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「殺人画家」カラヴァッジョの真意とは!? 西洋美術史上最大の謎と新たな解釈

カラヴァッジョ研究の第一人者、美術史家、神戸大学教授・宮下規久朗さんによる美術をめぐる最新エッセイ集『名画の生まれるとき――美術の力Ⅱ』(光文社新書)が刊行されました。本書は、「名画の中の名画」「美術鑑賞と美術館」「描かれたモチーフ」「日本美術の再評価」「信仰と政治」「死と鎮魂」の6つのテーマで構成されています。長年、美術史という学問に携わってきた宮下さんが、具体的な作品や作家に密着して語った55話が収録されています。刊行を機に、本書の一部を公開いたします。まずは、第一章「名画の中の名画」から一話をお届けします。

美術史上の名画に残された謎

美術史学という学問は、古今東西の美術作品から意味を読み取り、それを歴史に位置づけるものである。日本では、美術といえば、感性や好き嫌いでながめるものだと思われがちだが、そうではなく、美術は文字と同じく知性を動員して見て考えるべきものである。

西洋では古来、美術は文化の中心とみなされてきた。そのため多くの国では、日本とちがって、美術をどう見るかという美術史が義務教育に組み込まれているのだ。

私はイタリアのバロック美術を専門としており、主にその先駆者の画家カラヴァッジョを研究してきた。この画家が1600年にローマで発表したデビュー作が《聖マタイの召命》(図1)で、劇的な明暗効果や現実的な描写によって従来の宗教画を刷新し、バロック美術の幕開けを告げた。

1-1カラヴァッジョ《聖マタイの召命》1600年 ローマ、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂

(図1)カラヴァッジョ《聖マタイの召命》1600年 ローマ、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂

しかし、この美術史上の名画にはまだわからないことがある。肝心の主人公の聖マタイがどこにいるかで意見が分かれているのだ。これを「マタイ問題」という。2020年、私はこの問題について一冊の新書(『一枚の絵で学ぶ美術史 カラヴァッジョ《聖マタイの召命》』ちくまプリマー新書)を書いた。

ある日、キリストは収税所に入って行くと、そこで働いていた徴税人レビに、「私についてきなさい」と言った。レビはすべてを捨てて立ち上がってキリストに従い、後に福音書を執筆する使徒マタイとなる。ユダヤにおいて、徴税人というのは罪人と同義であり、新約聖書では何度も否定的な意味で言及されている。

この絵では、暗い部屋に同時代の衣装をつけた男たちが座り、画面右から入ってきたキリストとペテロを見つめている。キリストがいなければ、場末の賭場か居酒屋を舞台にした大きな風俗画にしか見えない。

召された主人公のマタイはどこにいるのだろうか。キリストのよびかけに対して顔を上げ、自らを指差すような真ん中の髭の男がながらくマタイであると思われてきた。しかし、よく観察すると、この男は自分ではなく、隣にいる若者を指しているように見える(図2)。

1-2 カラヴァッジョ《聖マタイの召命》部分

(図2)カラヴァッジョ《聖マタイの召命》(部分)

その隣、画面左端でうつむく若者こそがマタイではないかという意見が1980年代から出始め、主にドイツと英語圏で論争になった。

イタリアではいまだに真ん中の髭の男がマタイであるとする認識が一般的だが、私はあらゆる理由から考えて、左端のうつむく男こそがマタイであると考えている。その詳細は省くが、その身振りや姿勢から、髭の男は商人で、左手で税金を支払ったところであり、若者はそこから受け取った金を見つめる徴税人であると考えられるのだ。

徴税人という罪人が、キリストによびかけられて突然回心するというこの主題においては、帽子を被った身なりのよい髭の男よりも、血走った目で金銭を凝視する若者が主人公であるほうがより劇的となる。実際に絵のある礼拝堂の入口に立ってこの絵を見上げると、左端の若者が非常に大きく見え、画面の主人公であることが納得できる。

カトリックとプロテスタントとの「自由意志論争」

この問題は、当時のカトリックとプロテスタントとの「自由意志論争」と無関係ではなかった。プロテスタントは、特定の決められた人のみが救われるという「予定説」を唱え、カトリックは、誰もがその意志と行動によって救われるという「自由意志」を重視した。そもそも、絵の設置されたサン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂はローマのフランス人のための教会であり、作品の背景には、少し前にフランス王アンリ四世が新教徒からカトリックに回心したという事件があり、マタイはアンリ四世を示唆するという解釈もあった。

