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山口周さんの幻のデビュー作『グーグルに勝つ広告モデル』を全文公開!【その7】8章

8章 情報のコモディティ商戦から新聞は抜け出せるか

*新聞の直面する危機

先述した三つのポイントで、新聞とネットとの代替性を検討してみると、新聞については、提供情報の代替性は高いものの、情報消費のシチュエーションが非常に多様で、かつアクセスの自由度も高いことがわかります。

情報消費のシチュエーションが多様というのは、自宅でも電車の中でも会社でも公園のベンチでもトイレでもアクセスができる、ということです。アクセスの自由度が高いというのは、見たい記事をどこからどう見るのも自由である、ということです。

これらの特徴は、新聞というメディアが持つ特有の物性=大判の紙を折ってできていることによってもたらされています。

さらに、新聞には一種のエージェント機能があります。

簡単にいえば、新聞社が、世の中の膨大な情報を「重要度合い」と「ジャンル(文化とか政治とか経済とかといったカテゴリー)」で整理して届けてくれているということです。

この重要度合いは、見出しの大きさや記事の配置や文字数、大きさ、図表の有無によって示されています。読者はこの序列を一瞬のうちに判断して、ジャンル×重要度×ニュースの中身という三つの軸で、「ちゃんと読んだほうがいい記事」と「見出しだけ知っておけばいい記事」と「関係ない記事」に仕分けしているのです。

極端な言い方をすれば、新聞の最後の編集者は読者自身である、といえるかもしれません。この柔軟性は、モバイル機器やPCにはなかなか真似できません。

以上の点のみを踏まえれば、新聞は比較的ネットに代替されにくいメディアであるということがいえそうです。しかし、事実として新聞の購読世帯数は中長期的に著しい減少傾向にある。これはどう考えればいいのでしょうか。

新聞の購読世帯数の減少については、様々な原因仮説が提示されています。よく指摘されるのが、いわゆる大衆が分衆化することで、大衆メディアである新聞への需要が減った、という文脈です。

しかし、様々な消費財のシェアや就職人気ランキングといった数値の上位寡占度は、ここ20年で減少するよりもむしろ上昇しています。ですから、消費嗜好やライフスタイルが分散化して大衆が消失したという仮説は、「気分」としてはわかる指摘ですが、実際の統計数値とは矛盾していて論理的には証明できません。

*情報のコモディティ化

筆者は、新聞の購読世帯数減少には二つの大きな要因が働いていると考えています。

一つは、情報のコモディティ化(日用品化=差別化ができない状態)が進み、市民の情報に対する価格感度が高まった、ということです。

この点について考察するとき、これまで検討してきたテレビ/ラジオと異なり、新聞が有料である、ということが非常に重要な意味を持ってきます。

経済学的にいえば、新聞がもたらしているのと同種の情報を、低価格(多くが無料)で大量に供給するプレイヤーが増えたことで需給バランスが崩れ、相対的に高価格の新聞に対する需要が減ってしまった、という構造です。

余談ですが、この情報のコモディティ化という流れは、新聞メディアに限らずすべてのマスメディア企業、もっと広くいえば情報を主な商材として扱っている企業すべてにとって、何らかの対応を求められる現象になるでしょう。

例えば米国では、それまで会計士の仕事だった確定申告の計算が、クイッケン等のアプリケーションによって代替されてしまいました。

また近年は、カナダのコグノス社のように、膨大な経営関連情報を自動的に分析して打ち手の方向性をアドバイスするといったアプリケーションを開発する企業も出てきました。

このアプリケーションは、例えば特定の商品の売上げが落ちた際に、それが季節要因によるものなのか、地域差があるものなのかといった論点で分析し、ある程度原因の仮説をまとめてくれるという機能を持っています。こういったサービスは、これまでコンサルティングファームが提供していたものです。

このような人的頭脳労働の付加価値が、ITによってどんどん代替されている流れがあるのです。

*減少する「常識へのニーズ」

二つ目は「常識へのニーズ」の減退です。

新聞が提供している本質的な付加価値について考えると、「スタンダードの提供」という役割が浮かび上がってきます。市民に対して、「最低限知っておくべきこと」を設定して提供する、という機能です。

社会人として日常生活を送ろうとすると、「常識」というものを知っておくべき、というプレッシャーが様々な局面でかかります。

では、常識とは何か?

