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【第7回】ヒマラヤで最も美しい山|アマ・ダブラム(前編)

数々の極地・僻地に赴き、想像を超える景色に出会ってきたネイチャー・フォトグラファーの上田優紀さん。ときにはエベレスト登山に挑み、ときにはウユニ塩湖でテント泊をしながら、シャッターを切り続けてきました。振り返れば、もう7大陸で撮影してきているかも!? そこで、本連載では上田優紀さんのこれまでの旅で出会った、そして、これからの旅を通して出会う、7大陸の数々の絶景を一緒に見ていきます。第7回からはアジア大陸編。ヒマラヤで最も美しい山と言われるアマ・ダブラムの登頂を目指します。


最も美しい山

僕はこんなところで、いったい何をしているんだろう。

足を止めるとそんな事ばかり考えてしまう。夜明け前の真っ暗闇の中、僕はアマ・ダブラム頂上直下の氷壁にしがみついていた。座ることさえ許さない氷の壁を蟻のように這って登る。どんなに息を大きく吸っても酸素を取り込むことがうまくできない。足は鉛のように重く、アイゼンを壁に蹴り込む力も残っていない。咳き込むたびに肋骨が痛む。氷点下二五度にまで下がった気温は身も心も凍らせ、ついには動いているよりも止まっている時間の方が長くなっていた。上を見上げると垂直の氷壁はどこまでも続き、その先は暗闇に消えている。それでも、その先に必ずある絶対の頂を目指し、ヘッドライトの弱々しい光を頼りに一歩、また一歩と足を進めていった。

アマ・ダブラム。標高六八五六メートルとわずかに七〇〇〇メートルには足りないが、世界最高峰エベレストを抱えるこのヒマラヤ山脈で最も美しい山だと言われている。天に向かって鋭く伸びる頂、切り立った氷壁、美しい稜線。二〇一七年、ヒマラヤの麓にあるクンブー地方を旅した時に出会い、思わず見惚れてしまった。この山をもっと近くで見てみたい、写真を撮りたい。そんな未知の世界への好奇心がふつふつと湧いてきて、僕は登頂しようと心に決めた。

アマ・ダブラムという山はその美しさの反面、登頂するのがかなり困難な山としても知られている。標高六〇〇〇メートルを超えた高所でひたすら岩場をクライミングし、さらにその先で垂直の氷壁を登っていかなくてはならない。空気が薄い中でミスすることなく登攀する技術はもちろん、恐怖心に打ち勝つ精神力、そして落石や雪崩といった自分ではどうすることもできない事態に対するある種の運が備わった時、初めてその頂に立つことが許される。

当時の僕は山登りは好きだったが、もちろんヒマラヤで本格的な登山をするほどの技術は持ち合わせていなかった。なので、春先から少しずつ、いつもより負荷をかけて登山をし、岩場でクライミングの練習を始めた。出発間際になると、冒険家の三浦雄一郎氏が運営に携わるミウラドルフィンズの低酸素室で汗をかいた。過去、六〇〇〇メートル級の山を登ったことはあるが、そんな場所でクライミングなど激しい運動をしたことはもちろんない。低酸素室では室内の酸濃度を低下させ、酸素量を標高六〇〇〇メートルと同じくらいにまで下げることができるので、その環境でランニングマシンで走ったり、ボルダリングをしたりしながら体に負荷を掛けて、少しでも体を高所に慣らしておくことが目的だった。また、極限ともいえる世界で体がどういった変化をするのか、確かめておく必要もあった。

はじめての高所トレーニングの結果は散々なものだった。五〇〇〇メートルまではそれほど苦ではなかったが、六〇〇〇メートルを超えると体に酸素をうまく取り入れることが難しくなり、ゆっくりでも長く走ることは不可能だった。次第に血中の酸素濃度が低下していくと、視界が狭くなっていき、意識もはっきりしなくなっていく。アマ・ダブラム山頂はさらに一〇〇〇メートルも標高が高くなる。そんな場所で氷壁を登り、しかも写真を撮るなんて、僕に本当にできるのだろうか? 出発前、早くも大きな不安に飲み込まれていた。

