来日して気付いた日本とイタリアのコミュニケーションの決定的な違い|パントー・フランチェスコ
まえがき
本書は「遠慮」「建前」「気づかい」などをはじめとした、日本社会のコミュニケーションの特徴やその背景にある考え方について論じている。
こうやって言うと、偉そうに聞こえるかもしれない。まず、私は何者なのか、この本を書いたきっかけ、この本を通じて伝えたいメッセージを記したい。
筆者はイタリア生まれ、イタリア育ちのイタリア人。生まれてから18歳までをシチリア島で過ごした後、医学部に通うためローマへと移住した。そして、ずっと恋しく思っていた日本の文化に囲まれて精神科医として生きたいと願うようになった。突飛に聞こえるだろうが、筆者は日本のゲーム、アニメ、漫画などに子どものころから取りつかれていたのだ。このあたりの経緯は前著『アニメ療法』に詳細を記しているので、興味のある方はぜひ読んでほしい。
それと同時に、異文化での生活自体への興味や好奇心も持っていた。人間の心理に働きかける文化の役割を理解したい。自分が生まれ育ったイタリアと比較して、日本で生きる人の行動、考え方は違うのか。もし違いがあるとして、人間に必要な性質は根本的に同じなのか、違うのか。こういった問いに興味をそそられていた。
精神医学を学び始めた際に、「ひきこもり」という社会現象に触れた。「ひきこもり」という言葉はイタリア語に翻訳されず、日本語のままだった。翻訳した人たちは、この現象を「異物」と感じたから訳せなかったのか、つまりひきこもりは日本社会に限定された存在なのか? という疑問が浮かんできた。
そこから「文化依存症候群」(cultural bound syndrome)について学び始めた。文化依存症候群は環境や行動・慣習をきっかけとした、特定の文化にしか現れない症状を意味し、異文化との比較で判断される。ある行動を自明のものとしている社会はそれに対する自覚を持ちにくいが、異文化から見ると客観的に評価できることは多々ある。
とはいえ、文化依存症候群を「病い」と決めつけるのは短絡的だ。正確には「文化的な現象」とみなすのが正解だろう。特定の文化に特徴的な行動(この場合はひきこもり)をとる人の健康に害があるかどうかで、それが病的か否かを判断する。悪影響がない限りは、病的と決定すべきではない。精神疾患の診断と統計の世界的基準であるDSMにおいても、病的な感情や行動を判断する際には、それぞれの文化における平均的な個人の感じ方と比較し、そこから逸脱するもののみを病的と判断する。本書でも、日本に独特な慣習のように見えるさまざまなコミュニケーションのあり方を、単に文化的な現象というのではなく、「文化依存症候群」として定義したい。
どうして日本のコミュニケーションをテーマに本を書こうと思ったのか。筆者はイタリアやヨーロッパの国々においてこうしたコミュニケーションの様式に触れたことがほとんどなかったからだ。日本に来てから、気をつかわれすぎて人間関係がギクシャクしてしまったり、自分自身が建前で振る舞うようになって他者との距離が開いてしまうことなどがあった。こういった経験で得た「違和感」が、建前の心理的な意味を探究することへのモチベーションとなった。
また、本書では日本社会の特徴を見ていくが、「助けてほしい」「愛されたい」「認められたい」といった人間の感情は文化が違っても変わらない。私たちが人間関係に求めるものはある程度普遍的だという信念を持っている。だから、日本に生きる人が建前に依存しすぎることで心を病んでしまうのではないかと危惧している。特定の慣習が人間の普遍的な欲求を押し殺していることに気づいてほしい、そこから脱け出してほしいという願いもある。
筆者の生業は精神科医であり、精神医学や心理学、社会学などの知見を本書でも主なバックボーンとしている。特に負の体験やトラウマなどを処理して自分を再構成するプロセスに焦点を当てている。そのため、第1部では心の構造や人間のコミュニケーションに関する理論的なところをピックアップして伝えたい。このパートは第2部以降の主張を理解するうえでの土台になるだろう。なるべくコンパクトに整理したつもりだが、学術的な概念も多く含まれており、少し難しく見えるかもしれない。
日本社会に対する筆者の考えをすぐに知りたい人は、第2部から読んでいただいても構わない。ここでは日本社会に(ある程度)固有だと思われる気風について、その背景を含めて考察している。