「召命」という単語は、イタリア語でヴォカツィオーネ 、英語でコーリング、ドイツ語でベルーフというが、いずれも神による召命や呼びかけだけでなく、職業や仕事という意味をもつ。その背景には、人間の仕事とは、自分で選んで従事するのでなく、神から与えられた使命であるという考えがある。

マックス・ウェーバーの古典的名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によれば、近代の資本主義の精神を生み出すことになるもっとも重要な概念は、この天職という考え方にあった。与えられた仕事にひたすら励むことは神の栄光を表すことであり、各自の職業こそが神の命じたものなのだ。

収税所に入ってきたキリストは、これから救う者を指さしている。そのとき、特定の人物を指さす髭の男は、「この男ですか?」と救われる者を指定し、限定しているようだが、左端の若者はそうではない。この若者は、今はうつむいて光を浴びていないが、キリストの声を聞いて立ち上がれば、光は彼の全身に当たり、救いの道へと導かれるであろう。登場人物の誰もが救われる可能性があるこちらのほうが、カトリック的であって当時のローマの教会によりふさわしいと考えられるのだ。

「私が来たのは、正しい人を招くためでなく、罪人を招くためである」(マタイ九:十三)と言うキリストは、キリストが入ってきたことにも気づかず、お金に夢中になっているこの若者を招いているのであり、やがて若者はお金を投げ打ってキリストとともに出て行くのだろう。

科学調査に基づく新解釈

こうしたマタイ問題は近年になって新たな局面を迎えた。2009年、この作品の科学調査が行われたところ、当初はキリストが単独であり、その姿が異なっていたことがわかった。キリストは今よりも決然と立ちはだかり、髭の男よりも左端の若者の方を指しているように見えるのだ(図3)。

1-3カラヴァッジョ《聖マタイの召命》X写真部分

(図3)カラヴァッジョ《聖マタイの召命》X写真部分

それを、どういうわけかカラヴァッジョは、キリストが力なく腕を伸ばす現状のポーズに変更し、その手前に重なるように使徒のペテロを描き加えた。それによって、画家自身が、あえてマタイを特定することを避けたということさえ考えうるのである。

カラヴァッジョは、一見すると真ん中の髭の男がマタイだと思わせ、注意深く観察すればこの男の手の向きから隣の男を指しているとわかるように、二段階の観察を前提としたという可能性も唱えられた。こうして最近、複数の学者が、マタイは当初から曖昧であって、見る人に委ねられているという可能性を提唱し、私もそう考えるにいたった。

つまり、この絵を見る者は誰にでもマタイを認めてもよいのだ。しかも、そのマタイに自分を重ね合わせて、神の導きを受けているような気持ちになってもよいだろう。誰しもが、この絵のマタイのように、人生で召命を受け、天職を見つけるのではなかろうか。

一見、街の盛り場のような日常的な設定で普通の男が召されているこの絵は、現代の私たちをも覚醒させるような気分を喚起する、開かれた絵画であったといえよう。

このように、歴史上名高い作品でも、いろいろな見方があり、名画であればあるほど次々に新たな解釈が登場する。美術史学とは、文字資料や他の作品との関連によってそれを考える学問であり、文字を中心とする人文学の中でも、イメージや視覚資料を駆使する点でユニークであり、可能性と魅力が尽きないのだ。

『名画の生まれるとき』目次

第一章 名画の中の名画
第二章 美術鑑賞と美術館
第三章 描かれたモチーフ
第四章 日本美術の再評価
第五章 信仰と政治
第六章 死と鎮魂

著者プロフィール

宮下規久朗(みやした きくろう)
1963年愛知県名古屋市生まれ。美術史家、神戸大学大学院人文学研究科教授。東京大学文学部美術史学科卒業、同大学院修了。『カラヴァッジョ──聖性とヴィジョン』(名古屋大学出版会)でサントリー学芸賞などを受賞。他の著書に、『食べる西洋美術史』『ウォーホルの芸術』『美術の力』(以上、光文社新書)、『刺青とヌードの美術史』(NHKブックス)、『モチーフで読む美術史』(ちくま文庫)、『闇の美術史』『聖と俗』(以上、岩波書店)、『そのとき、西洋では』(小学館)、『聖母の美術全史』(ちくま新書)など多数。

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