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フランスはパリだけじゃない! オリンピック前に読んでおきたい話|池上英洋

フランスは、ワインや洗練された料理で知られる美食の国、高級ブランドに代表されるファッションの国、52の世界遺産をもつ歴史の国として知られ、世界屈指の観光大国でもあります。特に首都のパリはヴェルサイユ宮殿やエッフェル塔などで人気ですが、フランスの魅力は豊かな個性をもつそれぞれの街にあります。美術史家の池上英洋さんはこのたび『フランス 26の街の物語』を上梓しました。人、芸術、歴史、世界遺産の観点から厳選した26の街を訪ね歩き、フランスの重層性と多面性をこれまでにない視点で綴った一冊です。刊行を機に序文を公開いたします。

フランスを代表する華麗なシャトー(城館)

パリから北に電車で三〇分ほど行ったところに、シャンティイという可愛らしい街がある。パリ都市圏を指すイル=ド=フランスのすぐ外側に位置するが、あたりをうっそうとした森に囲まれ、本当にこの街に一万人も住んでいるのかと首を傾げたくなるほどだ。

駅を出て、林の中にまっすぐのびる並木道をしばらく歩くと、左手に競馬場が見えてくる。一八三四年に近代フランスで最初のレースが開催された場所であり、近年でもロンシャン競馬場が改修中には凱旋門賞が開かれる。その競馬場の脇に建つ、宮殿かとまがうばかりの大厩舎を横目で見ながら、シャンティイ城の門へと進む。水辺にたたずむ、フランスを代表する華麗なシャトー(城館)のひとつである。

シャンティティ競馬場の大厩舎
シャンティティ城のすぐ隣にある大厩舎は1740年に完成したもので、
240頭の馬を収容できた。
建物の一角は現在、馬の博物館になっている。
シャンティティ城
1358年に建てられ始め、1882年に現在の姿になった。
広大な庭園には、牧歌的な農園を模したゾーンもある。

コンデ公が建てさせたこのルネサンス様式の城館には、公の一家が集めた絵画や調度品のコレクションが並ぶ。筆者のように美術史を学ぶ者にとっては、世界で最も美しい装飾写本と言われる『ジャン・ド・ベリー公のいとも豪華なるとうしょ』の所蔵先としてよく知られている。保存上の理由で残念ながらレプリカしか観られないが、古めかしい書物が壁一面を埋める図書室は、そこにいるだけで観る者をこうこつとさせる。ラファエッロやプッサンが並ぶ良質な絵画コレクションを眺め、理路整然とデザインされた幾何学式庭園を歩きまわればお腹もすいてくる。

シャンティティ城の図書室
中性の貴重な写本やルネサンス期の豪華な装飾写本、
初期印刷本(インキュナプラ)など約1万3000冊を所蔵する。

これほど美味しいクリームを
口にしたことはありません

そこで、何かつまもうと城館の一角にあるカフェに入る。ここで頼むものはもう決まっている。クレーム・シャンティイを載せたワッフルだ。日本でもかなり認知されるようになったこの甘みのあるホイップ・クリームは、その名が示すようにシャンティイが発祥地とされる。実際には「雪のミルク」と呼ばれるほぼ同じものが、一六世紀なかばのイングランドやイタリアですでに言及されている。ただ一八世紀のシャンティイでは名物の品となっていたようで、この地のコテージで昼食をとったオーベルキルヒュ男爵夫人が次のように書いている。

今まで、これほど美味しいクリームを口にしたことはありません。魅力的で食欲をそそられる、とても凝った作りでした。ある皿では生野菜と干し果実と一緒にムースで包まれ、四隅には鳥の巣と花があしらわれていて、目を楽しませてくれました。

オーベルキルヒュ男爵夫人による一七八九年の手記(筆者訳)
シャンティティ城のカフェテリア
左奥に大きな厨房がある。
実際に使用されていた食器類が壁に展示されている。
クレーム・シャンティティ添えワッフル
シャンティティ城のカフェテリアの名物。
紙ナプキンとともに手渡される素っ気なさも良い。

このカフェは奥にだだっぴろい厨房が備えられ、かつてこの城館で暮らした公の家族や使用人たちの数の多さを物語っている。そしてここの料理人だったフランソワ・ヴァテルは、西洋の食文化の歴史にその名を刻んでいる。

フランス料理が世界に名を轟かす理由

一六三一年に生まれた彼は料理人の道を志し、太陽王ルイ一四世時代のフランス各地で研鑽を積んだ。当時の料理人は誰に仕えるかで待遇や地位が決まるため、彼もさまざまな領主のもとで働き、時には主君の失脚のあおりを食って不遇をかこったこともある。

