること自体を責められることは今やほとんどない。

 ソ連型社会主義の失敗によって、資本主義がまったくの出口なしであることが明らかになり、左派・左翼にはさしたる展望も理念もなくなった。資本主義では、資本を投下し生産設備を増やすことで生産量を増大させて、それによってさらに資本を増大させる「資本の増殖運動」が展開される。ソ連型社会主義では、この資本の増殖運動を民間企業の代わりに国家が担っている。つまり、ソ連型社会主義は資本主義のオルタナティブではなく、「国家資本主義」の一種でしかない。

 ソ連と東欧諸国のかつての体制は、そもそもが地球上を覆う「近代世界システム」(=近代資本主義)の一部でしかなかったのだが、あたかもオルタナティブであるかのように見なされていた。

 そういう幻想すらも雲散霧消した後に立ち現れた、出口なしのように見える資本主義を「資本主義リアリズム」という。

 イギリスの批評家マーク・フィッシャーによれば、それは「資本主義が唯一の存続可能な政治・経済的制度であるのみならず、今やそれに対する論理一貫した代替物を想像することすら不可能だ、という意識が蔓延した状態(*1)」である。


 資本主義リアリズムのただ中にあって、資本家による搾取一般をいかに糾弾したところで、「それではどんな体制が望ましいのか?」という問いに答えられないのであれば、無力であるばかりか無責任でもある。
 そもそも経営者が労働者を使役して利益を得たところで、不正とは言えないのではないかという話にもなってくる。労働者を大切にする経営者ならOKということであれば、マルクスも革命も必要ない。

資本主義からの脱却「加速主義」とは?

 フィッシャーは、「加速主義」を支持し「アシッド・コミュニズム」に救いを見出しつつ2017年に亡くなってしまう。

 加速主義というのは、資本主義のダイナミズムを加速させることでその極限において資本主義からの脱出を図ろうという思想である。これは、資本主義リアリズムと裏表の関係にあって、オルタナティブが存在しない以上、資本主義をとことん追求することでしかその乗り越えはありえないことを意味している。

 加速主義は一般には、1990年代にイギリスの哲学者ニック・ランドが主導した「サイバネティック文化研究ユニット」(Cybernetic Culture Research Unit, CCRU)の活動の中から生まれた思想として知られている。ただし、似たような思想はそれ以前にもあって、マルクスは資本主義の極限における革命を志向したということで、加速主義者の起源として位置づけられることがある。
 アシッドというのはLSDのことで、LSDを思わせるような幻想的な音楽としてアシッド・ハウスがある。エクスタシーのようなドラッグを摂取して、アシッド・ハウスやテクノを流しながら一晩中踊り続けるような「レイブカルチャー」にフィッシャーは資本主義からの脱出の糸口をつかもうとしていたのである。
 しかしながら、これは1960年代のヒッピー文化の90年代版のようなもので、ドラッグをキメていくら踊り狂ったところで資本主義がどうにかなるものでもない。60年代のロックがハウスやテクノに置き換わり、大麻がエクスタシーに置き換わっただけのことである。それゆえ、アシッド・コミュニズムはあまりにも無力だが、加速主義については私は留保付きではあるが支持している。

 私は、AIなどの自動化技術が進歩し普及した挙句に、直接的な生産活動を機械だけが行う「純粋機械化経済」が到来し、人々が生活のために賃金労働をしなくても良いような「脱労働社会」が到来することを予測しているとともに待望している。2019年に出版した『純粋機械化経済(*2)』は、今から思えば私なりの「加速主義宣言」だ。
 この本の結びに私はこう書いた。

68年革命は「なんのリハーサルだったのか」という問いに対して、私はさしあたりハッカー達が引き起こす情報革命のリハーサルだと答えた。さしあたりではなく最終的にはどうなのかというと、それは脱労働社会を到来させるAIとBIによる革命のリハーサルだ。

 ヒッピームーブメントと学生運動は「68年革命」といわれる世界的な文化革命を巻き起こした。1970年代にそれが退潮したもののヒッピー文化を受け継いだスティーブ・ジョブズのようなハッカーたちがもたらしたのが情報革命だ。さらにはAIとBI(ベーシックインカム)の普及によっていずれは脱労働社会が訪れ、ヒッピーたちが希求したようなより自由で平等な社会となるだろうという意味のことを述べている。したがって、AIの導入を加速せよと基本的には主張したいのであるが、同時にAIが雇用を破壊するというマイナス面についても論じている。

 私の言うことは矛盾に引き裂かれているが、むしろ引き裂かれるべきだと思っている。矛盾が現に存在するのにないかのように言い立てることは欺瞞だからである。先ほど留保付きの加速主義と述べたのは、そういう理由によるものだ。

なぜ貨幣制度の変革が必要なのか?