筆者の回答は「新聞が常識である」ということです。

これは、新聞が他メディアより優れているとか、ましてや新聞の記事に偏りがないということをいっているのではありません。社会の皆が「新聞に出ていた事件や事象は、皆も知っているだろう」と考え、そういう前提で行動したり発言したりしている、ということです。

逆にいえば、新聞がないときに社会的に皆が知っておくべきことを知るためには、どうしたらいいのか? そう考えると、そこに様々なコストがかかることが容易に想像できます。

新聞というのは、「皆さんがこれを知っているからあなたも知っておいたほうがいいですよ」という機能を提供しています。もっといえば「これを知っておけば大丈夫」という安心感を提供しているのです。

ところが、昨今ではその社会的なプレッシャーが弱くなると同時に、そのプレッシャーに対する感度の鈍い人たちが増えていることが報告されています。新聞の本質的な付加価値がスタンダードの提供機能にあるのに、このスタンダードへのニーズが減少してきているのです。

これが新聞の購読世帯が減少している二つ目の理由です。

*新聞はネットに代替されるか?

では、新聞というのはこの先なくなってしまうのでしょうか?

ネットバブル期によくいわれた「紙の新聞がすべてなくなる」というような扇情的な予測は、最近ではさすがにほとんど聞かれなくなりましたが、依然として紙の新聞は大きくその部数を下げるという予測が大勢です。

程度問題ではあるのですが、筆者は、巷間いわれているように、新聞のほとんどが電子化してしまう、ネットに新聞が飲み込まれてしまう、という方向には、どうもならないのではないかと考えています。

その理由は、大きく三つあります。

一つ目の理由が、そう主張する人の多くが、新聞がすべてネットに代替されることで利益を享受する立場にあるからです。

代表的なのは、マイクロソフト社のディック・ブラス副社長の「『ニューヨークタイムズ』は2018年までに紙の新聞の発行を止めるだろう」という発言です。

しかし、マイクロソフト社は情報流通のプラットフォームがすべてデジタルになることで大きな利益を得る立場であること、そして、発信力のある人物の予言は一種の自己成就性を持つことに留意しておくべきだと思います。

二つ目の理由が、新聞が登場して以来、新しいメディアが登場する度に「紙の新聞はなくなる」という予言がされてきたのに、それがことごとく外れたということです。これは米国でも日本でもそうでした。

日本では、テレビ放送が始まった1950年代に、一度この議論が盛り上がりました。今から考えてみればバカみたいな話ですが、当時も本気で新聞がなくなるという予測を述べる方がいらしたのです。そして、結果がどのようになったかはご存知のとおりです。

前記のディック・ブラス副社長の発言に対して、当の「ニューヨークタイムズ」が反論したのもまさにこの点です。

そして最後の理由です。

この理由がもっとも強力な根拠なのですが、新聞がすべてネットに代替されたときに登場するとされる電子新聞というプラットフォームのアイデアは、すでに40年の間検討されているにもかかわらず(1970年の大阪万博では、電子新聞というコンセプトで情報が家庭に配信され、家庭内でそれをプリントアウトして読むというサービスのプロトタイプが実演されていました)、いまだに浸透する気配がないということです。

そういう意味では、このコンセプトはメディア界のリニアモーターカーともいえます。

ネットが普及して、かつプリンターの低価格化が進んだ現代であれば、すでに「新聞はPCモニターで読まれ、必要に応じてプリントアウトされる」という購読行動が発現していてもいいにもかかわらず、この習慣は一向に浸透する気配が見られません。

特にこれといった障壁がないのに浸透しない習慣が、いずれ浸透する、と主張するのであれば、何がその変化をドライブするのかという構造を論理的に説明することが必要ですが、これらの主張の多くには残念ながらその点が欠けています。

購読世帯数の減少トレンドを指摘しているケースもありますが、これは統計学的には手法として外挿になりますから、新聞購読世帯数のような社会事象では予測信頼区間が発散してしまうので(平たくいえば予測のブレ幅が大きくなりすぎる)、無意味でしょう。

