「ポストモダン文学」のあとで|佐々木敦『90年代論』第6回
阿部和重の登場
阿部和重は1968年、山形県の東根市神町で生まれました。上京して日本映画学校(現在の日本映画大学)で学び、卒業後も働きながらシナリオを書き続けていましたが、執筆中のシナリオが映画にするにはディテールを書き込み過ぎていることに気づき、自分はむしろ小説を書く方が向いているのではないかと思い至り、群像新人文学賞への応募をはじめ、「生ける屍の夜」というタイトルの作品で見事受賞を果たし(ちなみに三度目のトライだったそうです)、同作は『アメリカの夜』と改題されて群像の1994年6月号に掲載、阿部は小説家としてデビューすることになります。
よく知られている話ですが、阿部が働いていたのは当時渋谷の公園通りにあった西武百貨店系列の多目的ホール、シードホールでした。そう、保坂和志と同じです。今はなきこの場所は「都内S区」にある「Sホール」として『アメリカの夜』の舞台になっています(もちろんそのままというわけではありませんが)。また、この小説の語り手である「私」と主人公である「中山唯生」(両者はニアリーイコールともいうべき関係性にある)の誕生日は9月23日、秋分の日であり(このことは物語上、深い意味を持たされている)、それは阿部和重自身の誕生日でもある。というように『アメリカの夜』はかなりあからさまに一種の「私小説」として読まれることを目論んでいるかに見えるのですが、にもかかわらず発表当時はそのような読まれ方はほとんどされませんでした。この点はこの後の話とも関わってきます。
では『アメリカの夜』はどんな物語なのか。「私≒中山唯生」という語りの趣向を始め、デビュー作らしい初々しさとデビュー作とは思えぬ数々の巧緻な仕掛けが共存するこの作品のストーリーを要約するのは容易ではありませんし、ネタバレにもなってしまうのでごく簡潔に記すなら、「Sホール」でアルバイトをしている、自己承認欲求に苦しむ映画狂(シネフィル)の「中山唯生」が、自主映画を作ることによって「特別な存在」になろうと試みるが、空振りと空回りの果てに自滅/自爆する、という話です(身も蓋もない紹介になってしまい申し訳ない)。しかし、保坂和志の『プレーンソング』と同様、本論は文芸評論ではないので内容の細部には立ち入らず、阿部和重の登場が「90年代」とかかわる点について述べていきたいと思います。
この一文が『アメリカの夜』の書き出しです(未読の方はえ?ブルース・リー??と思うでしょうが、これはいわば「つかみ」であって物語本編とは繋がっていません)。この小説が新人賞受賞作として群像に掲載された時、柄谷行人の文体模倣だと多くの読者/評者から指摘されました。これは明らかに意図的であり、阿部はシネフィルであると同時に(この時代にシネフィルであるということは、ほぼ自動的に蓮實重彦の影響圏にあることを意味しています。この点はすぐ後に述べます)、文学/批評にかんしては、柄谷行人、後藤明生、大西巨人、大江健三郎などの名前を過去のインタビューなどでよく挙げています。柄谷と後藤は阿部が受賞した時の群像新人文学賞の選考委員でした。阿部にとっては群像新人賞でなければならなかったのです。
『アメリカの夜』は好評を持って迎えられ、芥川賞と三島賞の候補になりましたが受賞はしませんでした(阿部和重が「グランド・フィナーレ」で芥川賞を受賞するのはデビュー後十年も経った2005年のことです)。阿部は1995年に第二作「ABC戦争」を発表します。この小説の語り手である「わたし」は、初めて乗った山形新幹線(1992年開業)の車内アナウンスが日本語に続き英語で繰り返されるのを聞いて、「山形」と「Yamagata」を「それぞれ発音をかえて何度かつぶやいてみた」後、トイレの落書きで「今度は書かれた文字として「山形」と「Yamagata」の二語を発見します。
この調子でまだまだ続くのですが、『アメリカの夜』の断言調とはまた異なるこのウネウネとした文体と、Yamagataの〈Y〉の形象が理屈っぽくも厨房的な淫猥さに脱線していくさまは、蓮實重彦に始まるニッポンのテマティスム/テクスト論のパロディとして書かれているものと思われます(直接的には蓮實というよりも弟子筋の渡部直己や絓秀実でしょう)。後藤明生的なるものも入っている気がします。阿部はヌーヴェルヴァーグの発火点としても有名なフランスの映画雑誌カイエ・デュ・シネマの日本版として(やはり蓮實的シネフィリーの継承者というべき)梅本洋一を中心に創刊された「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」を主な媒体として映画批評も書き始めていましたが(同誌には私も書いていて阿部君と初めて出会ったのもカイエ絡みだった記憶があります)、第一作で柄谷、第二作で蓮實と、いわば創作においても血縁証明をしてみせたことになります(ちなみに第三作の「公爵夫人邸の午後のパーティー」は金井美恵子からの文体的影響が色濃く見出されます)。