到着早々の足止め

二〇一八年十月一日、ネパール、トリブバン国際空港。クーラーの効かない小さな国内線のターミナル内は雨季の後半にもかかわらず、ひどく蒸し暑くて、じっとりとした汗が止まらなかった。首都カトマンズにある唯一の空港は利用客でごった返している。ヒマラヤは十月に入るとトレッキングシーズンがはじまり、ここから多くのハイカーたちがエベレスト方面やアンナプルナ方面へ向かい、壮大なヒマラヤトレッキングを楽しむ。

今回、僕はカトマンズからルクラという村へ飛び、そこからエベレスト街道と呼ばれる道を途中まで歩いて、アマ・ダブラムのベースキャンプに行く予定だった。ルクラは標高二八六〇メートルにある山間の村で、エベレスト街道と呼ばれる世界有数のトレッキングルートの玄関口でもある。

ルクラまで行く小型飛行機は今も有視飛行で飛んでおり、パイロットの目を頼りに離着陸している。そのため、雨が降ればもちろん、曇ったり、霧が出たりしても、当然フライトは中止になる。特にモンスーンの季節は一週間近く全てのフライトがキャンセルになることも珍しくはないが、この時期はさほど問題ないと聞いていた。ところが、例年より長く続いている雨季の影響で、この三日間、ルクラ行きの飛行機は一便たりとも飛行していないと、飛行機の出発を待つ僕に航空会社の職員が説明した。

空港で八時間待ったが、結局その日のフライトは全てキャンセルになった。途方に暮れ、今回の登山に関する諸々の手配をお願いしたエージェントに相談すると、なんと陸路でもルクラ方面に向かうことが出来るという。ただ、そのためには十八時間に及ぶジープでの山越え、そして一週間近く山道を歩かなくてはいけないらしい。体力は出来るだけ使いたくない。しかし、天気予報によれば次に晴れるのは一週間後。仮に一週間待ったとしても必ず晴れる保証はなく、カトマンズで何もせずただ待っているよりは少しでも進んだほうがましに思えた。結局、僕はカトマンズからアマ・ダブラムの頂上まで全てを陸路で移動することを選ぶほかなかった。

翌朝五時、ジープに乗ってカトマンズを出発。一度、海抜三〇〇メートルまで下がると気温はさらに暑くなり、昼前にはバナナの実がなる村に到着した。ここからは山をひたすら登っていく。標高が高くなるにつれ、稲穂の垂れていた田んぼは姿を消し、気温も下がってくる。さらに翌日、五時間かけて峠を超えた村で車を降りた。ここから先は、道が狭く険しいため、自らの足で進んでいく。

雨が降る中、いくつもの峠を超えて小さな村に到着し、そこで一泊することにした。夕方には、ゴンパと呼ばれるチベット仏教の寺院を訪ねて、共に旅をするシェルパと安全のお祈りへ。すると寺院の奥から袈裟を着た少年がミルクティーを持ってきてくれた。熱いお茶が雨に濡れて冷えた体を温めてくれる。しばらくして外に出るとすっかり雨は止み、子供たちが楽しそうに走り回っていた。夕日が雨露に濡れた森を優しく照らし、キラキラと輝く彼らの笑い声が山間の村にどこまでも響き渡っていた。

カトマンズを出て六日目、ようやくエベレスト街道に合流した。今までは交易のために集落を行き来する村人とすれ違うだけの静かな山行だったが、ここからはトレッカー達があふれ、賑やかな道を行く。荷物を運ぶ役目もロバから高所と寒さに強い牛の仲間のゾッキョやヤクに変わりはじめていた。

ナムチェバザールは標高三四四〇メートルにあるシェルパ族たちの村だ。かつてチベットとネパールの交易の中心として栄え、この地域で最大の集落でもある。目貫通りにはお土産屋さんやレストラン、仏具を売る店が所狭しと並び、多くの人たちが行き交っていた。この村を越えれば、物資の調達は難しくなるので最後の買い出しをする。僕は予備の乾電池と高山病の薬を購入することにした。

