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なぜ世界的なブームになったのか?――ChatGPTの基礎知識②by岡嶋裕史

彗星のごとく現れ、良くも悪くも話題を独占しているChatGPT。新たな産業革命という人もいれば、政府当局が規制に乗り出すという報道もあります。いったい何がすごくて、何が危険なのか? 我々の生活を一変させる可能性を秘めているのか? ITのわかりやすい解説に定評のある岡嶋裕史さん(中央大学国際情報学部教授、政策総合文化研究所所長)にかみ砕いていただきます。ちょっと乗り遅れちゃったな、という方も、本連載でキャッチアップできるはず。お楽しみに!

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なぜ世界的なブームになったのか?――ChatGPTの基礎知識②by岡嶋裕史

環境が整ったから

 ChatGPTがなぜ世界的なブームになったか?
 いろいろな煽り文句は思いつくけれど、もっとも誠実に回答するならば、「環境が整ったから」だろう。
 ある技術が生まれたとき、それがどんなに優れたものであっても、社会がそれを受け入れられなければ普及することはない。
 インターネットの黎明期から、すべてのコミュニケーションをインターネット上で行いたいという需要はあった。洗練されていたとは言えないが、それに応える技術もあった。ではすぐに社会に広まったかといえばそれはない。
 電子掲示板が現れ、メールが現れ、Webが登場して、GUIを伴うOSの発売でそれらが少し易しめの操作で使えるようになった。チャット、ブログ、SNS・・・と利便性が高まり、機器の高性能化で音声も画像も扱えるようになった。機器側もパーソナルコンピュータ、ポケベル、フィーチャーフォン、スマートフォンなど止まぬ進化があって人々の生活に浸透する。
 何十年もかけてこれらの下地を作って、やっと「そろそろ生活のすべてをインターネット上に移すか=メタバース」のブームになるのである。それだって、コロナで現実の生活に制約がかかったことが大きく作用している。そのくらい、人が新しい技術を受け入れるのには時間がかかる。
 周辺技術の発展も大事だ。建築技術が進歩して高層建築物を建てられるようになれば、ぼこぼこ建つのか。たぶんそうではない。エレベータが発明されないと死ぬほど使いにくいだろうし、高層建築物火災に対応できる防災・避難システムも必要になる。自然言語処理だけが突出して進歩しても、それだけでは普及に至らない。

ふわっとした「シンギュラリティ」という概念

 AIブームはぽっと出にも見えるが、実はすでに70年選手である。情報分野のノーベル賞(ノーベル賞に情報部門はない)と言われるチューリング賞の名前の由来になっているアラン・チューリングが、その機械が人間っぽく見えるかどうかを判定する「チューリングテスト」を提案したのが1950年だ。
 このとき、人工知能(AI)は萌芽期にあったが、多くの人は「人間と見分けがつかない会話なんて無理だ」と冷笑的な捉え方をした。

 そもそも「知能」というものの実態がよくわかっていないのだ。
 記憶力のことなのか、思考力のことなのか、それとも身体能力などもかかわってくるのか。
 わからないものを機械に置き換えることなどできるのか、という批判は常にあったし、今もあり続けている。
 ただ、人のようにふるまって、人の役に立ったり、人の代わりを担えるようになるものは作れるかもしれない。人工知能研究はそのような地点から始まった。
 人工知能の研究者も、いずれ人間の活動を完全に置き換えられるような成果物を目指して研究する人と、それは無理だから特定分野の能力を極めて人の役に立たせていこう、そのうちに「特定分野」の範囲を拡げていけば、「人間っぽさ」も「役に立つ場面」もどんどん進歩していくぞ、という発想で研究する人がいる。
 前者を突き詰めていくと、いずれあらゆる分野でAIが人間の能力を大幅に超えていくだろう、そのとき人間の生活は劇的に変わるだろうという話になる。この、「人間を超えていくこと」「生活が激変すること」にはシンギュラリティ(技術的特異点)とキーフレーズが添えられている。
 シンギュラリティの言い出しっぺは思想家のレイ・カールワイツだが、それ自体がふわっとして、かつスピリチュアルな言葉なので、「シンギュラリティが2045年に来るぞ!」といった言説はあまり気にしなくていい。シンギュラリティの定義次第でいかようにも変わりうる数値だからだ。1900年には自動車の能力は確実に人間の脚力を上回っていたし、それで人間の生活も激変したが、特に人類が滅んだりはしなかった。

