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ウクライナ侵攻を間接的に招いたのはアフガニスタンの政権崩壊? カブール陥落から2年の今。

二〇二二年二月二四日、ウクライナ戦争の勃発により、世界がアフガニスタンに向ける関心が薄れた感があります。しかし、二〇二一年八月十五日に首都・カブール(本書では現地の発音に倣って「カーブル」と表記)が陥落してからアフガニスタン社会は大きく変化し、人々は多くの困難に直面していますが、その実態はあまり伝えられていません。平和な農業立国であったアフガニスタンは、なぜこのような状況に陥ってしまったのでしょうか。本記事では、青木健太氏による光文社新書七月の新刊『アフガニスタンの素顔 「文明の十字路」の肖像』より、まえがきと目次を公開します。

まえがき

「文明の十字路」、あるいは「帝国の墓場」

国連が運航する双発型小型プロペラ飛行機に揺られながら、私がアフガニスタンの首都カーブルに初めて着陸したのは二〇〇五年一一月の晩秋のことだった。機内の窓からは、褶曲山脈の谷間に点在する土でできた家々、白い冠を頂いたヒンドゥー・クシュ山脈の尾根、そして「荒涼とした土漠」と表現する他ない、赤茶けた大地が広がっていた。時々の超大国が一度たりとて攻略することができなかった同国の歴史に興味を持った私は、ラピス・ラズリ(青金石)の瑠璃色に吸い込まれるように、アフガニスタンに惹き込まれていった。

中東と南西アジアと中央アジアの結節点に位置するアフガニスタンは、英国の歴史家アーノルド・トインビーが評したように「文明の十字路」である。
紀元前六世紀には、アケメネス朝ペルシャでゾロアスター教(拝火教としても知られる)が信仰され、紀元前四世紀にはアレクサンダー大王の東方遠征がギリシャ文化と仏教文化とを融合したヘレニズム文化をこの地にもたらした。三世紀頃からは中央高地バーミヤーンの大仏に代表されるような仏教文明が隆盛を誇り、その後はアラブ世界からの影響を受けてイスラーム化が進んだ。

そこに暮らす人々は、外部からの来訪者に極度の警戒心を持つ一方で、客人に対してはこの上ない歓待をする独自の部族文化を育んできた。街中を移動しながら、青い瞳を持つギリシャ人のような顔つきでペラハーン・トンボーン(アフガニスタンの男性が着る民族衣装)を身に纏うアフガニスタン人の姿を見るにつけ、ここはあらゆる文明が行き交った場所だったのだと痛感したものである。

そのような歴史を有するアフガニスタンだが、こうした様々な文明の往来は同国を豊かにしたというよりは、むしろ幾多の災厄をもたらした。このことは、アフガニスタンの近現代史を振り返れば一目瞭然である。

一九世紀、南下を目指すロシア帝国と、これを抑え込みたい英領インドとの間でグレート・ゲームと呼ばれる角逐が勃発し、アフガニスタンは緩衝地帯を形成した。二〇世紀後半に下ると、当時のアメリカとソビエト連邦との間での冷戦構造の下、両大国間での代理戦争の舞台としての役目を担わされた。そして二一世紀に入り、二〇〇一年九月一一日に発生したアメリカ同時多発テロ事件を受け、「テロとの戦い」の最前線となった。

これらのいずれの戦いでも、勇猛さと自主独立の気風を重んずるアフガニスタンの諸部族は「異教徒との聖戦」に立ち上がり、人員や装備の面では劣勢にあったものの幾度も撃退した。大英帝国、ソ連、そしてアメリカが、この地で敗北を喫した。「帝国の墓場」と呼ばれる所以である。

多くの異なる文明がアフガニスタンを行き交い、あるものは通り過ぎ、あるものはアフガニスタンに根づいた。しかし、アフガニスタンの現状は、多文化・民族が多様性を尊重し合い平和的に共存する理想郷とはほど遠い。実際は、大国の介入と干渉によって、国土は荒れ果て、長引く紛争により民族間での不信感が根を張り、それに伴い、多くの旧政府高官・知識人・難民が国外に逃れるという、豊かさとはあまりにもかけ離れた惨状だけがある。

子どもを抱くアフガニスタンの女性(パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=475191)