そうして一六六三年、三二歳でコンデ公の「食の総監」に就く。ヴェルサイユの王宮と並んで、およそ当時のフランス料理人が望むことのできた最上のポストである。彼がどのような料理をサーヴしたかはかなり細かくわかっており、そのなかにクリームを使った料理があるため、クレーム・シャンティイも長く彼の創作と考えられてきた。実際にはヴァテルのものはアイスクリームに近いため、一種の伝説の域を出ないが、そのように思われたほど彼が独自に開発した品が多いのもまた確かである。ある時は国王とその廷臣たちを含む約三〇〇〇人もの大晩餐会を仕切ったことも記録されており、当時の彼のポストが高いマネージメント能力を必要としたことがわかる。

シャンティティ城の「鹿のギャラリー」
賓客接待用の食堂で、壁には狩猟を主題とするタペストリーが飾られている。
テーブルの上には、1758年に供されたディナーの食器セットメニュー表(どちらも当時のもの)が展示されている。

しかし彼を成功に導いた完璧主義が、徐々に彼の精神をむしばんでいった。ある会食では予定より七五人も多い客がやって来たせいで食材が足りず、気にんだ彼はそれから一二日間も眠ることができなかった。

そして悲劇は起きた。一六七一年四月二四日、注文していた魚が不漁のためかなかなか届かず、ついに食事を供すべき時間となった時、彼は壁に向かって駆け出し、飾られていた剣に自らの胸を三度叩き付けた。驚愕する給仕たちの前で彼が息絶えた時、扉の向こうには魚が届いていた。

鬼気迫るほどの職人気質を見せつけられるようなエピソードだが、フランス料理が世界に冠たる料理となったのは、ヴァテルに限らず、それほどまでに料理に情熱と心血を注いできた人々のおかげであることに疑いはない。食文化ひとつとっても、ことは料理だけでなく、ワインや食器などフランスが主導的な地位にある分野は多い。同様のことは、美術や哲学、服飾など実に多くの分野にも見ることができる。それらは長く複雑な歴史を経て、さまざまな都市や地域で育まれ、多くの人々によって形づくられてきた。そしてそれらは、クレーム・シャンティイやボルドー・ワインのように、遠く離れた現代の日本に生きる私たちの身の回りにもあふれている。

本書では、フランスの街をひとつずつ採りあげながら、その街にまつわる人や歴史の物語を見ていく。それによって私たちも、この豊かな国がもつ重要性と多面性を、わずかでも理解できるのではないかと期待しながら。

*写真はすべて著者提供

目次

【序にかえて】
王の料理人 ― Chantilly(シャンティイ

【人の物語】
レオナルド最期の日々 ― Amboise(アンボワーズ
奇跡の泉 ― Lourdes(ルルド
オルレアンの少女 ― Orléans(オルレアン
青髭の城 ― Tiffauges(ティフォージュ
征服王の近親結婚 ― Caen(カン
夢破れた画家 ― Arles(アルル

【芸術の物語】
悩める画家のふたつの連作 ― Giverny & Rouen(ジヴェルニーとルーアン)   
洞窟壁画と黒い聖母
― Lascaux & Rocamadour(ラスコーロカマドゥール
「新しき芸術」の都 ― Nancy(ナンシー
ある日本人画家の遺作 ― Reims(ランス
映画の誕生 ― Lyon(リヨン
現代アートで甦る街 ― Nantes(ナント

【歴史の断片】
黒い死に覆われた街 ― Marseille(マルセイユ
いまだ謎の巨石群 ― Carnac(カルナック
青色の世紀 ― Toulouse(トゥールーズ
繰り返された脱出劇 ― Dunkerque(ダンケルク
食通の都の歴史 ― Dijon(ディジョン
大分裂で踊ろう ― Avignon(アヴィニョン

【世界遺産を歩く】
天使が舞い降りた岩山 ― Mont Saint Michel(モン・サン・ミシェル)   
聖域の回廊 ― Moissac(モワサック
月の港のワイン ― Bordeaux(ボルドー
異端の里 ― Carcassonne & Albi(カルカッソンヌとアルビ
殉教の目撃者 ― Nîmes(ニーム
最後の授業 ― Strasbourg(ストラスブール

【後記にかえて】
大きなものと小さなもの ― Chartres(シャルトル

著者プロフィール

池上英洋(いけがみひでひろ)
美術史家。東京造形大学教授。1967年広島県生まれ。東京藝術大学卒業・同大学院修士課程修了。専門はイタリアを中心とした西洋美術史・文化史。著書に、『レオナルド・ダ・ヴィンチ 生涯と芸術のすべて』(第4回フォスコ・マライーニ賞)『西洋美術史入門』『死と復活』(いずれも筑摩書房)、『イタリア 24の都市の物語』『美しきイタリア 22の物語』(いずれも光文社)、『神のごときミケランジェロ』(新潮社)、『「失われた名画」の展覧会』(大和書房)、『錬金術の歴史』『イタリア・ルネサンス』(いずれも創元社)など。日本文藝家協会会員、美術評論家連盟会員。

池上さんの主な既刊本はこちら


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