蓮實と柄谷の時代
ここで重要なことは、蓮實重彦と柄谷行人が、80年代前半のニューアカ(ニュー・アカデミズム)の時代に、その旗手であった浅田彰との関係によって、文学/映画の批評/思想シーンに一気に浮上してきたという事実です。もちろん蓮實も柄谷も70年代に書き手としてデビューしていましたが、二人が(特に若い読者の)人気を獲得したのは明らかにニューアカ以降でした(このあたりのことについて詳しくは拙著『ニッポンの思想』をご参照ください)。
蓮實重彦は1988年に東京大学の教授に就任(周知のように1997年に総長にまで昇り詰めることになります)、映画批評誌「季刊リュミエール」(1985年創刊)の創刊と編集に携わり、私もその一員だった若きシネフィルに対して神のごとき影響力を確立する一方(ハスミ虫という言葉もありました)、中央公論社(現在の中央公論新社)から刊行されていた女性誌「marie claire(マリ・クレール)」の映画欄でも健筆を振るい、80年代後半には一般的な知名度も持っていました。「季刊リュミエール」は1988年に休刊になりましたが、1991年に同じ版元の筑摩書房から東大表象文化論の所属/出身の書き手を多く起用した「表象 ルプレザンタシオン」を創刊、高橋康也、渡邊守章とともに編集委員を務めます(年二回、5号で終刊)。文芸批評家としては、80年代に入った時点で、『夏目漱石論』『大江健三郎論』、志賀直哉、藤枝静男、安岡章太郎を論じた『私小説を読む』などの作家論はありましたが(それにそもそも彼はフローベールの研究者なわけですが)、1982年から1996年まで福武書店(現在のベネッセホールディングス)から刊行されていた月刊文芸誌「海燕」(ちなみに島田雅彦と吉本ばななはこの雑誌からデビュー、他の同誌出身者には角田光代や小川洋子がいます)に、井上ひさし、丸谷才一、村上春樹、大江健三郎、中上健次、村上龍、高橋源一郎など同時代の小説家を論じた長編評論『小説から遠く離れて』を連載(1988年に単行本として刊行)、また季刊文芸誌「文藝」で1990年~1992年の文芸時評を担当するなど(『絶対文藝時評宣言』として1994年に刊行)、映画ほどではありませんが、その影響力の磁場は拡大していました。
柄谷行人は80年代に『日本近代文学の起源』『隠喩としての建築』『批評とポストモダン』『内省と遡行』『探究I/II』を立ち続けに刊行し、海外の最新の動向ともシンクロする新たな批評の担い手としてニッポンの文学/批評/思想界に確固たる地位を築いていました。1989年に鈴木忠志、市川浩とともに編集委員を務める批評誌「季刊思潮」を創刊、第3号からは浅田彰も編集委員に加わります。同誌は第8号をもって終刊しましたが、1991年に浅田と実質的な後継誌である「批評空間」を創刊します(この年、第四回で触れた「湾岸戦争に反対する文学者声明」の発起人ーー実質的な代表?ーーになっています)。「批評空間」はニューアカの流れを組む90年代の人文系シーンにおいて絶大なる人気を博し、周知のように東浩紀は同誌でデビューしています。ちょっと時間が跳びますが、阿部和重は1988年から2000年にかけて「批評空間」に長編小説『プラスティック・ソウル』を連載しますが、書籍化されるのは2006年のことです(同作は「批評空間」の二つしかない連載小説のひとつで、もう一作は多和田葉子の『聖女伝説』)。「批評空間」は福武書店→太田出版→批評空間社と版元を移して第3期まで継続し、批評空間社の代表で「批評空間」編集長だった内藤裕治の急逝により2002年7月に休刊することになります。90年代以降(実際には80年代の時点ですでに)、柄谷は同時代の日本文学のことは全くと言っていいほど論じていませんが(自他共に認める「朋友」であった中上健次が1992年に早逝したことも大きかったと思われます)、群像新人文学賞や野間文芸新人賞といった有力な文学賞の選考委員は続けており(なかなか象徴的な事実ですが、ともに1999年をもって退任しています)、絓秀実や福田和也といった「批評空間」にも執筆していた現役バリバリの文芸批評家とたびたび対談・鼎談を行うなどして、文壇に隠然、いや歴然たる権勢を保持し続けていました。
