フランスはパリだけじゃない! オリンピック前に読んでおきたい話|池上英洋
フランスを代表する華麗なシャトー(城館)
パリから北に電車で三〇分ほど行ったところに、シャンティイという可愛らしい街がある。パリ都市圏を指すイル=ド=フランスのすぐ外側に位置するが、あたりをうっそうとした森に囲まれ、本当にこの街に一万人も住んでいるのかと首を傾げたくなるほどだ。
駅を出て、林の中にまっすぐのびる並木道をしばらく歩くと、左手に競馬場が見えてくる。一八三四年に近代フランスで最初のレースが開催された場所であり、近年でもロンシャン競馬場が改修中には凱旋門賞が開かれる。その競馬場の脇に建つ、宮殿かと見紛うばかりの大厩舎を横目で見ながら、シャンティイ城の門へと進む。水辺にたたずむ、フランスを代表する華麗なシャトー(城館)のひとつである。
コンデ公が建てさせたこのルネサンス様式の城館には、公の一家が集めた絵画や調度品のコレクションが並ぶ。筆者のように美術史を学ぶ者にとっては、世界で最も美しい装飾写本と言われる『ジャン・ド・ベリー公のいとも豪華なる時禱書』の所蔵先としてよく知られている。保存上の理由で残念ながらレプリカしか観られないが、古めかしい書物が壁一面を埋める図書室は、そこにいるだけで観る者を恍惚とさせる。ラファエッロやプッサンが並ぶ良質な絵画コレクションを眺め、理路整然とデザインされた幾何学式庭園を歩きまわればお腹もすいてくる。
これほど美味しいクリームを
口にしたことはありません
そこで、何かつまもうと城館の一角にあるカフェに入る。ここで頼むものはもう決まっている。クレーム・シャンティイを載せたワッフルだ。日本でもかなり認知されるようになったこの甘みのあるホイップ・クリームは、その名が示すようにシャンティイが発祥地とされる。実際には「雪のミルク」と呼ばれるほぼ同じものが、一六世紀なかばのイングランドやイタリアですでに言及されている。ただ一八世紀のシャンティイでは名物の品となっていたようで、この地のコテージで昼食をとったオーベルキルヒュ男爵夫人が次のように書いている。
このカフェは奥にだだっぴろい厨房が備えられ、かつてこの城館で暮らした公の家族や使用人たちの数の多さを物語っている。そしてここの料理人だったフランソワ・ヴァテルは、西洋の食文化の歴史にその名を刻んでいる。
フランス料理が世界に名を轟かす理由
一六三一年に生まれた彼は料理人の道を志し、太陽王ルイ一四世時代のフランス各地で研鑽を積んだ。当時の料理人は誰に仕えるかで待遇や地位が決まるため、彼もさまざまな領主のもとで働き、時には主君の失脚のあおりを食って不遇をかこったこともある。
そうして一六六三年、三二歳でコンデ公の「食の総監」に就く。ヴェルサイユの王宮と並んで、およそ当時のフランス料理人が望むことのできた最上のポストである。彼がどのような料理をサーヴしたかはかなり細かくわかっており、そのなかにクリームを使った料理があるため、クレーム・シャンティイも長く彼の創作と考えられてきた。実際にはヴァテルのものはアイスクリームに近いため、一種の伝説の域を出ないが、そのように思われたほど彼が独自に開発した品が多いのもまた確かである。ある時は国王とその廷臣たちを含む約三〇〇〇人もの大晩餐会を仕切ったことも記録されており、当時の彼のポストが高いマネージメント能力を必要としたことがわかる。
しかし彼を成功に導いた完璧主義が、徐々に彼の精神をむしばんでいった。ある会食では予定より七五人も多い客がやって来たせいで食材が足りず、気に病んだ彼はそれから一二日間も眠ることができなかった。
そして悲劇は起きた。一六七一年四月二四日、注文していた魚が不漁のためかなかなか届かず、ついに食事を供すべき時間となった時、彼は壁に向かって駆け出し、飾られていた剣に自らの胸を三度叩き付けた。驚愕する給仕たちの前で彼が息絶えた時、扉の向こうには魚が届いていた。
鬼気迫るほどの職人気質を見せつけられるようなエピソードだが、フランス料理が世界に冠たる料理となったのは、ヴァテルに限らず、それほどまでに料理に情熱と心血を注いできた人々のおかげであることに疑いはない。食文化ひとつとっても、ことは料理だけでなく、ワインや食器などフランスが主導的な地位にある分野は多い。同様のことは、美術や哲学、服飾など実に多くの分野にも見ることができる。それらは長く複雑な歴史を経て、さまざまな都市や地域で育まれ、多くの人々によって形づくられてきた。そしてそれらは、クレーム・シャンティイやボルドー・ワインのように、遠く離れた現代の日本に生きる私たちの身の回りにもあふれている。
本書では、フランスの街をひとつずつ採りあげながら、その街にまつわる人や歴史の物語を見ていく。それによって私たちも、この豊かな国がもつ重要性と多面性を、わずかでも理解できるのではないかと期待しながら。