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08_「教養」はポストフォーディズムの補完物となる運命か

成人教育の危機から「生涯学習」へ

 前回は、ウィリアムズが上記のように成人教育を実践し、それについて書いていた時代とその直後(1950年代から60年代)に、そのような理想としての成人教育はすでに危機を迎えていたと述べた。

 その危機にはさまざまな様相があるが、ここで重要な変化は、それが労働者階級のためのものではなくなり、分かりやすく言えば現代の「カルチャースクール」風の、中流階級の余暇の「教養」のようなものへと変化していったことである。

 少々勇み足に言えば、おそらくこの辺り出てきた「教養(culture)」に、現代の私たちが考えるような意味での「教養」の始まりを見ることができるだろう。つまり、例えばビジネス書がある種の「教養」を求め、また教養本として消費されるような意味における教養である。これについては後の節で詳しく検討する。

 それはともかく、1930年代にはWEA(労働者教育協会)受講者のうち肉体労働者が占める割合は30%であったのが、1950年代終わりには15%へと半減していた。ウィリアムズ自身、後のインタビューで「ほかの全ての福祉サーヴィスと同様に、WEAは余暇と教育の一形態として中産階級に大いに利用され始めた」と述懐している(Politics and Letters)。そして、その同じインタビューで、ウィリアムズは次のように証言している。

時が経つにつれて、ついにはWEAは無頓着に「継続教育(Further Education)」と呼ばれるものへと成功裏に転向させられていきました。労働組合教育の専門化された一定の分野を除いては、成人教育にあった他の力点というものはすべて逸らされていきました。(Politics and Letters)

 ここで起きていたより深い変化は何だったのだろうか。ここでウィリアムズが指摘している名称の変化が、じつはことのほか重要である。この「成人教育」は「継続教育」と呼ばれるようになり、この後さらに「生涯教育/学習」(lifelong education/learning)「社会人教育(continuing education)」と呼び名を変えていく。この呼称の変更の歴史的な意味については、マイケル・D・スティーヴンス『イギリス成人教育の展開』の訳者、渡邊洋子が序文で簡便にまとめているので参照したい。

 本書のタイトルとなっている「成人教育(adult education)」は、イギリスの成人教育の伝統を象徴する用語で、支配階級(中産階級)に一手に握られていた大学教育の、労働者階級への開放を求めるなかで追求された、非職業的教養主義的成人教育(non-vocational liberal adult education)を意味する言葉として、象徴的に用いられてきました。労働者にとって職業教育は、雇用主の役に立ちこそすれ、人間解放にはつながらないとの認識からか、成人教育よりは一段低く見なされてきたのです。
 他方、広義には義務教育後の教育全般を指し(一九四四年の教育法で規定)、狭義には一六-一九歳を対象とする職業教育を意味する、「継続教育(further education)」という用語が一般に普及し、成人教育と並んで広く用いられてきました。
 ユネスコが「生涯教育」を提起〔1965年〕した後は、国際的文脈において「生涯教育」を指す場合に‘lifelong education’が普及したものの、八〇年代には、この理念に対応する教育のあり方を示す国内の用語として新たに、‘continuing education’が登場しました。‘continuing education’は、継続教育と同様、広義と狭義で用いられます。広義には、従来の非職業的な成人教育と職業教育を包括する幅広い概念として、また……狭義には主に職業教育を意味する概念として、です。後者の意味合いから、‘adult and continuing education’と並べて用いられることも、よく見られるようになりました。(スティーヴンス pp. 7-8)

 ここで注目したいのは、第三段落目でユネスコが登場し、「生涯教育(lifelong education)」およびその国内での対応物としてcontinuing education(ここではfurther educationとの訳し分けのために「社会人教育」と訳す)が登場したモメントである。この瞬間には、何が起きていたのか。

 私の仮説は、この「生涯学習」や「生涯学習社会」という理念がユネスコによってグローバルに喧伝されていることと、本連載第4回で解説した「ポストフォーディズム社会」の出現とのあいだには深い関係があるのではないかというものだ。

