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夏目漱石のあの名作は実は恋愛ミステリーだった #1_1

光文社新書noteのスタートに合わせて、恋愛学でおなじみのあの早稲田大学・森川友義教授の連載が始まります。文豪たちの数々の名作を題材に、冴え渡るクールな森川先生の考察をお楽しみください!

もりかわ・とものり/早稲田大学国際教養学部教授。政治学博士(Ph.D.)。1955年群馬県生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒、ボストン大学政治学部修士号、オレゴン大学政治学部博士号取得。専門分野は日本政治、恋愛学、進化政治学。早稲田大学の授業「恋愛学入門」は学生に絶大な支持を得ている。恋愛学の著書としては『最強の恋愛術』(ロンブー田村淳との共著、マガジンハウス)、『一目惚れの科学』(ディスカヴァー携書)、『黄昏流星群学』(弘兼憲史との共著)等がある。

「恋愛学」から読みとく近代文学

この連載は、明治時代以降の文豪が描いた小説における恋愛描写を「恋愛学」の立場から分析して、場合によっては「ぶった斬って」しまおうという大胆な企画です。

誰でも知っているような文豪の名作の中には、普遍的なモテテクニック満載で、現代の私たちに参考になるものがあると考えられます。その逆に、科学的に根拠のないことや恋愛を描写する場面で思い違いしていることもあるでしょうし、あるいは本が執筆された当時では納得がいく恋愛描写であっても、時代が変わって新しい価値観が醸成されたことで、違和感が生じている場合があるかもしれません。

ですから、文豪による恋愛描写、たとえば、相思相愛、片思い、一目惚れ、失恋、結婚、不倫などといったテーマに関して、恋愛学の立場から分析をすることによって、作品の特異性や現代との整合性といったものを浮き彫りにすることは今日的な意味があります。データや専門用語を用いて解説してゆきますので、恋愛の知見を深めることができます。

このような考察をとおして、いままでどの文学者や評論家も言及してこなかった新しい作品の魅力を知ることになり、より深く名作を読みこむことが可能となるはずです。

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「恋愛学」とは?

分析の根拠となるのが「恋愛学」です。「恋愛学」とは、人間の恋愛を科学的に研究する学問です。

人間の恋愛感情、恋愛に関する男女の意思決定の科学的研究は、21世紀に入ってから盛んに行なわれるようになってきました。先鞭をつけたのが、進化論的アプローチ、つまり進化生物学や進化心理学の分野ですが、恋愛の研究は社会科学の分野にも拡大し学際的になりつつあります。そこで、その学際的な研究を総合すると「恋愛学」という一つの枠組みをつくって、研究することが可能となってきました。

具体的な例を2つ挙げてみます。

1つめは、上記の進化生物学的アプローチです。このアプローチは、私たち人間は、オスとメスが繁殖行為を行ない、子孫をつくって、次世代に遺伝子を受け継ぐような仕組みを持つ有性生殖の動物であると考える学問です。子どもをつくるためには、相手を選ぶという行為が必要になるわけですが、そこで用いられるのが、五感です。五感とは、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の5つを指しますが、私たちは確かに、相手を目で見て、耳で話を聞いて、鼻でにおいを嗅いで、手をつないで、キスをして、相手の良し悪しを確認しようとしています。このような観点から、人間の恋愛のメカニズムを知ろうとするのがこのアプローチです。

もう1つは、経済学や経営学が用いる市場経済メカニズム的アプローチになります。この考え方は、人間を一つの商品ととらえます。相思相愛を商品の売買と同じ仕組みと考えて、互いを相互保有することを恋愛(中期保有)結婚(長期保有)浮気(短期保有)と定義します。誰でも、自分をなるべく高く売りたいし、相手をなるべく安く買いたいという根源的欲求がありますので、その売り買いの算定基準になるのが、自分の資産価値ということになります。恋愛では一物一価の原則が成り立ちませんので(あなたの資産価値は人によって評価が異なります)、どのような資質(たとえば学歴、年収、見かけ、性格、家事能力)がだれにどのように評価されるのかを分析する学問でもあります。このような前提で恋愛の仕組みをみていこうとするのが「市場経済メカニズム」的手法です。

