カミュが『ペスト』で描いたのは「始まり」も「終わり」もないパンデミックの単調さである|福嶋亮大
病気のなかに入ること
二〇一九年に発生した新型コロナウイルスのパンデミックをきっかけにして、文化と病の関係を多面的に考えること、そのために病の文化史を改めて回顧してみること、それが本書の狙いです。もとより、それは新書一冊で書くには途方もないテーマですが、本格的な論考に入る前に、思考のルートをあらかじめ舗装しておくことも無益ではないでしょう。
それにしても、病とは何でしょうか。私なりに説明するならば、それは世界の現れ方を変えるものです。疫病が蔓延すると、それまで楽しみの場であったレストランや観光地が、とたんにリスクに満ちた危険な場に変身する。あるいは個人に即しても、発病したとたん、ふつうならば難なくできたことに多大な困難が生じる。馴染みのあった社会環境が、急に親しみを欠いたとげとげしいものへと変わり、精神の伸びやかな活動が心身の不調のために大きく制約される――このような負の異化作用が、病のもたらす現象的な変化だとひとまず言えるでしょう。
では、そのような病はいったいどこからやってくるのでしょうか。われわれはふつう、病気(病原菌)が人間のなかに入ってくると考えます。それは病気を無遠慮なエイリアンやインベーダーと見なすことと同じです。政治家たちは「新型コロナウイルスとの戦争」という威勢のよい言い方を平気でしますが、それはまさにこのような思考様式から生じるものです。
しかし、人間中心的な見方を反転させれば、どうなるでしょうか。ウイルスを中心とするならば、むしろ人間が病気のなかに入っていくと言うべきではないでしょうか。現に、エイズウイルス、鳥インフルエンザウイルス、新型コロナウイルス――これらの新型ウイルスとの遭遇は、いずれも自然界に対する人間のアクションに起因するものです。ウイルスが能動的に人類を侵略したわけではありません。
現代フランスの思想家フランソワ・ダゴニェは「基礎的で新しい考え方、それは、私たちは病気のなかに取り込まれているという発想です。病気は外界からやってくるだけではない。私たちは病気に参加している」と述べています。これは洗練された考え方です。私たちの誰もが、いつかは病気の環境に入り込み、死を迎えます。問題は、この「いつかは」にあります。それはすぐかもしれないし、遠い未来かもしれない。病の環境は常に人類を取り囲んでいる反面、個々人がそれにいつ参入するか(いつそこから離脱できるか)は確定していないのです。
日付なき出来事
この時間的なあいまいさはパンデミックにも深く関わっています。象徴的なことに、二一世紀の大きな事件には「日付」の別名が与えられてきました。二〇〇一年のアメリカ同時多発テロは「九・一一」、二〇一一年の東日本大震災は「三・一一」という具合です。ここには、特定の瞬間に生じた決定的な出来事が、社会を一変させたというニュアンスがあります。それはいわば負の創世神話と呼べるでしょう。二一世紀の神話の主人公はもはや神でも英雄でもなく、日付によって「始まり」を特定された事故や災害なのです。
しかし、パンデミックはそれらとは異質です。パンデミックとはまさに日付のない出来事です。そこには明確な「始まり」や「終わり」がありません。ウイルスや病原菌との接触というカッコつきの《創世》の瞬間は必ずあるわけですが、それを特定することは困難であり、しかもこの謎めいた創世記がいつ収束するのかは見当もつかないのです。
興味深いことに、アルベール・カミュの小説『ペスト』では、ペストに占領されたアルジェリアのオラン市の老警手が、こう呟きます。「こいつが地震だったらね! がっと一揺れ来りゃ、もう話は済んじまう……。死んだ者と生き残った者を勘定して、それで勝負はついちまうんでさ。ところが、この病気の畜生のやり口ときたら、そいつにかかってない者でも、胸のなかにそいつをかかえてるんだからね」。一撃では「勝負」がつかず、長期にわたってじくじくと作用を及ぼし続ける――それこそが疫病の本質と言うべきでしょう。
時間の麻痺