 ポストフォーディズムが、フォーディズムにおける製造業中心の労働と産業労働者階級を解体し、サーヴィス業、情報産業などを中心とする「新たな労働者階級」を生み出しているとするなら、そのような生産と労働の体制下で生まれた「生涯学習」の理念は、新たな意味での「功利主義」の伝統を生み出しているとは言えないか。つまり、生涯学習はポストフォーディズム的な「職能」の訓練を与える教育になったのではないか。

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 そのような疑念は、例えば1999年ケルンサミットのG8首脳会合が合意した「ケルン憲章──生涯学習の目的と希望」を一瞥することで確信に変わるかもしれない。

 ここではその前文だけで十分だろう。

 すべての国が直面する課題は、どのようにして、学習する社会となり、来世紀に必要とされる知識、技能、資格を市民が身につけることを確保するかである。経済や社会はますます知識に基づくものとなっている。教育と技能は、経済的成功、社会における責任、社会的一体感を実現する上で不可欠である。
 来世紀は柔軟性と変化の世紀と定義されるであろう。すなわち、流動性への要請がかつてないほどに高まるだろう。今日、パスポートとチケットにより人々は世界中どこへでも旅することができる。将来には、流動性へのパスポートは、教育と生涯学習となるであろう。この流動性のためのパスポートは、すべての人々に提供されなければならない。

 一段落目は、経済や社会が知識に基づくものとなっており、現代がポストフォーディズム的な社会となっていくであろうことを宣言する。そして教育は(「社会的一体感」が何を意味するかはともかく)「経済的成功」のための技能と結びつけられる。また、柔軟性、流動性というこれまたポストフォーディズムのキーワードが列挙され、生涯学習がそのような社会のための「パスポート」になるだろうと宣言するのだ。

 どうやら、「成人教育」が「生涯学習」へと交代させられた瞬間に、前々回まで見た教育と有用性をめぐる新たな体制が立ち上げられたのかもしれない。実のところ、レイモンド・ウィリアムズは1961年の『長い革命』の時点でそのことを鋭敏に嗅ぎ取っているように見える。同書の「教育とイギリス社会」と題された章で、ウィリアムズは次のように述べて、私がここまでポストフォーディズム社会と呼んでいるものの出現を示唆する。

われわれ皆が今日気づいているのは、拡張した諸社会サーヴィスの結果としての(教職を含む)知的専門職の、又、大衆的・商業的大規模組織の発展の結果としての行政の、そして高度に発達した生産技術の結果としての産業の、各方面における発展が、旧地主階級や旧ブルジョワ階級とは性格の全く異なる、新しいそして拡張している階層を創り出しているということである。(『長い革命』 p.133)

 ウィリアムズはこのような新しい階級は、新たな中流階級であるというよりは、「雇用されるためにその労働力を提供する……という点で、旧来の労働者階級と多大の共通点を持っている」とする。つまり彼らは旧来的な、工業社会の中流というよりは新たな「ポストフォーディズム労働者」なのである。そして、ウィリアムズはその教育について、「労働者階級が今なお大部分「職場で」訓練されているのに、新階層の予備訓練は教育制度の中で遂行されている」(p. 133)と述べる。

 この所見は、本連載の全体で述べてきたことについて非常に大きな示唆を与えてくれるのではないか。新自由主義的な論理に従って進められているように見える大学入試改革、そのより広い文脈としての教養教育の学校教育からの放逐、それと矛盾するようにも見える「主体性評価」という形での「人間」の評価の進展……。これらは、予想以上に早い段階から萌芽していたポストフォーディズム社会の「労働者」たちの職能を、「職場で(on the job)」ではなく学校教育で育てるべしという圧力のもとに生じてきたのではないか。そしてそれは学教教育だけではなく、生涯教育という「終わりなき自己革新」のイデオロギーとして社会に組み込まれている。

 前々回に「二つの文化」論争の広い背景として見た、社会と教育の大衆化およびメリトクラシー社会の進展と、学校教育がポストフォーディズム労働者の職能訓練の場となっていくこととの関係は、どちらが鶏でどちらが卵かは決し難い関係ではある。だが、私たちの現在地がそのような展開の果てにあることは確かかもしれない。

