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第12回 イメージが一変する! 加藤典洋による村上春樹の謎とき|三宅香帆

みんな自分を通して、物語を読んでいる

普段、小説について書評や批評のようなものを書いていると、「そもそも読むってどういうことなんだろう」とぼんやり考え込んでしまう時がある。

たとえばSNSやブログで同じ小説の感想を検索してみても、驚くほどに、人によって感想は異なる。同じものを読んでいても、受け取るものは人によって異なるのだ。

たとえばそれを面白い小説だったと感じる人もいれば、退屈な小説だったと感じる人もいる。あるいは主人公は陽気なキャラクターだと思う人もいれば、主人公は実は内気なキャラクターだと思う人もいるかもしれない。暗い結末で終わる話だと解釈する人もいれば、ハッピーエンドの話だと解釈する人もいる。本を読んだ感想なんてだいたい同じだろうと高を括っていると、実際の感想――それぞれ読者が見ている景色の差異に、驚いてしまうことは多い。読者は同じものを見ているようでいて、実は人それぞれ、まったく異なるものを見ているらしい。

そういうことを感じるとき、みんな自分というフィルターを通して、本を読んでいるんだな、と思う。

自分と比較して主人公が陽気であれば、感想は「なんだか陽気なキャラだなあ」と思うことになる。あるいは自分の想像と比較して、意外とハッピーエンドになったなと感じると、「これって明るいラストだよね」という感想を持つ。

みんな、他人の書いたものを読んでいるように見えて、それは同時に自分を読んでいるのだ。

――前置きが長くなったが、私は『村上春樹 イエローページ』という批評集を読むとき、同じことを強く思う。自分以外の人間が「読んだ痕跡」を辿る意味、というものを教えてくれる一冊なのである。

本書の作者は、明治学院大学や早稲田大学で文学研究を教えながら、自身も文芸評論家として活躍していた加藤典洋かとうのりひろ

『村上春樹 イエローページ』は、1~3巻まで文庫版で刊行されており、村上春樹の作品を時系列順に取り上げている。なかでも1巻は、デビュー作『風の歌を聴け』から『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に至るまでの4作品の解釈が収録されている。

本書が普通の文芸批評書と異なる点は、ここに書かれてある解釈が、明治学院大学の「加藤典洋ゼミで、ゼミ生と教授が一緒に討論した末に生まれた」ものであること。1~3巻まですべて、それぞれ彼がゼミ生とともに村上春樹作品について討論した内容がまとまった批評集となっている。つまりここに書かれてある解釈は、ひとりが生んだものではない。複数の人間が、それぞれの解釈を持ち合って、そのうえで生まれたものなのだ。

だからこそ村上春樹の小説に潜む、不思議で些細な謎を拾い集め、ひとつの大きな図を描くことができている。

『風の歌を聴け』の新解釈

たとえば、村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』。

この作品は29歳になった語り手が、8年前――1970年、彼が21歳だった頃――の夏の思い出について綴った小説である。

『風の歌を聴け』の冒頭には「この話は1970年の8月8日に始まり、18日後、つまり同じ年の8月26日に終る」と記載されている。普通に読めば、読者は19日間の出来事を回想する物語なんだなと理解するだろう。

しかし加藤は、「この小説の日数経過の表を作ってみると、話がどうにも『十九日間』におさまらない」と指摘する。

たしかに小説をよくよく丁寧に読んでみると、どう考えても3週間以上はかかっている物語だ。なぜなら毎週土曜日のラジオ番組が3回出てくるから。19日でおさまる話ではないはず。――作者はいったいなぜこんなミスをしたのだろうか? 

もちろんケアレスミスとして無視することもできる。しかしこれがワザと施した仕掛けだとしたら? その謎解きを考えてみると、新しい解釈が浮かび上がってくる。

加藤たちは、この小説が「小指のない女の子の生きている現実世界と、鼠のいるいわば異界(幽霊世界)の間を僕がゆききする、二つの世界をめぐる『ひと夏の物語』なのである」という解釈によって、謎解きをおこなう。……なぜそんな解釈が生まれ得るのか。ぜひ本書を読んで、読み手のプロによる解釈の快楽を味わってほしいところだ。