そのほかにも、恋愛や結婚を社会現象としてみる社会学的アプローチ、人間の心理的側面から分析しようとする恋愛心理学的アプローチ、恋愛がもたらす政治的な影響について研究する政治学的アプローチといったように、人間の恋愛は多くの社会科学において研究されるようになってきました。文豪の作品を考察する手段として、このような学問を参考にしてゆくつもりです。

さて、最初の文学作品として取り上げるのは、夏目漱石の『こころ』です。名作中の名作であり、現在までに新潮文庫で累計700万部を売り上げた、わが国の文学史上、最高の小説の一つという評価も決して誇大ではありません。第1回目を飾るにふさわしい作品です。

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『こころ』はミステリー小説?

まず知ってほしいのは、『こころ』は、普通の恋愛小説ではありません。恋愛を題材にした「ミステリー小説」と言ってもよいくらいのものです。ミステリー小説の神髄は小説の中で事件や犯罪に関する謎が提示されて、読み進めるにしたがって次第にそれが解明されてゆくものですが、この『こころ』も、漱石が仕掛ける謎に釣られて最後まで一気に読んでしまうことになるという、恋愛がテーマでありながら恐ろしくもおもしろい小説です。

この小説は、「上 先生と私」「中 両親と私」「下 先生と遺書」の三部構成となっています。

「上 先生と私」からいきなりミステリーで、東京帝国大学(現在の東京大学)の大学生である主人公「私」が、何の仕事もしていない(高等遊民の)「先生」に興味を持ち、話しかけて親しくなるにつれて、先生の過去の謎について知ってゆくことになります。

「私」は先生の奥さんに対して「先生は何故ああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないのでしょう」と問うのですが、奥さんも「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変わってしまったんです」と、どうやら過去になにかしらの事件があったことを匂わせます。

奥さんは美しく、夫婦仲も良さそうなのですが、先生は奥さんと精神的に距離を置いていることが次第に分かり、その点もミステリーのままです。先生自身も、恋愛を「罪悪」とし、他方「神聖」なものとも呼びますが、どうしてそのように考えるのかについてははっきり語ってくれません。

第2部の「中 両親と私」では、大学を卒業した「私」が、病状を悪化させる父のために実家に帰省するのですが、そんな中で先生からぶ厚い手紙を受け取ります。読み始めると「この手紙があなたの手に落ちるころには、私はもうこの世にはいないでしょう」と自殺の予告が書かれてあったのです。びっくりした「私」は、父が危篤状態にもかかわらず、先生のことが心配になり、すぐに東京に向かう電車に乗り、その車中で遺書を読み進めるのでした。

最後の第3部である「遺書と私」で、ここまでのミステリーが解き明かされます。遺書を通して、先生の大学時代(先生も「私」と同じく当時は東京帝国大学の大学生)の恋愛の過去が語られてゆきます。先生が下宿した先のお嬢さん(先生の奥さんである静、当時推定15歳)のことが綴られていました。

お嬢さんに恋してしまった先生は、片思いをするだけで気持ちを伝えられないでいますが、そんな中、経済的に困窮する幼馴染「K」を同じ下宿に住まわせてしまいます。案の定、Kもお嬢さんを好きになってしまい、その旨を先生に告白してしまいます。Kの「お嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられ」て、先生は「すぐにしまったと思いました。」「先を越されたなと思いました。」でも、なかなかKに対しては自分のお嬢さんへの想いを伝えることができません。

その代わり、先生はKには内緒でお母さんに「お嬢さんをください」と言い、Kを出し抜いてしまいます。それを知ったKは下宿先で自殺します。先生は大学卒業と同時にお嬢さんと結婚しますが、Kの自殺は自分が原因であるとの罪悪感をずっと抱き続けてしまうことになります。最終的には、明治天皇の崩御を機に、先生も自殺してしまうのでした。