 遊んで暮らすことのできる脱労働社会がユートピアであるかどうかという点については、大いに議論の余地があるだろう。ただ、多くの調査結果が賃金労働をしている人よりも、していない人の方が生活満足度が高いということを示している。
 加えて、年輩者が労働に価値を置く傾向があるのに対し、若い人はそこまで価値を置いていない。「レイバリズム」(労働主義)は徐々に力を失っており、今後のAIの普及に伴ってこの価値転換は加速する可能性もある。

 したがって、すべての人々にとってというわけではないが、多くの人々にとって脱労働社会はユートピアになるかもしれない。そうだとして、私たちはその到来をただ待ち焦がれていれば良いのだろうか?
 今の資本主義には正さなければならない根本的な不正も不公正もないのか?
 金持ちには才能と克己心があり、貧しい人にはそれらが欠けているから、ただ施しとしてBIのような再分配政策がなされるべきなのか?

 私はいずれの質問に対してもノーと答えたい。資本主義はまったくの出口なしでそのダイナミズムを加速させることでしか乗り越え不可能なものであるが、それとともに今の資本主義には明らかな不公正がある。もし政府が特定の企業や人々に不必要な特権を与えて優遇し、そのせいでそれ以外の人々が割を食っているとしたら、そんな不公正は正されなければならないと考えられるだろう。

 資本主義のもっとも基礎的な定義は、前述したような資本の増殖運動が行われているような経済というものだ。ただし、それ以前の経済と比べ際立って異なる点がさらに二つある。
 一つは市場経済の全面化であり、もう一つは市場で交換の媒介の役割を果たしている貨幣に関する制度が「銀行中心の貨幣制度」になっているということである。

 ハンガリーの経済学者カール・ポランニーが論じたように、市場経済は近代において異常なほど肥大し全面化した。その市場経済を計画経済に置き換えようとしたのが、ソ連型社会主義である。ところが、市場経済はフランスの歴史学者フェルナン・ブローデルが「人類が初めて手にしたコンピュータ(*3)」と呼んだように、あらゆる財の適正価格を導出し得るよくできた計算システムなのである。


 そのような自然発生的なコンピュータを、中央当局のスタッフが適正価格を計算して割り出すような計画経済に置き換えても、それはうまく機能せずにソ連型社会主義は失敗に終わった。
 社会主義者たちは廃棄すべきものを取り違えていたのである。私たちが廃棄すべきだったのは、市場経済ではなく銀行中心の貨幣制度の方だった。国民の多くは、お金がどのように創られているのかを知らない。主にお金を創っているのが、日銀のような中央銀行ではなく、みずほ銀行やりそな銀行といった民間銀行であることを知らないのである。

 銀行こそが「お金を創る」という特権を政府から与えられている。そして、その分私たちは得られるべきはずのお金が得られず、家を建てるにもローンを組んで銀行からお金を借りて利息を払わなければならない。
 このような不公正を正すこと、つまり「銀行中心の貨幣制度」を廃止して「国民中心の貨幣制度」を打ち立てること。それが、ただ指をくわえて脱労働社会を待ち続ける以外に、私たちが資本主義に対してなすべきことなのである。

*1 マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』セバスチャン ブロイ・河南瑠莉訳、堀之内出版、2018年
*2 井上智洋『純粋機械化経済 頭脳資本主義と日本の没落』日本経済新聞出版、2019年
*3 フェルナン・ブローデル『歴史入門』金塚貞文訳、中央公論新社、2009年

著者プロフィール

井上智洋(いのうえ ともひろ)
駒澤大学経済学部准教授。経済学者。慶應義塾大学環境情報学部卒業。IT企業勤務を経て早稲田大学大学院経済学研究科に入学。同大学院にて博士(経済学)を取得。2017年から現職。専門はマクロ経済学、貨幣経済理論、成長理論。著書に『人工知能と経済の未来』(文春新書)、『ヘリコプターマネー』『純粋機械化経済』(以上、日本経済新聞出版社)、『AI時代の新・ベーシックインカム論』(光文社新書)、『MMT』(講談社選書メチエ)などがある。

井上(カラー写真)

資本主義から脱却せよ◆目次

【プロローグ】私たちの「借金」とは何か?(高橋)
【第一章】そもそも、お金とは何か?(高橋)
【第二章】債務棒引き制度はなぜ、どの程度必要か(松尾)
【第三章】現代資本主義の問題点(井上)
【第四章】私たちは何を取り戻すべきなのか(高橋)
【第五章】銀行中心の貨幣制度から国民中心の貨幣制度へ(井上)
【第六章】信用創造を廃止し、貨幣発行を公有化する(松尾)
【第七章】「すべての人びと」が恩恵を受ける経済のあり方とは?(高橋)
【第八章】淘汰と緊縮へのコロナショックドクトリン(松尾)
【第九章】「選択の自由」の罠からの解放(高橋)
【第十章】「考える私」「感じる私」にとっての選択(松尾)
【第十一章】脱労働社会における人間の価値について(井上)
【エピローグ】不平等の拡大と個人空間化(高橋)

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