ヤンキー化するポストモダン
阿部和重は、蓮實重彦と柄谷行人という二大巨塔の刻印を明確に身に纏って登場したという意味で、80年代に芽吹いたニューアカ的なるものの90年代に突然現れた嫡子と呼んでもいい存在です。しかし彼はアカデミシャンではなく、その知のありようは広い意味でのアカデミズムとは隔絶しています。それは「アメリカの夜」で柄谷文体と組み合わされていたのがブルース・リーであり、「ABC戦争」で蓮實風詭弁を惹き起こすのが便所の落書きであったことでも明らかです。
この点で阿部は、デビューは4年違いですが年齢的には一回り上である保坂和志とはまた別のかたちで、80年代と連続しつつも断線する90年代という時代を代表する作家だと言えます。前回述べたように、保坂和志は1956年生まれであり、浅田彰よりも一歳年上です。しかしおそらく、だからこそ保坂は「ニューアカ的なるもの」への「批判」でもあるような小説を書いた。けれども、私がそうなのですがニューアカ直撃世代(『構造と力』出版時に大学一年)よりは少し年下で、80年代前半にはまだ山形にいた阿部の場合、柄谷や蓮實へのリスペクトには、ある種の屈託のなさが伺えます。しかしこの屈託なさこそが阿部の小説を「ニューアカ的なるもの」の系譜から切断する。いわば彼は「ニューアカ」から「アカ」を抜き去ってみせることで、かつてない「ニュー」な存在として現れたのです。
教養や発想の基盤は「80年代」に多くを負っていながら、阿部和重の小説は「80年代作家」とは多くの点で異なっています。『風の歌を聴け』や『さようなら、ギャングたち』や『優しいサヨクのための嬉遊曲』の語り手=主人公がごく普通に持っていたものを阿部の登場人物は持っていない。学歴も金も職もない。彼らはエリートではない。そこに出てくるのは、ヤンキーであり、チーマーです。ドロップアウトさえしていない。大きな何かに包まれたことがない者にはその何かに反抗することも決別することも許されない。「神の恩寵」(前回参照)は、もうどこにもない。阿部和重の小説は「90年代」のリアルにおける「80年代」の不可能性を逆説的に晒け出す。それはチーマー化したニューアカであり、ヤンキー化するポストモダンなのです。
90年代後半になると、阿部和重は、より正しく言うと彼を取り巻く日本現代文学の状況は、更に変化を遂げていきます。本人の意志とは無関係に、彼は90年代末に一瞬盛り上がった「J文学」というムーヴメントの旗頭になってしまうのですが、このことは本連載の後半で述べたいと思います。
真性のポストモダン作家、京極夏彦
ところで、阿部和重の「アメリカの夜」が雑誌に掲載された数ヶ月後に、ある新人作家のデビュー作が前触れなしに書店に並び、センセーションを巻き起こします。京極夏彦の『姑獲鳥の夏』です。阿部と京極は1994年の同年デビューなのです。今や日本でもっとも有名な作家のひとりである京極ですが、その登場も異例かつ破格でした。京極は桑沢デザイン研究所卒で、グラフィック・デザイナーとして仕事をしていましたが、ある時思い立って『姑獲鳥の夏』を書き上げ、ダメ元で講談社に原稿を持ち込んだところ、まったくの素人だったにもかかわらずいきなり講談社ノベルスからのデビューが決定、読み方さえすぐにはわからない『姑獲鳥の夏』は発売されるやいなやミステリファンから絶賛を浴び、京極はのちに「百鬼夜行シリーズ」と称されることになる連作をハイペースで発表、たちまち人気作家になるとシリーズ以外の作品も続々と書き始め、あとはご承知の通りです。
『姑獲鳥の夏』に始まる「百鬼夜行シリーズ」は、東京中野の古本屋「京極堂」店主、中禅寺秋彦を主な探偵役とする連作です。中禅寺は古本屋であると同時に陰陽師でもあり、副業として憑物落としの拝み屋も営んでいます。一見、妖怪の仕業(=超常現象)としか思えない奇怪な殺人事件が起こり、捜査は困難と混迷を極めるが、最後には京極堂が博覧強記と卓越した推理力によって合理的な解決に導く、というのが基本パターンで、ここ一番で中禅寺が口にする「この世には不思議なことなど何もないのだよ」が決め台詞です。
つまり、それは超常現象などではなかった、妖怪ではなく、人間の仕業だった、ということです。「百鬼夜行シリーズ」は「妖怪小説」と呼ばれることもありますが、実は本物の妖怪は出てこない。「不思議なことなど何も」起こりません。すべての謎は現実レベルで処理されます。この点でいわゆる「本格ミステリ」の範疇に留まっており、だからこそ「新本格ミステリ」の総本山である講談社ノベルスからデビューとなったわけです。
