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「文春砲」を逆取材! 柳澤健『2016年の週刊文春』、序章を先出し公開します。

12月16日にノンフィクションライター柳澤健さんの新刊、
『2016年の週刊文春』
が発売になります。早い書店さんには、今日の夕方くらいから並ぶところもあるそうです。
キャッチコピーは、

いま、日本で最も恐れられる雑誌と、愚直な男たちの物語――。

花田紀凱さんと新谷学さんという、ふたりの名編集長への徹底取材を軸に、昭和、平成、令和の週刊誌とスクープの現場を描く痛快無比のノンフィクションです。
(この本、四六版ハードカバーですが、新書編集部からの刊行となります)発売前から、プルーフをお読みいただいた水道橋博士さんがTwitter上でも絶賛してくださいました。
博士、本当にありがとうございます……(涙)。

刊行を記念して、本書の序章「編集長への処分」をこのnoteにて公開させていただきます。
いきなり「休養処分」になる編集長――。
この続きは、ぜひ書店さんで手にとっていただけると幸いです。
ちょっと厚めの本ですが、年末年始じっくり読んでいただけるとうれしく思います。それでは、どうぞ!

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序章 編集長への処分

二人の名編集長――新谷学と花田紀凱

「はい、校了しました。お疲れさま」

新谷学編集長が、最後まで待機していた記者と担当デスクに声をかけた。
『週刊文春』二〇一五年一〇月一五日号の編集作業が完了したのだ。
校了とは、ゲラと呼ばれる校正刷りが編集部の手を離れて印刷所に回ることを意味する。

記者が書いた原稿に、担当デスクが手を入れてゲラにする。ゲラを校閲部に回し、文字の間違いや事実関係の誤りがないかをチェックする。訴訟沙汰になりそうな記事は、法務部を通じて顧問弁護士に確認してもらう。

すべてのチェックが終わったゲラを最終的に編集長が確認し、校了の判断をする。

株式会社文藝春秋が発行する『週刊文春』の発行部数は約六七万部(二〇一五年下半期。日本ABC協会調べ)。一般誌ではトップの数字である。

一八〇ページ前後の雑誌を七〇万部近く印刷するから、校了は数回に分かれる。発売日は木曜日で、最終校了は火曜日の夜八時から九時の間。直後から、凸版印刷は夜を徹して印刷と製本を行う。水曜日昼前に編集部に見本が届く頃には、すでに雑誌を満載した何台ものトラックが印刷所を出発している。

このようなプロセスを経て、書店やコンビニエンスストア、駅の売店での全国一斉発売(北海道と九州は金曜日)が初めて可能となるのだ。
週刊誌には巨額の経費がかかる。紙代、印刷代、デザイン費、輸送費、取次(雑誌・書籍の問屋にあたる)や書店への支払い、宣伝広告費、原稿料、編集部および校閲部、営業部、広告部など社員の人件費、取材経費、交通費、残業時の食事代まで、すべてひっくるめて一号あたり約一億円といわれる。

『週刊文春』編集長の仕事とは、毎週毎週、億のカネを使って大バクチを打つことなのだ。

編集部員は六〇名弱。三つの班に分かれる。

連載読物を担当するのはセクション班。〝セクション〟の由来は誰も知らない。林真理子のエッセイ、阿川佐和子の対談、伊集院静の人生相談、村山由佳の小説、東海林さだおのマンガ、世評の高い書評欄など、充実した読物が並ぶ。和田誠が描く表紙イラストは四〇年以上も続き、『週刊文春』の顔となっている。

セクション班九名の編集者の仕事は筆者に寄り添い、励まし、褒め称え、ネタを提供し、時に疑問点や修正点を指摘することだ。親密になったほうがいいが、友人であってはならない。編集者は筆者の〝才能〟とつきあう。雑誌には新陳代謝が必要だ。連載はいつか終わる。永遠に続く連載などない。

密かな人気企画〈淑女の雑誌から〉は、第一〇代編集長村田耕二の発案。新人男性社員が担当する決まりだ。女性週刊誌や女子中高生が読むティーン誌など数十冊を購入し、エロチックな記事を血眼で探して数行で抜粋し、一行の笑えるオチを徹夜で考える。私が担当していた八〇年代半ばのある日、別の部署にいた先輩社員の佐藤敏雄さんがわざわざやってきてこう言った。

「柳澤くんの〝淑女〟はおもしろいよ。淑女をおもしろく作れないヤツは何をやらせてもダメだ。僕は歴代の淑女担当者を毎週採点して通信簿を作っているんだ」

褒められてうれしいよりも恐ろしくなった。周囲は新入社員のごく小さな仕事をちゃんと見ていて、こいつはどのくらいできるヤツなのかを値踏みしているのだ。

カラーとモノクロ、両方のグラビアを担当するのがグラビア班。

巻頭の〈原色美女図鑑〉は、一流カメラマンが撮影することもあって、多くの女優やタレント、モデルが登場を切望するページだ。

年末年始の合併号に掲載される〈顔面相似形〉は似たもの同士の写真を大量に並べた大人気企画。一一月になると、担当者は『週刊文春』誌上や社内メールでプランを募集し、雑誌や図鑑、画集、さらにはインターネットでそっくりさんを探し回る。初代担当者は私だった。

写真に添えられる短文は、すべてグラビア班員八名が一晩で書く。

「面白い文章を書くセンスはかけっこの速さのように生まれつきのもので、努力ではどうにもならない」と、原色美女図鑑と顔面相似形を命名したかつての名デスク西川清史(のちに文藝春秋副社長)は語る。