現代の「教養」と感情労働

 さて、ここまでの議論をまとめておこう。少々議論が込み入ってきたかもしれないので、単純化の恐れはあるものの、図式化をしておきたい。

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図1 フォーディズム社会とポストフォーディズム社会における産業・教育・階級

 明らかになってきたのは、ウィリアムズの観測に従うなら1960年代くらいに生じた、産業と階級、そして教育をめぐる変化の重要性である。もちろん、社会や文化の変化というのはこの図で示されるほどに急速なものではない。とりわけ文化はゆっくりとしか変化しない。また私のここまでの議論はイギリスを基礎にしている。従って、本連載で問題にしてきた日本の状況にそれがそのまま当てはまることもない。イギリスの場合は60年代に生じた変化は福祉国家と福祉資本主義の到来による階級社会の変化という側面が重要であった。日本でも同じようなことが高度成長期に起きたと言えるのは確かであるが、当然に日本に元々あった階級社会のあり方はイギリスとは違うのだから、「日本的福祉国家」がどのようなものだったのかの検討は当然に必要となるはずだ。

 だがここでは、大きな歴史の流れをつかむことを優先していこう。前回概説したイギリス成人教育の伝統における、職業教育の伝統と非職業教育の伝統の背景は、産業革命以降の工業社会と、その中で形成された肉体労働者という意味での労働者階級の存在であった。これを、表現を変えてフォーディズム社会と呼ぶことも可能だろう。

 このフォーディズム社会における教育と文化の見取り図は、一方に功利主義と職業教育があったとするならば、それに対するロマン主義者たちは資本主義や功利主義の害悪を修正して有機体的な秩序をもたらすべき「文化」を構想した、というものである。だが、労働者階級の「成人教育」は中流階級的なロマン主義とはまた違う、非資本主義的・非職業的な教育を志向した。

 その後に訪れて、基本的に現在まで続いている社会と産業構造は、脱工業社会とも呼べるだろうし、情報化社会、ポストフォーディズム社会とも呼べるだろう。もちろん私がこれらの呼び名をあえて粗雑に等号で結んでいることは注意されたい。

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 この二つの時代における人間の「能力」観の変化とそれにともなう教育の変化を考えるためには「フォーディズム/ポストフォーディズム」という区分がもっとも適切であるように思われる。

 この区分については、本連載の第4回で論じた。そしてそこでは、現在支配的になりつつあるように見えるポストフォーディズム的な「能力」観と人文的な知との関係は「積み残した主題」だと述べた。本連載の残りで取り組みたいのは、まさにその関係の問題である。

 どうやらこのポストフォーディズム時代には、「継続教育」という名前を得た成人教育が、「新たな職業教育」としての生命を獲得した。それと同時に起きたのは、フォーディズム社会における工業労働者階級が解体し、「労働者階級としての中流階級」が再編されるということであった。

 そうすると、上記の図の中で空白として残されているように見えるのは、ポストフォーディズム時代における非職業教育(つまり現代における「教養」)ということになるのだが、ここに至ってこの図の枠組み自体をポストフォーディズムが切り崩していることに注意せねばならない。なぜなら、ポストフォーディズムの「能力」のもっとも重要なポイントは、職業的なもの、労働にかかわる能力とそれ以外の人間的能力の区分が切り崩されることだからだ。

 ここで、ポストフォーディズム時代における「能力」と呼んできたものが何なのかを改めて確認する必要があるだろう。これまた単純化の恐れはあるが、図式化しておこう。

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図2 フォーディズム社会とポストフォーディズム社会における「能力」

 単純化の恐れというのは、現代をポストフォーディズム社会とみなすことによって、そこに確実に存在している物質的生産を覆いかくしてしまうからである。そのような物質的生産は、第三世界にアウトソーシングされているだろう。だとすればポストフォーディズム的な非物質的生産労働に覆い尽くされてしまったように見えるのも、単に先進国の一部の視点からだけであろう。

 そのような部分的視点、もしくは「世界観」という意味での「イデオロギー」としてこの図は見る必要があるだろうけれども、それでもこの図式がある種の現実を捉えていることも否定できない。