ナムチェバザールを出発すると、ようやくアマ・ダブラムが姿を現した。

はじめてのシェルパ

高所順応も兼ねて、ゆっくりと高度を上げながら街道を歩いていく。こうして、アマ・ダブラムのベースキャンプに到着したのは、カトマンズを出て十二日目のことだった。まだ登山シーズンには早いのか、ベースキャンプは僅かにテントが立ってるだけの静かな場所だった。ここで今回の登山をサポートしてくれる我がチームの面々と合流する。といっても料理を担当してくれるキッチンシェルパ二人とガイドのシェルパ一人の小さなチームだ。

通常、こういうヒマラヤの大きな山を登る場合は、大規模なチームを組むことが多い。十人の登山者に十人のガイド、それにキッチンシェルパや登山中にベースキャンプから天気の情報や登山計画を無線で連絡するサーダー(リーダー)など、エベレストだとその規模は五十人から百人くらいにまで膨れ上がる。一方、僕は撮影をしながらの登山なのでどうしてもペースが上がらないし、一人で気ままに登るのが好きなので、四人だけの個人隊にした。

キッチンシェルパのギャルツェン君は日本のレストランで働いたことがあるらしく、僕のために醤油や蕎麦なんかを持ってきてくれたらしい。そして、我が相棒となるガイドのチリンはまだ若く経験も浅いが、強いとだけ聞いている。彼もアマ・ダブラムに登るのははじめてらしい。はじめてでガイド出来るのかと思わず聞いてみたくなったが、その言葉は飲み込むことにした。少しだけ心許ない気がしたが、この後、僕たちの付き合いは長く続く。チリンと一緒に八〇〇〇メートル峰やついにはエベレストまで登頂することになるのだけど、それはまた別の機会にでもお話しよう。

夕方、キッチンシェルパが入れてくれたお茶をすすりながら、目の前にあるアマ・ダブラムを眺めていたが、山頂は霧で隠れて姿を現さない。まぁいい。これから嫌という程この山と対峙していかなくてはいけないのだ。そんなことを思いながらテントに戻って、暖かなシュラフに包まった。

雲を穿つ山々

翌朝、カンカンカンという音で覚めた。外に出るとベースキャンプを流れる小さな川が凍っており、シェルパの青年がそれを叩き割って氷の下を流れる水を汲んでいる。ベースキャンプとはいえ標高は四六〇〇メートルにもなり、朝晩はこの時期でも氷点下をゆうに下回る。冷たい空には雲ひとつなく、昨日と打って変わってアマ・ダブラムの全容がはっきりと見てとれた。頂上直下の氷壁をどう登っていくのか、ここからでは見当もつかない。ほとんど垂直に見える氷の絶壁をはたして自分が登ることなど出来るのだろうか。その姿を見れば見るほど不安が心に染み出してくる。

それでも、ようやく移動のための移動が終わった。ベースキャンプで一日の休養日を挟み、本格的に登山が始まる。もちろん、いきなり頂上を目指すわけではない。ヒマラヤの登山が成功するか否かはいかに高度順応できるかが鍵になってくる。そのため、通常ベースキャンプと山頂の間にキャンプ1、キャンプ2、キャンプ3というふうにいくつもキャンプ地を設置し、それらを何度も往復しながらゆっくりと標高を上げていき、徐々に高所に体を慣らしていく。僕も今回の挑戦においては、ハイキャンプ(ベースキャンプとキャンプ1の間にあるポイント)を往復した後ベースキャンプに戻って休養、その後キャンプ1に上がって一泊、ベースキャンプに戻って休養。再度キャンプ1に上がって一泊、そしてキャンプ2へ登ってもう一泊。キャンプ2で順応を終えると再びベースキャンプに戻って休養し、風が弱く好天が3日ほど続く日を待ってアタックを仕掛ける、というプランを立てていた。