ターリバーンの捲土重来と社会の激変

二〇二一年四月一四日のバイデン米大統領による軍撤退発表を受けて、ターリバーン(神学生の意。語義は、道を求めるもの)は特に農村部での軍事攻勢を激化させた。前年の二〇二〇年二月二九日にアメリカとターリバーンとの間で締結されたドーハ合意をもとに、ターリバーンはアメリカに軍の完全撤退を要求しつつ、アフガニスタン・イスラーム共和国に対する軍事攻勢の手綱を緩めない硬軟両戦術を続けた。遂に八月一五日、ターリバーンは首都カーブルを陥落させ、ほぼ全土を制圧した。

これによってイスラーム共和国政府は事実上崩壊し、ターリバーン第二期「政権」が実効支配を開始した。これによって、私の限られた知識だけから見ても、アフガニスタン社会は激変している。復権したターリバーンは九月七日に暫定内閣を発表したが、その顔ぶれはほぼすべてターリバーン構成員であり最大民族パシュトゥーン人がほとんどの閣僚を独占した。他民族への権力分与はなされていないに等しく、イスラーム共和国の政治有力者は冷や飯を食わされている。

欧米や日本のメディアは、ターリバーンによる女子学校の閉鎖、マハラム(女性にとって近親の男性家族構成員)の同伴なしでの外出制限、理髪店に男性の髭を剃らないよう出した通達などについて様々に報じている。シャリーア(イスラーム法。語義は、水場へと至る道)に則った社会づくりを標榜するターリバーンが実権を掌握したことで、それまでは認められた芸術家や人権活動家の活動はハラーム(不法、禁忌)だとして禁じられた。これに伴い、ターリバーンからの深刻な脅威に晒される人々が、イスラーム共和国政府の高官・公務員や諸外国に協力した人々とともに国外に大量に流出した。それは、現在も続いている。

何故、ザーヒル・シャー国王(在位一九三三~一九七三年)が君臨する立憲君主制下で、決して豊かでないながらも平和を享受していたアフガニスタンは、今日まで続く紛争に直面したのだろうか。ターリバーン復権後のアフガニスタンは今、一体どのような状況であろうか。そして、将来のアフガニスタンはどうなるだろうか。

(中略)

ロシアによるウクライナ侵攻(二〇二二年二月二四日)を経て、世界の分断が急速に進み、新たな秩序が立ち現れ始めている。アフガニスタンと如何に向き合うかは、このように国際秩序が驚くべきスピードで揺れ動く中、対話や妥協を通じて、如何に考えの異なる集団が共存できるのかを占う試金石であるように私には思われる。本書が、アフガニスタンと現在の国際情勢についての理解を深めたいと考える読者諸賢にとって、多少なりとも理解の助けとなり、ひいてはアフガニスタン和平を達するための道標となれば、私にとってこの上ない喜びである。

目次

まえがき  
一章 アフガニスタン和平実現に向けた取り組み 
第二章 ターリバーン暫定政権による統治 
第三章 「自由と独立」を求める反ターリバーン運動
第四章 激変する社会 対談:安井浩美 × 青木健太 
第五章 国外退避する人々 
第六章 陸封国の対外関係と日本が果たすべき役割 
終章 自己の模索への旅 
あとがき  
付録1 ターリバーン暫定政権の閣僚リスト  
付録2 ターリバーン暫定政権以外の主要な人物  

アフガニスタンのリアルを伝えるコラム5編も収録
コラム① アフガニスタンの地理的条件  
コラム② アフガニスタンの言語事情 
コラム③ アフガニスタンの人間関係と社会構造  
コラム④ あまり知られていないアフガニスタンの食文化 
コラム⑤ アフガニスタンの女性たち 

著者紹介

青木健太(あおきけんた)
1979年東京生まれ。公益財団法人中東調査会研究主幹。上智大学卒業。英ブラッドフォード大学大学院平和学修士課程修了(平和学修士)。専門は現代アフガニスタン・イラン政治。2005年から国連開発計画・アフガニスタン政府省庁合同事業アドバイザー、在アフガニスタン日本国大使館書記官などとして同国で約7年間勤務。帰国後、外務省国際情報統括官組織専門分析員、お茶の水女子大学講師を経て現職。著書に、『タリバン台頭』(岩波新書)、『アフガニスタンを知るための70章』(分担執筆、明石書店)、『ハイブリッドな国家建設』(分担執筆、ナカニシヤ出版)、Quad Plus and Indo-Pacific (Co-author, Routledge)、他。


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