結論になりますが、こう考えていくと、どうも電子新聞というプラットフォームには、何か人間の生理に根本的にフィットしない要素がある、と考えるほうが自然です。

それは……不自然なのよ!(ララァ・スン)

*ネットにすべて代替されるという考え方は経営戦略面で危険

筆者自身も、新聞がすべてネットに代替されるかどうか、という点については、「おそらくされないと思う」という程度にしか、現時点ではポジションを取れません。

しかし、こと経営戦略の枠組みで考えれば、「現時点で決定しない」という「決定」をするのと、単に「決定できない」ということの違いを認識するのは、非常に重要です。

将来のシナリオ予測に関して、新聞社は大きく三つのポジションを取ることができます。

A 新聞はネットにいずれすべて代替されてしまい、紙の新聞はなくなる。

B 新聞はある程度ネットに代替されるが、あるところで下げ止まり、以後は住み分ける。

C 新聞はネットにほとんど代替されず、今の部数で下げ止まる。

さすがに関係者の中でCを選択する方は少ないかもしれません。問題はAとBのどちらになるか、という点です。

これは、いわゆるリアルオプション理論(注1)の範疇になりますが、この場合重要なのが、ポジションの取り方として、「A」「B」以外に「今は決めない」という三つ目があることをしっかりと認識する、ということです。

注1 リアルオプション:金融工学のオプション理論を実物資産やプロジェクトの評価に適応した考え方。不確実性の高い事業環境下での投資の意思決定にあたり、選択の予測結果の評価だけでなく「選択権そのものの価値」も含めて判断する。

混同されがちですが、「AかBか判断できないので打ち手が決まらない」のと、「AかBか判断できないと判断して両方のシナリオに対応して手を打つ」というのは、考え方としてまったく異なります。

両方のシナリオに対応して手を打つ、という考え方は、戦闘教義でいう戦力の分散投入になりますから、一種の禁じ手です。しかし、こと競争戦略という枠組みで考えた場合、新興ネット企業が資源の問題から両バリ戦略を展開するのが難しいのに対して、新聞社は相対的に潤沢な資源を保有していますから、必ずしも忌避する必要はないと考えています。

筆者は、先述したとおり、Bシナリオの蓋然性がもっとも高いと考えています。だからといって、Aの可能性をすべて捨てて、経営上の打ち手を打つべきだとは考えていません。究極的にいえば、現時点で手に入るあらゆるデータを駆使しても、AかBかの科学的な意思決定は不可能だと考えています。

その点から、拙速にAまたはBだ、と考えて動くのは、経営戦略面から非常に危険であるといえます。

現時点では、Aになる可能性も考えつつ、自らの行動によってBというシナリオを成立させる方向に経営上の手を打っていく、ということが必要なのではないでしょうか。

*競争戦略としての新聞業界の打ち手

では、どのような打ち手が考えられるのか?

先ほど、新聞の購読世帯数減少の理由として、情報のコモディティ化が進行していることを指摘しました。

新聞は固定費として多数の記者を抱えている上に、宅配のネットワークを保有していることから、一種の装置産業である、という見方ができます。そうした観点からコモディティ化に対応しようと考えると、対応策は大きく次の二つに分かれます。

A 低価格化して稼働率を高める。

B 戦略的差別化により価格競争を脱する。

Aのアプローチについては、すでに「産経新聞」が夕刊廃止とセットで思い切った値下げを断行して、それなりの効果を上げているようです。しかし、これも程度問題で、どこまでも価格の切り下げができるわけではありません。

新聞社としては、どうしてもどこかでBの方向性を模索しなければならないのではないでしょうか?