カミュの『ペスト』は一九四七年に刊行されてフランスでは熱狂的に迎えられましたが(ちなみに、日本の小林秀雄も一九五〇年に『ペスト』を論評し、カミュの厳密な書きぶりに「凡てが驚くほど明瞭な批評精神によって計量され尽した末に成った新しいメカニスム」を見出しています)、それはナチスに対するフランス人のレジスタンスの記憶がまだ鮮明であった時期です。カミュはこの小説を抵抗運動の寓話として書こうと意図していました。オラン市の医者リウーらに、横暴な占領者に対するレジスタンスの姿を重ねることは十分可能です。
その一方、カミュは疫病のもたらす麻痺的な時間感覚も、たいへん厳密に描き出しています。『ペスト』が単純なレジスタンス小説の枠に収まらないのは、この時間の描き方の特異さゆえです。ペストは当初オランの市民たちに一種の興奮をもたらしますが、隔離生活が長引くなか、それはやがて倦怠へと変わっていきます。ペストという「大きな災禍」は猛火のような派手なクライマックスではなく、むしろ底知れぬ「単調さ」を呼び覚ましたのです。
こうして、ペストは文字通りの間延びをもたらします。住民たちはペストに占領されただけではなく、麻痺した時間に占領されたのです。人間を空間的のみならず時間的にも「監禁」する疫病を、あえて「行政事務」に通じる客観的な文体で描き出すこと――そこにカミュの創意がありました。
余分な装飾を排したカミュの記述は、日付をもたないパンデミックの特性を実によく捉えています。パンデミックは急激なスピードで社会を変化させる一方、その終わりの予測不可能性ゆえに、時間を膠着させるものです。疫病の恐怖は、あれよあれよという間に加速していく時間だけではなく、いつ終わるともしれない単調で平凡でけだるい時間をも作り出します。パンデミックの占領下では、時間はあまりに速く過ぎ去り、かつあまりに遅く進むのです。それは社会の正常なカレンダーを解体するものですが、私たちはこの異常事態にもやがて慣れてしまう。「絶望に慣れることは絶望そのものよりもさらに悪いのである」という『ペスト』の戒めは、傾聴に値するでしょう。
このような間延びや倦怠にひとたび占領された人間たちは、たとえ疫病を克服できたとしても、無邪気に凱歌をあげるというわけにはいきません。『ペスト』はひとまず全体主義に対する勝利の物語として締めくくられましたが、カミュ自身はそこに安住できませんでした。批評家の福田和也が言ったように、『ペスト』の後のカミュはむしろ「苦渋の色濃い『転落』へと移行することで、『敗北』の文学に足を踏み入れ」ることになりますが、その予兆はすでに、オラン市の住民を支配した「はてしない足踏み」に示されていたように思えます。
本書の構成
カミュが巧みに描いたように、疫病はしばしば、われわれの時間を感受する能力をすっかり摩耗させるほどに、長く続きます。超スピードの変化とけだるい無変化は、うまく人間の認識に落とし込めないのです。それと同じように、病と文化の関係も、目もくらむほどに長い期間にわたっていて、それを整然とした歴史認識に変えることは困難です。病は人類史に遍在しており、文化的な制作物は大なり小なりその影響を受けています。そのすべてを網羅することは、誰であれ不可能でしょう。
そこで本書は、記述の軽快さを心がけつつ、主要なテーマを西洋の哲学と文学に絞りました。第一章で治癒すること、患うこと、健康であること等の基本的な論点について概略的に述べた後、第二章では主だった哲学者を選んで、彼らと病との関わりについて時代順に説明しています。さらに、第三章および第四章では、ペスト、コレラ、結核、エイズ等の感染症と文学との関わりを論じつつ、医学的な想像力が文学にどう取り込まれたかについても考察しています。私はこれらの入り口から、文化史に記載された病気の多様なイメージのなかに入り込み、その光景のスケッチを試みたのです。
むろん、文化史というからには映画、絵画、音楽などのジャンルについても触れるべきでしょうし、地域的にも西洋を超えた広がりを十分にもたせるべきでしょうが、今回は断念せざるを得ませんでした(そもそも、いたずらに大著になるのは私の望むところではありません)。各章は独立性が高いため、興味をもった章から自由に読み進めることができます。前置きはこれくらいにして、さっそく本編に入りましょう。
※つづきはぜひ書籍でお楽しみください!