ハイキャンプまでは緩やかな丘を登っていく。特に危険なポイントもないトレッキングだが、標高は五〇〇〇メートルを超えるため、呼吸に気をつけながらゆっくりと歩いて、二時間ほどかけて到着した。ハイキャンプから今回登っていく南西稜が真っ直ぐアマ・ダブラムの頂上まで伸びている。雲を抱え、威風堂々とそびえるその山容は、今まで見てきたアマ・ダブラムとは全く違っていた。美しいだけでなく、恐ろしい。まるで僕がその頂に立つにたりうる人間なのか見定めているようにさえ感じる。一年前と違って、今度は頂を目指す、ということがそう思わせるのかもしれない。

翌日、ベースキャンプを出発し、同じ道を歩いてハイキャンプ、そして、さらに上部のキャンプ1へと登っていった。前日と同様に深い呼吸を意識しながら時間をかけてゆるい傾斜を歩いていく。ハイキャンプを超えると突如世界は変わる。ベースキャンプからは見えなかったが、その先はいくつもの氷河を抱え、さらにその奥には名前もないヒマラヤの山々が美しく静かにたたずんでいた。

そこからはひたすら南西稜を歩いていった。歩きやすかった道も次第に岩が散乱するガレ場に変わる。浮石に注意しながら歩いていくと、遥か上空の稜線上にテントがシミのようにポツリポツリと張り付いているのが見える。

ガレ場から先はロープが設置されていた。滑りやすい岩や傾斜の強い岩壁をロープを頼りに登っていく。標高は五五〇〇メートルに達し、激しく動くたびに呼吸は苦しくなる。でも焦ってはいけない。鼻から深く息を吸い、しっかり肺に酸素を届ける。この呼吸法は日本の低酸素室でトレーナーに教えてもらった方法で、練習していたことが早速役に立った。吸った酸素を肺、脳、足の先までゆっくりと送り、意識をしながら力強く一歩を踏み出す。足場を確かめながら時間をかけ、やっとのことで稜線上に辿り着くことができた。

テントに入って熱い紅茶を飲む。高所において水分補給は最も重要な作業のひとつだ。水不足は血をドロドロにし、高山病や凍傷の原因になる。この標高では一日に最低でも四リットルは水を飲む必要あった。ピッケルで氷を削りだして、お湯を沸かし、何杯もの紅茶をゆっくりと喉に流していく。体は疲れ果てていたが、温かい飲み物は心を癒してくれた。まだ余裕はある。高度順応は今のところ上手くいっているように思えた。

さらに夕暮れ時になると、辺りは神秘的な景色に包まれた。キャンプ1より下に雲が広がる中、ヒマラヤの山々がその雲海を突き抜けて、それが地平線の向こうまで続いている。標高六〇〇〇メートルを超える山が当たり前のように点在する、地球上でヒマラヤでしか見られない風景に息さえ忘れながらシャッターを切った。

日が沈むと一気に気温は下がりはじめる。夜中には、寒さと空気の薄さで何度も目が覚めた。シュラフの中に入れ忘れたお湯は完全に凍りついている。トイレのために外に出ると、不思議な夜が広がっていた。夜中にもかかわらず、影ができるほど世界は明るく、満月がアマ・ダブラムやヒマラヤの山々だけを煌々と照らしていた。まるで山たちだけが存在する世界に僕ひとりが迷い込んでしまったようだ。そんな不思議な感覚に寒さも時間も忘れていつまでもその世界に浸っていた。
(中編に続く)

著者プロフィール

1988年、和歌山県生まれ。ネイチャーフォトグラファー。京都外国語大学を卒業後、24歳の時に世界一周の旅に出かけ、1年半かけて45カ国を回る。帰国後は株式会社アマナに入社。2016年よりフリーランスとなり、想像もできない風景を多くの人に届けるために世界中の極地、僻地を旅しながら撮影を行う。近年はヒマラヤの8000m峰から水中、南極まで活動範囲を広めており、2021年にはエベレスト(8848m)を登頂した。

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