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阪神・淡路大震災と京大受験|『京大合格高校盛衰史』

1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災。この年のセンター試験は1月14日(土)と15日(日)の両日。16日の月曜日が振替休日だったため、センター試験の翌々日、3連休明け未明のことでした。多くの受験生が自己採点を済ませ、人によっては二次試験への決意を固めていたことでしょう。未曽有の震災に直面した1995年の受験生たちは、この年の試験とどのように向き合ったのでしょうか。小林哲夫さんの『京大合格高校盛衰史』には、いくつかの受験生エピソードが記されています。

京都伝統校の凋落②(1994~1996年)

【1994年】

こうがくかん(佐賀)から合格者11人を出した。同校は87年に開校し、90年卒業の1期生が東京大に8人合格して大きな話題となった。このとき京都大に1人合格している。その後、合格者は91年3人、92年2人、93年6人と増えていく。弘学館開校の背景には、県内の優秀な子供の多くが福岡の久留米大学附設に通っている現実があった。同校入学者の佐賀居住者は1969~77年で累計261人(総在籍者累計1913人)となっており、久留米大学附設の東大合格者のうち2、3人が佐賀県人ということになる。

こうした福岡への「頭脳流出」に対して財界人が危機感を抱き、学校建設に乗り出した。地元の建設会社、松尾建設のオーナーである。87年、同社は創立百周年事業として弘学館を開校する。校名は藩校の弘道館からとっている。同校は「資質の高い生徒のみを集め、さらに、その能力を育て、伸ばそうとする英才教育の制度が熱望されているとき」(『創立20周年記念誌』、2007年)という問題意識を持ち、「一流難関大学への進出を目指す資質、能力に優れた男子生徒」(当時の「学校案内」)を募集した。その成果として1期生から東京大、京都大に合格者を出した。

◆入学定員2941人/志願者1万3859人/入学者2977人(女子469人)

無印=公立、◎=私立、□=国立

【1995年】

1月17日、阪神・淡路大震災が発生した。

神戸高校では体育館などが避難所となった。生徒が震災当時の様子をこう記している。

ぐっすり眠っていた私は、突然「ドーン」という下から突き上げるような衝撃で布団の中の体がね上がった。ゴォーッという地鳴りとともに家具の落ちる音、ガラス食器の割れる音、今までに経験したことのない上下左右の大きな揺れで私は立つことすら出来なかった

(『神戸高校百年史』、97年)

同校では生徒2人、教員1人が亡くなっている。2月1日から授業を再開したが、被災によって地元に住むことができず、高校を離れざるを得ない生徒がいた。転学先は青森(青森)、西(東京)、茨木、大手前、寝屋川(以上、大阪)、いず(島根)、そして一時転学先は札幌北(北海道)、茨木、大手前、寝屋川、三国丘(以上、大阪)、柏原、姫路東、たつ、小野、あいおい(以上、兵庫)、奈良(奈良)、いまばり西(愛媛)、たま(熊本)、たけおかだい(鹿児島)だった。

甲陽学院は震災直後から休校となり、地震発生まもなく学校は生徒の安否確認を行った。生徒や保護者が自主的に確認したが、電話の不通、避難先の不明などで時間がかかった。生徒の保証人、友人関係を頼りに確かめ、直接家庭に出向くこともあった。中学生1人が亡くなっている。授業は2月1日から再開し、学年末考査は中止となった。中学、高校入試いずれも延期している。3月下旬まで中学校の柔道場が避難所として使われた。大学入試に向けた書類作成などに大きな支障はなかったが、被災した生徒のなかには進路を考え直す者もいた。学校史でこう綴られている。

あれこれ悩む余裕がないこの年の大学入試でしたが、その分「行きたい大学を受ける」と割り切れた生徒もいれば、被災による家庭的事情から志望大学を地元に変更せざるを得なかった生徒もいました

(『甲陽学院創立百周年記念誌』2016年)

灘は体育館を開放し、近隣の避難者を受け入れていた。灘区役所から、体育館を遺体の安置所として使わせてほしいという要請があり、学校は受け入れた。第2グラウンドも避難者のために開放している。家が倒壊した教員、生徒は学校の中でその日一夜を過ごす。2月1日実施予定の中学入試は3月1日に延期した。この年度は3月末まで授業を行っている。

震災から15年後、ジャーナリストのおおたとしまさ氏はこう伝えている。

2日目の夜には体育館は遺体でいっぱいになってしまった。学校内にある井戸水は近隣のひとたちの給水所になった。卒業生の医者が、学校の中で臨時の診療所も開設した。ボランティアにやって来た生徒たちは、区役所から仮設トイレが届くまで、教員たちとともにトイレの汚物処理に明け暮れた。

「何もかもがめちゃくちゃで、どこから手を付けていいのかすらわからない状態でしたが、不思議なことに、学校の中にいらっしゃる避難者の方たちの間で自然に組織ができてくるんです。もともと自治会のリーダーのようなひとがいるのかもしれませんが、そういうひとを中心に、それぞれができることを始めるんです。絶望と混沌のなかにも少しずつ秩序をつくり出そうとする力が、人間にはあるのですね。頼もしく感じました」(和田さん)

※「和田さん」とは教員の和田まごひろさん。のちに同校校長をつとめる

(「NIKKEIリスキリング」2020年1月19日)

関西の受験生には深刻な影響を与えた。法学部合格の女子(兵庫・西にしのみや東)がこうふり返る。

私の住む地域では日常性が破壊され生活は一変しました。ガス、水道などのライフラインはストップ、毎日台車を押して水を買いに近くの小学校へ行き延々と並んだり、お風呂に入ろうにも水が出ている遠くの地域の風呂場まで通わなければならないように。その上、立て続けに起こる余震のために夜も十分に眠られず、ノイローゼ気味もなっていました

(『私の京大合格作戦1996年版』)

京都大総合人間学部図書館では被災した高校生向けに自習室を開放した。彼女は受験前、約1カ月この自習室を使っていた。

兵庫県内からの合格者数は甲陽学院、六甲、はくりようで増加、灘、じゆんしん学院、神戸、姫路西が減少となった。

◆入学定員2921人/志願者1万4590人/入学者2955人(女子481人)

【1996年】

兵庫の公立進学校の長田、姫路西、神戸、小野、がわ東、宝塚北などで前年比増になった。94年、95年、96年の3年間で神戸23人→9人→15人、兵庫14人→5人→7人、加古川東21人→9人→10人だった。前年は公立の合格者が減少していたことについて、地元高校教員から次のような見方があった。私立の中高一貫校は高校2年時点で全課程を修了し受験準備は十分できていた。公立は年明け最後の追い込みで難関校に合格できる天才がいるが、95年は震災で力を発揮できない受験生がいた。96年はこうした公立の天才たちが合格したのではないか――。

農学部に合格した男子(徳島・城ノ内)は京都大受験では名が知られていない学校出身だったことから、無名校出身者にこんな指南をしている。

無名校にとって学校の授業ほど役に立たないものはないだろう。受験勉強というものは全く独学は可能である。あと、大学受験は自分の人生に関わる問題であって、学校の先生の人生には関係ないということを覚えておいてほしい。(略)一般に無名校生は受験を意識するのが遅すぎる

(『私の京大合格作戦1997年版』)

◆一般入試・募集人員2891人/志願者1万4291人/入学者2926人

本記事は、小林哲夫『京大合格高校盛衰史』のうち第3章の一部を抜粋したものです。

※トップ画像の提供:神戸市


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