経営戦略の要諦は「強みで戦い、敵の弱点を突く」というものです。その点を踏まえて差別化を志向した場合、重要になってくるのが「新聞というメディアが持っている本質的な強みは何か」という論点です。つまり、ネットとの差別化を実現していく上で、軸足になる競争優位は何か、ということです。

先ほどのネットとの代替性検討の枠組みでは、次のように分析しました。

①提供情報  ほぼ同等のものがネットでも提供可能。

②アクセススタイル  きわめて柔軟で優位性あり。

③シチュエーション  きわめて多様で優位性あり。

この点を踏まえると、「紙媒体」という特性を維持して②、③の強みは残しながら、あるいは強化しながら、①について何らかの方向でネットとの差別化を強化する、という方向性が一つ浮かんできます。

*オピニオン軸での差別化

新聞の情報を脱コモディティ化すると考えた場合、一つ参考になるのが1940年代に「ウォールストリートジャーナル(以下WSJと略)」の再生を果たした、バーナード・キルゴアのような考え方でしょう。

キルゴアは、当時低迷していた「WSJ」を、「ニューヨークタイムズ」や「ヘラルド・トリビューン」といった強力な競合と差別化し「すべてのビジネスマンにとって二つ目に選ぶ新聞になる」ことを目指しました。

一つ目ではなく二つ目、という点がポイントです。

つまり、主要なニュースについての基本的な情報の提供は他のメディアに任せて、「WSJ」は分析記事──事件はなぜ起きたのか、事態にどう対処するべきなのか、どのような意見が事件に対してあるのか、それらの意見の争点は何か、といった一段深い情報──を提供する新聞と、位置づけたわけです。

これはあくまで事例であって、必ずしもオピニオン紙という方向性がすべての新聞にフィットするとは考えにくいです。しかし、インターネットによって通信社が配信するレベルの「一次情報」がコモディティ化してしまったことを考えると、その一歩先の情報レベルに差別化することを考えなければいけない時期に来ているといえるのではないでしょうか。

*マイクロエリア/嗜好軸での差別化

新聞のコンテンツの中で、強いニーズが存在すると同時に、インターネットではなかなか提供できない情報の一つに、ローカル情報があります。

例えばアメリカは、一足先にテレビの全国ネットワークの解体という事態を迎え、ローカルテレビ局は自らコンテンツを調達しないといけない状況になりました。そこで、地元に記者を送って地道にニュースを拾うという地元密着路線にシフトしたところ、キー局から番組の配給を受けていた全国ネット傘下時代よりも、かえって収益が向上した、という会社がいくつも出てきました。

ローカル情報というのは、実は見過ごされがちですが、強い潜在ニーズを持った情報なのです。

一方、インターネットは、場所の制限がないことが一つの競争優位になっていますが、そのためにマイクロエリアごとに内容をダイナミックに仕分けることができません。ネットは、地元の情報を地元にフィードバックするという、閉じたループを作るのが非常に苦手なのです。

エリアをよりマイクロ化するというのは、平たくいえば「身近で関心をより強く喚起する情報を提供する」ということにほかなりません。ですから、この路線をさらに踏み込んでいくと、世帯ごとにコンテンツをカスタマイズする、という考え方も将来的にはありうるのかもしれません。

例えば、その世帯に女性がいるかいないかによって、挿入される広告は変わるべきでしょう。とすれば、世帯ごとの家族構成や、さらには趣味・嗜好といったものに合わせてコンテンツをカスタマイズする、という考え方もあります。

例えば、地元のコンサート情報を提供する、といっても、バレエの愛好家と器楽曲の愛好家では紹介してほしいコンサート情報が異なるでしょうし、美食家でもフレンチ専門という人と和食専門という人の間では求める情報は異なるでしょう。

こういった違いを、コンテンツに反映できて、しかも、時間がたてばたつほど自分好みに進化していくような仕組みにできれば、スイッチングコストを高くできると同時に、広告単価を高く設定できるので、二重の意味で美味しいのではないでしょうか。

*プロトタイピングを活用して、パッケージを進化させられないか

では、シチュエーションやアクセススタイルという強みを、さらに強化するためには、何ができるのでしょうか?