「強いAI」と「弱いAI」

 一足飛びにシンギュラリティを起こすことは無理なので、人工知能研究は当面の間、地道な感じでなされることになった。後者のほうである。
 ところで、前者が目指す人工知能と、後者の考える人工知能ではかなり隔たりがあるので、長い時間をかけて用語も整理されてきた。前者の人工知能は、現在では汎用人工知能(AGI:Artificial General Intelligence)、強いAIなどと呼ばれている。意識や感情、目標設定などの精神活動も含めて、単体で人間の代わりになり、人間を超えていく存在である。「考えることができる」と言い換えてもいい。
 後者の人工知能は弱いAIと呼ばれる。特定の分野の問題解決をするものである。端的なところでは、「チェスで人間に勝つ」だ。チェスの手の演算だけができればよい。別にロボットアームを動かして駒を進めなくてもいいし、もちろん感情など必要ない。それだって作るのはすごく難しいけれど、強いAIに比べれば格段に楽だ。
 なかには弱いAIを「AI」と呼ぶと、怒り出す人もいる。弱いAIは特定問題解決機能であって、知能と言えるしろものではない、粗忽にそんな呼び方をするなというわけである。確かにそれはそうなのだ。AIの名を冠しておけば先端っぽいし、製品も売れるだろうと、何の工夫もない、単なる既存製品の焼き直しがAIとして販売されるような事例も多い。だから、専門の人ほど「AI」の呼称をいやがったのである。
 しかし、出所と経緯はどうあれ、これだけ「なんか高度なやつ」を表すラベルとして「AI」が普及してしまうと、無視したり使わずにすませたりするのも不自然になってきた。だから私も、特に注記がない限り、本書では「弱いAI」の意味で「AI」という言葉を使う。
 そして、現時点に至るまで、「AI」と呼ばれているものは、すべて弱いAIの範疇に入ると考えてよい。今をときめくGPT-4もAGIや強いAIではない。やつはまだ人間の過去のふるまいをみて、その場において「もっとももっともらしい」回答を確率的に選んでいるに過ぎず、「考える」ことはできないし、哀しいと思うことも、人を好きになることも、手を動かしてカップラーメンにお湯を注ぐことも、逆上がりをすることもできない。言語モデル、会話モデルとして広汎な用途に適用することができるが、AGI(汎用人工知能)ではない。
 GPT-4の現在位置をどう見るかは識者によってだいぶ温度差がある。OpenAIのCEOであるサム・アルトマンは「AGIに遠く及ばない」と発言している。ただし彼はAGIの実現についてかなり楽観的な発言も目立つので、これはイーロン・マスクらの「安全を検証するためにAI開発を一時停止しよう」への牽制であるとも受け取れる。
 いっぽうマイクロソフトは、「AGI実現への入り口に立った」と評した。豊富なデータと知見に恵まれた研究者や技術者の間でも、評価が割れていることが見て取れる。(続く)

岡嶋裕史(おかじまゆうし)
1972年東京都生まれ。中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程修了。博士(総合政策)。富士総合研究所勤務、関東学院大学経済学部准教授・情報科学センター所長を経て、現在、中央大学国際情報学部教授、政策文化総合研究所所長。『ジオン軍の失敗』『ジオン軍の遺産』(以上、角川コミック・エース)、『ポスト・モバイル』(新潮新書)、『ハッカーの手口』(PHP新書)、『思考からの逃走』『実況! ビジネス力養成講義 プログラミング/システム』(以上、日本経済新聞出版)、『構造化するウェブ』『ブロックチェーン』『5G』(以上、講談社ブルーバックス)、『数式を使わないデータマイニング入門』『アップル、グーグル、マイクロソフト』『個人情報ダダ漏れです!』『プログラミング教育はいらない』『大学教授、発達障害の子を育てる』『メタバースとは何か』『Web3とは何か』(以上、光文社新書)など著書多数。

 

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