そして第3部では日本社会で支配的なコミュニケーションのスタイルを可視化しようとした。また、その症状がどのように心と身体を蝕むのかを検討し、どうすれば緩和できるかについても考えた。
筆者はイタリアと日本の精神科医療に携わっているが、この本は科学的なエビデンスや厳密性に基づいた論文ではなく、科学的なエビデンスから発想や仮説を広げて、持論を展開するものだ。ある程度研究によって立証された知見が議論のベースになっているが、考察は筆者の観点に過ぎない。筆者自身の論文などをベースにした前著『アニメ療法』とは異なり、大胆な仮説や類推にも依拠している。研究知見がある情報についてはなるべくその旨を記述しているが、精緻な理論というよりは気軽なエッセイとして読んでいただけると嬉しい。
表紙イラストについて
表紙のイラストを描いてくださった先崎真琴さん。大好きなFGOのイラストレーターにオリジナルキャラクターを描いていただく機会が訪れるとは、夢にも思っていませんでした。
私がイメージしたイラストのコンセプトは、本音を表したキャラクターである「パク」と、建前を表したキャラクターである「ニラ」のストーリーです。本音の王子様のパクを虜にした魔女のニラは、本心を伝えさせないように能面と魔術でパクの言葉を奪おうとしています。このコンセプトに先崎さんがすばらしいイラストでこたえてくださいました。この美しいイラストが書店に並ぶのを見ることが楽しみです。
パントー・フランチェスコ 拝
Francesco Pantò
目次
まえがき
第1部 「心の痛み」の伝わり方
「痛み」を伝えるメカニズム
自分のエゴを受け入れる
「関連痛」と「体性痛」
「外傷コミュニカビリティ」の欠けた大人たち
自己言及と感情的知性
第2部 日本社会の精神を解剖する
「目標重視」の社会と「表現重視」の社会
自分自身のことをどう記述するか
タテ社会の自己感情
医者は短パンで出勤しない?
アイデンティティの研究──個人か社会か
パーソナルスペースに踏み込む「勇気」
迷惑ノイローゼ
社会的期待が人々をコントロールする
我慢するか「はみ出し者」の道しかないのか?
個人主義的な社会に目立つ「投影」現象
日本に特徴的な自己防衛規定は「隔離」「反動形成」
人に助けを求めづらいのはどんな人か
偉くなくても価値がある
「頑張る」という日本語の背後にある価値観
「辛抱」とは違う「我慢」の悪影響
若者の自殺はなぜ多いのか
同じ行為でも社会によって動機は異なる
文化的使命は諸刃の剣
幸福とは「開放系」ではなく「閉鎖系」である
仕事とプライベートは「まぜるな危険」?
日本はバーチャルな共産主義?
クラスターアイデンティティにうんざりする若者たち
「めんどくさい」はアパシーの宣言である
負の感情こそが人間関係の役に立つ
脆弱性を認められない私たち
スクールカーストの奇妙な昇進
哲学者の考える「本物の人生」
物件探しになった恋愛
社会を制御するための「勝ち組/負け組」
「負け組」でいられる勇気を
「非モテ」という呪い
感情労働と表層演技
第3部 コミュニケーションのかたちと中身を診る
心にも「風土病」は存在するか
本音と建前の矛盾を受け容れる日本社会
建前は「中空構造」の形態である
人間の「キャラ化」
キャラ文化の四つの特徴
キャラ文化が引き起こす解離性同一性障害
自分という存在の断片化・並列化
「対話」をするための条件
否定されることへの恐怖は「通過儀礼」
コミュニケーション戦略としての「正論」と「ノリ」
気疲れ社会
嫌われたくない、認められたい
体調不良の陰にある心の不調
敬語というコミュニケーション形式は束縛である
二人称か三人称か
ボディタッチの効用
自閉スペクトラム症とアイコンタクト
後天的な発達障害?
文化そのものに序列はない
より良いコミュニケーションのための五つのモットー
あとがき
参考文献
著者プロフィール
パントー・フランチェスコ
イタリア、シチリア島出身。ローマのサクロ・クオーレ・カトリック大学医学部卒業。ジェメッリ総合病院を経てイタリアの医師免許を得てから来日し、日本の医師免許を取得。筑波大学大学院博士号取得(医学)。慶應義塾大学病院の精神・神経科教室に入局し、現在は複数の医療機関にて精神科医として臨床している。著書に『アニメ療法』(光文社新書)、『イタリア人の僕が日本で精神科医になったわけ』(イースト・プレス)。今後は社会評論、アニメ療法に基づいた娯楽作品(アニメ、ゲーム、漫画など)の開発に注力する予定。
X(Twitter):@PantoFrancesco