こういった観点では、例えば記事の見出しのみを集めたダイジェストを本紙とパッケージするとか(見出しだけを通勤途中に読んでもらい、深い情報は会社についてからネットで見てもらう)、2人世帯用に本紙をスプリットするとか(夫が会社に持っていく版と妻が家庭で読む版をスプリットして、アテンションのロスを防ぎながら広告単価も高く設定する)といったアイデアが検討されています。

こういうアイデアは、机の上で議論すればいくらでも出てくる上に、どれがもっとも有効かを判断するのは非常に難しいという、やっかいな側面を持っています。

そこで、プロトタイプ(注1)を活用したアプローチを考えてみてはどうでしょうか。

注1 プロトタイプ:一般的には、デモンストレーション目的や新技術の検証、量産前での問題点の洗い出しのために、設計・仮組み・製造された試験機・試作回路・コンピュータプログラムのことを指す。本書の文脈では、サービス開発にあたっての、机上での要件定義への対概念として「実験用の試験サービス」という位置づけで用いている。

プロトタイプというと何やら仰々しいですが、平たくいえば、様々なアイデアを試験的に実行してみて、結果を見てからアイデアを磨き上げていく、というアプローチです。

マスメディアは非常に完全性志向が強い業界で、不完全なサービスをパイロットすることを非常に嫌がりますが、新聞社には購読世帯というコネクティビティの強い既存顧客が数百万人単位でいるわけですから、これを活用しない手はないのではないでしょうか。

*慌てものの誤謬

こういった試みを進めるときに注意したいのが「それは以前にやったけどうまくいかなかった」という横槍です。こういった横槍を受けて「では止めておこう」と考えていると、いわゆる「慌てものの誤謬」になる恐れがあります。

「慌てものの誤謬」というのは、一回たまたま失敗したのを、そもそもダメと考えてしまうことです。

この典型例が、南極探検でアムンセンに敗れたばかりか、隊を全滅させて自分自身も命を落としたスコットです。スコットの失敗にはいろいろな分析がなされていますが、致命的なポイントの一つが、荷物運搬の主力を馬に置いた点です。

これは、以前に犬を使ったときに未熟さゆえに犬を死なせてしまい、役に立たなかったという経験からきているのですが、「たまたま」犬が役に立たなかったのを、「そもそも」犬は役に立たない、と理解した点にスコットの誤りがありました。

これは統計学では「第一種の誤り」(=帰無仮説が正しいのにもかかわらず、棄却してしまう)として、強く戒められています。

ましてや、今はムーアの法則(半導体の集積度が18カ月で倍になるという経験則)が働く世の中です。数年前にやったけどうまくいかなかった、ということが、現在やってみてうまくいかないことの理由にまったくならない、という点を肝に銘じておくべきでしょう。

*ネットワークに乗せる情報量を増やす

ここまで、ネットと新聞の比較を軸足に、将来の方向性仮説について述べてきましたが、筆者自身は、物理的な紙の新聞を各家庭に届ける宅配ネットワークという仕組みこそ、新聞社が保有するネットメディアに対する中核的な競争能力の礎ではないかと考えています。

逆にいえば、この競争優位がなくなった際に、低コストで情報を流通させるネット媒体に新聞社が勝てるのかと考えると、非常に難しいのではないでしょうか。

この宅配ネットワークを、今後どう戦略上で活かしていくのか、という点にこそ、新聞業界のチャンスがあると思います。

そう考えたときに重要になってくるのが、ネットワークの運営コストはほとんどが固定費であり、新しい情報を流通させるための限界コストは非常に低い、という点です。

ヤマト運輸の中興の祖である小倉昌男氏が著書の中で、宅急便のビジネスモデルを支配する経済性について閃いた瞬間を詳述しています。曰く、物流というのはネットワークを維持するのに莫大な固定費がかかるけれども、そのネットワークに乗せる荷物の数が増えれば増えるほど、どんどん利益が増えていって、一度損益分岐点を超えてしまえば、限界売上げは、ほぼイコール限界利益になる──。

キーになるのは、ネットワークに乗せる情報の量なのです。であるからこそ、ネットワークに乗せる新しい情報を探すという方向性が重要になるのではないでしょうか。

これほど多くの世帯に物理的にものを届ける機能をもつメディアというのは、世界的にも例がありません。宅配制度は様々な社会的な問題を指摘されていますが、新聞社の今後の再成長のためにも、ぜひとも活用を検討すべきインフラだと筆者は考えています。

今の世を、百年も以前のよき風になしたく候ても成らざる事なり。されば、その時代時代にて、よき様にするが肝要なり。(山本常朝『葉隠』)

(9章以降に続きます。毎日更新予定)



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