もちろん解釈そのものも面白いのだが、それ以上に私が加藤典洋の読みの最もすごいと感じるところは、村上春樹作品のイメージをがらりと一変させてしまうところだ。

たとえば『風の歌を聴け』は、一読しただけではぶっちゃけ「いけすかない小説」という印象しか浮かばない。というのもこの小説は、神戸の街が舞台で、ラジオやビールを楽しんでいる主人公が、女の子にモテて、気分が良くて何が悪い? と言い切る話……。神戸のお洒落な、なんだかよく分からない才能があるっぽい男の小説という印象を持ってしまうのも仕方のない展開ではないだろうか。

しかしそんな小説を、加藤典洋は「この小説の裏テーマは、実は『金持ちと貧乏』なのではないか」と言う。

「みんな同じさ。」という僕の言葉も、意味を絞れば金持ちも貧乏人もみんな同じ、という趣旨の言明にほかならない。あのディスク・ジョッキーの言葉に出てくる「貧しい家の灯り」、「大きな屋敷の灯り」も同じくこの文脈のうちにある。この小説は、いま考えると意外だが、金持ちと貧乏にずいぶんとこだわった、金持ちと貧乏の物語でもある。

(『村上春樹  イエローページ①』、p.54)

私はこの解釈を読んでから『風の歌を聴け』を読み返した時、まったく別の感想を抱くことになって、とても驚いた。

いけすかない小説だと思っていたのに、読み返すとなんとも切実な若者の郷愁と喪失を描いた小説に思えてきたのだ。

この小説が書かれたのは1979年、高度経済成長期を経て一億総中流社会とも呼ばれた70年代の終わりのことだった。それ以前のように、学生運動をはじめとした反体制の物語を綴る流行が終わりつつあった時代だ。ただただ日本が豊かになる当時において、この小説は、時代とともに取り残される感情へ目を向けたのだ。――『村上春樹 イエローページ』を読むと、そんなふうに思えるようになった。

「鼠は金持ち、小指のない女の子は貧乏な階層、僕は中産階級を代表している」と解釈する加藤の論を読むと、たしかに『風の歌を聴け』は当時の時代の空気を閉じ込めたような小説だったのかもしれない……と感じるようになる。

これは、ただのお洒落な若者の思い出を語る物語ではなく、消えゆく70年代以前的感覚への別れを描いているのではないか、と。

小説を深く読み込むヒントを散りばめた一冊

印象が変わるのは、『風の歌を聴け』の解釈に限ったことではない。他の作品も同様なのだ。

女性にモテて、パスタを作って、お洒落な生活を送って……といったいわゆる「村上春樹」のイメージがこの『村上春樹 イエローページ』によって一変させられる。そこにあるのは、ただ社会や時代と向き合い、大切な人の喪失を経験し、そのうえで自分の倫理観を確立しようとするひとりの青年の物語ではないか、と思えてくる。

しかしその切実な物語は、作中、巧妙に隠されている。まるで謎かけである。一読しただけでは気付けないような些細な違和感を繋ぎ合わせてはじめて分かるものなのだ。

加藤典洋のような読み手がいてはじめて、私のような読者はその解釈に気付くことができた。

加藤はまえがきでこんなふうに語る。

小説が面白く読めるということのなかには、とてもたくさんのことがつまっている。文体の切れのよさに酔い、しゃれたやりとりをいいな、と思うことから、なぜこの作品が自分の心に響くのかと自分の心の海に錘鉛すいえんをおろし、現代の思想的課題に触れるところまで。

(『村上春樹  イエローページ①』、p.5)

しゃれたやりとりをいいな、と思うだけで小説の読書を終わらせても、なにも問題はない。しかしその先にある、自分の心の海に深く潜ること、そして時代に横たわる思想そのものに触れるところまで行くと、小説を読むことはきっともっと面白くなるのだろう。

そういう意味で、『村上春樹 イエローページ』は、小説を深く潜る手助けをしてくれる存在そのものだ。

ひとりで読んでいるだけでは気付くことのできない読み方に、他の人によるたくさんのヒントを受けて、はじめて気付くことができる。

それもまた小説を読む面白さのひとつなのだと、本書は教えてくれる。


著者プロフィール

三宅香帆

みやけかほ/1994年、高知県生まれ。書評家。京都大学文学部卒業、同大学院人間・環境学研究科修士課程修了。2017年、『人生を狂わす名著50』でデビュー。おもな著書に、『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』(サンクチュアリ出版)、『妄想とツッコミでよむ万葉集』(だいわ文庫)、『女の子の謎を解く』(笠間書院)、『それを読むたび思い出す』(青土社)ほか多数。最新刊は、『妄想古文』(河出書房新社)。

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