 さて、私はポストフォーディズムが職業と非職業の能力の区分を(もしくは「オンとオフ」の区分を)切り崩すと述べた。その点を理解するには上記の図のうちの「コミュニケーション」と「感情労働」に注目するといいだろう。感情労働とは、社会学者のホックシールドが、旅客機のキャビン・アテンダントなどへのインタビューをもとにして研究書『管理される心』で提唱した概念である。ホックシールドが調査対象としたサービス業では、感情管理が労働のための資源となる。ある意味では分かりやすい。だが、ホックシールドはこれを単にサービス業だけではなく、現代の労働の一般的特徴として提示したと見ていいだろう。

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 山田陽子『働く人のための感情資本論』は、そのような一般化の様相をよく理解させてくれる。私は本節の最初の図で、ポストフォーディズム的な職業教育のひとつとして「自己啓発本的な「教養」」という項目を設けておいた。『働く人のための感情資本論』で紹介される話題の一つは、最近よく耳にする「ライフハック」である。これはある種のビジネス自己啓発の言説に属するものだ。

 ライフハックとは、元々はシリコンバレーのITエンジニアが、膨大な仕事をこなすために開発した仕事と時間の管理術だ。具体的にはさまざまな文房具をうまく活用することで自分の仕事を整理してこなしていく術だが、ライフハックについて興味深いポイントは大きく分けて二点である。

 ひとつは、ライフハックの言説においては「生産性を上げること」と「ストレスなく仕事をすること」が不可分のものとして実現されると想定されていることだ。この二つの関係は、どちらが鶏でどちらが卵だとは決し難い。仕事が進むからストレスがなくなり、ご機嫌だから仕事がよく進む。「デスマーチ」とも呼ばれるようなタスクをこなしていくことは、機械的な技術の問題とはされず、労働者自身の感情管理と不可分のものとして論じられる。

 もう一点は、そもそも労働管理・時間管理が雇用者の仕事ではなく労働者個人の仕事とされるという大前提である。これは、あらゆる労働がギグ・ワーク化している現状を表現しているだろう。ギグ・ワークにおいては、労働者は被雇用者ではなく個人事業主とみなされる。ライフハックはギグ・ワーク化する労働への対処方法でもあるのだ。

 そのような労働においては、自らの感情管理をうまく行うこと(つまり「機嫌良く」あること)が効率的な労働者となるための条件となる。それをうまくやっている労働者はおそらく「やりがい」を感じて充足した労働の人生を送っているということだろう。

 だが、ギグ・ワーク的な労働がひどい搾取のシステムであることは、ケン・ローチ監督の映画『家族を想うとき』(2019年公開)が表現してあまりある。ポストフォーディズムは「イデオロギー」だと述べたが、この映画に表現されているような搾取を覆いかくすことこそ、そのようなイデオロギーの作用なのだ。

 それはともかく、ポストフォーディズムが職業と非職業、労働と非労働の区分を切り崩すということの意味はそのようなものだ。現代のビジネス自己啓発的「教養」はそのような時代の波をうまく乗りこなすために提示されている。そして、今回まで述べた、19世紀から20世紀にかけて生じた「成人教育」の変質と、ポストフォーディズムな労働観の誕生は無関係ではない。

 さて、それでは先ほど示唆した、そのような労働と能力観と、人文学との関係はどう考えていくべきだろうか。その中で大学をはじめとする学校教育はどのような役割を果たすのだろうか。上記の図の「?」は何で埋めることができるだろうか。次回以降はそういった疑問への答えを探究していきたい。


参考文献
スティーヴンス、マイケル・D『イギリス成人教育の展開』渡邊洋子訳、明石書店、2000年。
ホックシールド、A・R『管理される心──感情が商品になるとき』石川准・室伏亜希訳、世界思想社、2000年。
山田陽子『働く人のための感情資本論──パワハラ・メンタルヘルス・ライフハックの社会学』青土社、2019年。
Sokal, Alan D., and Jean Bricmont. The Fashionable Nonsense: Postmodern Intellectuals’ Abuse of Science. Picador, 1998.〔『「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用』田崎晴明他訳、岩波書店、2000年。〕
Williams, Raymond. Politics and Letters: Interviews with New Left Review, revised ed. Verso, 2015. Kindle.



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