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『こころ』を理解するために必要な恋愛学用語は2つ

恋愛の描写に関して、読者が抱く読後感としては「すごくおもしろかった」でしょうが、同時に「なんか釈然としない」感じに違いありません。「なぜ先生はあんなに優柔不断なの?」だったり、「Kも先生も、死ぬことないのに」と思ったりしたはずです。

この小説が書かれた大正時代(1914年)では、先生の行動は納得できるものだったかもしれませんが、令和となった今日では、なんでグジグジ、モジモジとずっと優柔不断なのかというふうに思ったはずです。男らしくシャキッとするチャンスはいくらでもありました。現代の私たちからすると納得がいかない行動ばかりです。

このあたりが『こころ』のもっとも不可思議な点ですので、詳しく考察してゆきます。そのためにぜひ知ってもらいたい恋愛学用語がありますので、まずは2つの用語を解説します。

恋愛学用語①「恋愛バブル」

まず「恋愛バブル」という言葉です。小説の中では、先生にもKにもお嬢さんに対する激しい恋愛バブルが生じています。

相手を好きになるということは、恋愛感情を抱くということです。相手のことが気になる、相手のことをずっと考えている、話がしたい、会いたい、付き合いたいというのはすべて恋愛感情が芽生えた兆候です。相手を好きになるとどうなるかというと、相手の「商品価値」を上方に修正します。「この人とずっと一緒にいたい」、「(付き合い始めた後は)別れるなんて絶対ありえない」、「相手のことが大好きで、一生愛していられる」と思うようになります。「あばたもえくぼ」状態ですね。このインフレ感情を「恋愛バブル」と呼びます。

先生もお嬢さんの生け花や琴が下手にもかかわらず、嬉々として楽しむようになってゆきます。明らかに恋愛バブルが生じたサインです。

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若者の恋愛がどのくらい激しいのかを知ってもらうために、アンケート調査の結果を披露します。早稲田大学では毎年「恋愛学入門」という授業を担当しているのですが、その授業の最初にアンケート調査をしています。その中には次のような質問があります。

Q.ある日突然、恋人の親があなたに会いにきました。会ってみたら、相手の親が「うちの子と別れてくれ。お金はいくらでも渡すから」と言ったとします。いくらの手切れ金を積まれたら、別れに応じますか? 0円から1兆円の範囲でお答えください。

みなさんは、恋人(現在のあるいは過去の恋人)や配偶者と、いくらお金を積まれたら別れることができるでしょうか?
アンケートの結果は、手切れ金の平均値は約3,000億円でした。数字の間違いではありません。3,000億円!

大学生なので金銭感覚が一般常識からややずれているという点を差し引いても、3,000億円というのは巨額です。大企業に就職したサラリーマンの生涯獲得年収でもせいぜい3~4億円程度なのに、その750倍というのは異常なバブル状態です。

このアンケート結果からわかるのは、とりわけ大学生くらいの若者は、いったん恋愛のスイッチが入ってしまうと、その人がすべてとなってしまう感覚に陥るということです。恋愛中の心理状況はトランス状態に近く、感情のコントロールが効かなくなって、現実とかけ離れた幻想にとらわれてしまうのです。ある意味、恋愛バブルは素敵ですね。自分がそのように思えたら、素敵だと思いませんか。ところが、客観的にみると、それは恐ろしい状態となりえます。

なお、この恋愛バブルには2つの特徴があります。

ひとつには、恋愛バブルの激しさは恋愛経験値と反比例の関係にあります。年齢を重ねて恋愛経験を繰り返すうちに恋愛感情をコントロールする方法を学びますが、若いときは恋愛経験が少ないので、非常に激しいものになります。『こころ』の中の先生もKも恋愛経験値は少なく、おそらく初恋ではないかと思われるので、二人の恋愛は激情的なものになっています。