ミステリ、それも「本格ミステリ」と呼ばれる小説は、極めてジャンル性の強い分野です。そこには脈々と連なる歴史性と、その中で制定されてきた強い拘束性のある決まり事があり、学術論文にも似た先行作品群への配慮と応接が必要とされます。特に種々のトリック(密室や人間消失など)はそうで、「先例がある」ということがその小説を全否定する根拠にされたり、既存のトリックを応用する場合もそれなりのエクスキューズや戦略がないと瑕疵と見做されることが少なくありません。ところが京極夏彦の「ミステリ」にはトリックがほとんどありません。いや、もちろんあるにはあるのですが、そこには「本格ミステリ」というジャンルへの信奉が根本的に抜け落ちているように思われるのです。もちろん京極が「本格ミステリ」を軽視したり嫌悪しているということではありません。しかしそのジャンルとしての特性上、一種のモダニズムと言ってよい「先行例を踏まえたアップデート」を不断に続けてきた/いる「本格ミステリ/新本格ミステリ」と彼の作品はやはり違います。確かに80年代に勃興した「新本格」は「本格」に対する批評的/批判的な、メタ的なベクトルを有していましたが(特に麻耶雄嵩)、京極の「妖怪小説」はそれらとも違う。もっとあっけらかんとした、だが確信と自信に満ちたちゃぶ台返しの感じなのです。それは『姑獲鳥の夏』のメイントリック(?)と「真相」にも顕著であり、ネタバレになるのでここでは何も書きませんが、それは「この世には不思議なことなど何もないのだよ」だけでなく、あたかも「この世には新しいことなど何もないのだよ」と言わんがばかりに思えるのです。
この世には新しいことなど何もない、これこそポストモダンです。私はかねてより、京極夏彦は真性のポストモダン作家だと思ってきました。それはトリックについてだけではなく、物語の構造そのものにも言えます。「百鬼夜行シリーズ」のその後の作品では、やたらと込み入った複雑怪奇な一連の(というか連なっていないかに見える)事件が、解きほぐしてみると、複数の登場人物の事情や思惑や策略の網の目=ネットワークによって個々人の意志を超えていわば「産出」されていた、というパターンが多く見られるようになります。このような「主体無き出来事の生成」もポストモダン的です。また、泉鏡花賞を受賞した 『嗤う伊右衛門』(1997年)に始まる「江戸怪談シリーズ」は、古典的な怪談を換骨奪胎して、時代設定は変えずに現代化するという試みで、同様のスタイルは海外のポストモダン小説に多く見られます。妖怪や怪談を題材にしているのでつい騙されてしまいますが、京極夏彦も保坂和志や阿部和重と同じく、ポストモダンとポストモダン以後を、「80年代」と「90年代」を、独自の仕方で架橋する小説家だと言っていいと思います。
『姑獲鳥の夏』と京極夏彦は版元である講談社にも衝撃を与え、その後、講談社ノベルスはいわゆる「持ち込み」を制度化し、常時投稿を受け付けて、選考委員抜きで編集者たちが審議してデビューを決める「メフィスト賞」を設立、その第一回受賞者として森博嗣『すべてがFになる』(1996年)が選ばれます。犯人も探偵も助手もみんな天才、天才しか出てこないミステリです。森はデビュー当時は名古屋大学の理工系大学院の助教授(現在の准教授)でした。ちなみに彼は浅田彰と同じ1957年生まれです。京極夏彦に続き森博嗣というおそろしく生産力の高い(京極と同様、森もデビュー後、凄まじいスピードで新作を発表していきます)ヒットメイカーが出たことで講談社ノベルスとメフィスト賞には大いに弾みがつき、その後も第二回受賞の清涼院流水など次々とユニークなミステリの書き手を輩出(それはそのまま「新/本格/ミステリ」というジャンルを拡張するプロセスでもありました)、2001年には『煙か土か食い物』の舞城王太郎と『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』の佐藤友哉を連続して送り出してミステリと純文学の交差点を準備し、そして2002年に『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』で西尾維新という怪物を生み出すことになるのですが、これらはゼロ年代に入ってからのこと、本論の守備範囲外です(ご興味のある方は拙著『ニッポンの文学』をぜひお読みください)。