阪神・淡路大震災と京大受験|『京大合格高校盛衰史』
京都伝統校の凋落②(1994~1996年)
【1994年】
弘学館(佐賀)から合格者11人を出した。同校は87年に開校し、90年卒業の1期生が東京大に8人合格して大きな話題となった。このとき京都大に1人合格している。その後、合格者は91年3人、92年2人、93年6人と増えていく。弘学館開校の背景には、県内の優秀な子供の多くが福岡の久留米大学附設に通っている現実があった。同校入学者の佐賀居住者は1969~77年で累計261人(総在籍者累計1913人)となっており、久留米大学附設の東大合格者のうち2、3人が佐賀県人ということになる。
こうした福岡への「頭脳流出」に対して財界人が危機感を抱き、学校建設に乗り出した。地元の建設会社、松尾建設のオーナーである。87年、同社は創立百周年事業として弘学館を開校する。校名は藩校の弘道館からとっている。同校は「資質の高い生徒のみを集め、さらに、その能力を育て、伸ばそうとする英才教育の制度が熱望されているとき」(『創立20周年記念誌』、2007年)という問題意識を持ち、「一流難関大学への進出を目指す資質、能力に優れた男子生徒」(当時の「学校案内」)を募集した。その成果として1期生から東京大、京都大に合格者を出した。
【1995年】
1月17日、阪神・淡路大震災が発生した。
神戸高校では体育館などが避難所となった。生徒が震災当時の様子をこう記している。
同校では生徒2人、教員1人が亡くなっている。2月1日から授業を再開したが、被災によって地元に住むことができず、高校を離れざるを得ない生徒がいた。転学先は青森(青森)、西(東京)、茨木、大手前、寝屋川(以上、大阪)、出雲(島根)、そして一時転学先は札幌北(北海道)、茨木、大手前、寝屋川、三国丘(以上、大阪)、柏原、姫路東、龍野、小野、相生(以上、兵庫)、奈良(奈良)、今治西(愛媛)、玉名(熊本)、武岡台(鹿児島)だった。
甲陽学院は震災直後から休校となり、地震発生まもなく学校は生徒の安否確認を行った。生徒や保護者が自主的に確認したが、電話の不通、避難先の不明などで時間がかかった。生徒の保証人、友人関係を頼りに確かめ、直接家庭に出向くこともあった。中学生1人が亡くなっている。授業は2月1日から再開し、学年末考査は中止となった。中学、高校入試いずれも延期している。3月下旬まで中学校の柔道場が避難所として使われた。大学入試に向けた書類作成などに大きな支障はなかったが、被災した生徒のなかには進路を考え直す者もいた。学校史でこう綴られている。
灘は体育館を開放し、近隣の避難者を受け入れていた。灘区役所から、体育館を遺体の安置所として使わせてほしいという要請があり、学校は受け入れた。第2グラウンドも避難者のために開放している。家が倒壊した教員、生徒は学校の中でその日一夜を過ごす。2月1日実施予定の中学入試は3月1日に延期した。この年度は3月末まで授業を行っている。
震災から15年後、ジャーナリストのおおたとしまさ氏はこう伝えている。
関西の受験生には深刻な影響を与えた。法学部合格の女子(兵庫・西宮東)がこうふり返る。
京都大総合人間学部図書館では被災した高校生向けに自習室を開放した。彼女は受験前、約1カ月この自習室を使っていた。
兵庫県内からの合格者数は甲陽学院、六甲、白陵で増加、灘、淳心学院、神戸、姫路西が減少となった。
【1996年】
兵庫の公立進学校の長田、姫路西、神戸、小野、加古川東、宝塚北などで前年比増になった。94年、95年、96年の3年間で神戸23人→9人→15人、兵庫14人→5人→7人、加古川東21人→9人→10人だった。前年は公立の合格者が減少していたことについて、地元高校教員から次のような見方があった。私立の中高一貫校は高校2年時点で全課程を修了し受験準備は十分できていた。公立は年明け最後の追い込みで難関校に合格できる天才がいるが、95年は震災で力を発揮できない受験生がいた。96年はこうした公立の天才たちが合格したのではないか――。
農学部に合格した男子(徳島・城ノ内)は京都大受験では名が知られていない学校出身だったことから、無名校出身者にこんな指南をしている。