もうひとつの特徴は、この恋愛バブルは長くは続かないことです。破裂しないバブルというものはありません。通常、恋愛感情が続くのは1年半~2年くらいです。恋愛のドキドキ感は高揚感を生むものであり、恋をすると必ず生じますが、ずっと続くと心臓に負担がかかり健康を損ねる危険性があります。マラソンを走っているのと同じ状態ですね。ずっとマラソンを走ることができないのと同じように、ドキドキ感は長い間は続きません。私たちの身体は健康になろう、健康になろうとしますので、恋愛感情は時間とともに次第に消えるように作用してゆきます。

恋愛学用語②「バタフライ効果」

2つめの用語は、「バタフライ効果」です。バタフライ効果とは、生物学に由来する言葉で、蝶々の羽ばたきのような小さな動きがより大きな気象にまで影響を与える可能性があるというものです。「風が吹けば桶屋が儲かる」的に、小さな1つの現象が連鎖して、より大きな現象につながってゆくことを指すのですが、この小説に落とし込んで考えると、先生のひとつひとつの小さな「意思決定」が最終的にはKと先生の自殺につながってゆくさまを指します。この「バタフライ効果」にもっと簡単な名前をつけるならば「雪だるま効果」、「玉突き効果」、「ドミノ倒し効果」と呼ぶことも可能でしょう。

ちなみに、私たちは一日のうちで、何回くらい意思決定をしているかご存じですか? たとえば、何時に起きてどんな食事をしてどんな洋服を着るかといったものを含みます。コーネル大学のワンシンク博士らの研究によれば、食事に関するものだけでも一日で221回の意思決定を行なっているそうで、一日すべての意思決定を合計するとおおよそ35,000回になります。 

ひとつひとつは小さな意思決定なのですが、その小さな決断もドミノ倒しのように、より大きなものへと連鎖してゆき、最終的にはのちの人生に大きく影響を与える場合もあります。

たとえば、飲み会の幹事をした→飲み会の相手が最悪だった→飲みすぎて暴れた→翌日会社に遅刻した→仕事でミスした→むしゃくしゃした→他人と肩がぶつかった→ケンカした→警察沙汰になった→会社に解雇された、ということもありえない話ではありません。通常なら会社への遅刻は防げたし、他人と肩がぶつかったときに謝罪していれば問題が起こらなかったかもしれませんが、最悪な場合には、飲み会の幹事になったことが原因で、会社から解雇される事態もありえるのです。

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漱石の恋愛描写は私たち読者に納得できるものなのか?

この「バラフライ効果」に鑑みて、先生とKの恋愛に関する「意思決定」のひとつひとつがどのような理由で行なわれたのかについて詳細に検討する必要があります。とくに2人の自殺をもたらしたターニング・ポイントは何だったのかについて考えてみると、この小説がよく分かります。漱石もこの点に非常に腐心して描いたようですが、私たち現代人にはどうしても理解できない、釈然としない点も浮き彫りになっています。

つまり、ここで考察したいのは、

1. 登場人物は恋愛の分岐点で、どのような意思決定をしたのか?(漱石はどのような理由づけで恋愛の意思決定を描写しているのか?)
2. その意思決定は現代に生きる私たち読者によって納得できるものなのか?(私たち読者も先生やKと同じ状況になれば、同じ行動をとるであろうか?)

の2点です。
このような観点から先生とKの恋愛行動を検討しますが、『こころ』の中で私たち読者が違和感を覚え、必ずしも納得できない(ようにみえる)点は以下の6つになるかと思われます。後編では以下の6つのポイントを1つずつ詳述していきます。

ポイント① 先生がお嬢さんに恋した時点で行動をとらなかったこと
ポイント② 先生が「実は自分はお嬢さんが好き」とKに釘を刺さなかったこと
ポイント③ 先生がKからお嬢さんが好きって言われたときに、自分もそうだと言わなかったこと
ポイント④ 先生がKを出し抜いて、奥さんに直接「お嬢さんをください」と言ってしまったこと
ポイント⑤ Kが自殺してしまったこと
ポイント⑥ 先生が自殺してしまうこと

後編につづく

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