一九八九年夏、西川デスクは全国各地に誕生したウォータースライダーにカメラマンを派遣し、滑り落ちる水着女性の写真を見開きページにいくつも並べ、〈真夏の風物詩、流しウーメン〉というタイトルをつけて顰蹙を買った。ソウルで起きた暴動事件のタイトルは〈コリア大変!〉だったから、韓国大使館からふざけるなと猛抗議がきた。

だが、週刊誌の花形はなんといっても特集記事だ。

電車の中吊り広告に大きな活字で掲げられるのは、ほぼ特集記事のタイトルである。

一九八四年の〈疑惑の銃弾〉はあまりにも有名だ。ロサンゼルスで起こった日本人女性銃撃事件は、じつは保険金殺人ではないかという『週刊文春』(白石勝編集長)の報道は大きな反響を呼び、テレビや新聞は首謀者と名指しされた被害者の夫、三浦和義を大挙して追い回した。

一九八九年の〈女子高生惨殺事件 第2弾 加害者の名前も公表せよ!〉は、少年数名が女子高生を強姦し監禁し暴行した末に殺害し、あげくの果てには遺体をドラム缶に入れてコンクリートで固めて遺棄するという常軌を逸した事件であり、『週刊文春』は未成年者の実名報道にあえて踏み切った。「野獣に人権はない」という花田紀凱編集長の発言は、少年法をめぐって大きな論議を呼んだ。

編集部員の六割近くを占める三六名が所属する特集班は、右のような大スクープを狙って情報を収集し、地を這う取材を続けている。

毎週のように事件を追い、スクープを狙う特集班の仕事はつらい。プラン会議では毎週五本の独自ネタの提出を求められ、取材が始まれば夜を徹した張り込みや直撃取材が続き、最後には徹夜の原稿書きが待っているからだ。

花田紀凱は『週刊文春』を野球にたとえる。特集は攻撃だ。誰もが驚くようなスクープで新しい読者を呼び込む。グラビアやセクションは守備だ。見て楽しい写真記事やおもしろく役に立つ読物を並べて『週刊文春』を好きになってもらい、定期購読につなげる。

編集長は監督である。編集部員のそれぞれの個性や適性、得手不得手を把握し、最大限の能力を引き出すためにセクション、グラビア、特集の各班に正しく配置して、最強のチームを作り上げる。

花田編集長時代の『週刊文春』にいた頃の私は、多少気の利いた文章が書けるだけで、取材力はまるでなかったから、花田編集長は私をグラビア班に置いた。打てないヤツは代走や守備固めで使えばいい、ということだ。

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社長のことを「社長」と呼ばない

話を二〇一五年に戻そう。

新谷学編集長率いる『週刊文春』編集部の士気は一様に高い、と文藝春秋総務局長の内田博人は語る。

「年に一度、異動の希望を社員全員にとりますが、週刊文春編集部から出してほしいという声はまったく聞かない。激務にもかかわらず、誰もが仕事に張り合いを感じてくれている。若い部員に聞くと、決してラクではないけれど、精神を病むような職場ではないと言います。編集長がうまく雰囲気を作っているんでしょう。二カ月に一度は、まとまった休みも順番でとっています。新谷くん自身は出ずっぱりで、全然休んでいませんけどね(笑)」

『週刊文春』のデスクは八名。各記事の現場監督の役割だ。

特集班デスクの渡邉庸三は「新谷さんには隠しごとや私利私欲がないから、すっきりした気持ちで働ける」と証言する。

「新谷さんは指揮命令系統という言葉をよく使う。『週刊文春』の編集部員はたかだか六〇名弱ですけど、ウチの会社では一番大きい組織。それだけの人数を動かすためには、指揮命令系統が重要なんです。軍隊みたいに聞こえたらイヤなんですけど。編集長がデスクを飛び越えて現場に指示することはないし、現場がデスクを飛び越えて編集長に相談することもない。デスクの知らないところで、現場と編集長が直接つながることがないから、すべてが明快で、誰もがすっきりした気持ちで働けるんです」

文藝春秋は家族的で明るい会社だ。ライバルの新潮社と比べても圧倒的に明るい。受付の雰囲気からして違う。新潮社の受付嬢は制服を着た若い女性だが、文春は元編集者や元業務のベテラン女性社員が私服でニコニコしながら応対する。評判は極めていい。

以前あった電話交換も声よし、感じよし、対応よしと三拍子揃っていたから、合理化でダイヤルインになった時は誰もが惜しんだ。

社員持株会社である文藝春秋には、新潮社の佐藤一族や講談社の野間一族、小学館の相賀一族のようなオーナーはいない。

二〇一五年当時の社長は松井清人だが、新入社員さえ「社長」とは呼ばず、「松井さん」と呼ぶ。同様に、新谷学が社内で「編集長」と呼ばれることも決してない。トップから新入社員に至るまで、誰もが自分の会社だと思っているから、夜遅くまでワイワイガヤガヤやっている。一年三六五日、学園祭をやっているようなノリが文春にはある。

新谷学は、そんな明るい空気を胸いっぱいに吸い込んで育った。

一九六四年九月一日群馬生まれの八王子育ち。早稲田大学政経学部卒。中学、高校では野球部、大学ではヨット部に所属していたからだろう、浅黒い肌と引きしまった身体は、書斎派の多い文春の中では異色だ。

入社は一九八九(平成元)年四月。百倍以上の倍率を見事に突破したが、履歴書の「よく読む雑誌」の欄に〝週間文春〟と書いて面接官から呆れられた。

最初に配属された『スポーツ・グラフィック ナンバー』編集部の冷蔵庫には大量のビールが入っていて、午後五時を過ぎれば飲みながら仕事をしても構わないという不文律があったから驚いた。

二年後に私が『ナンバー』に異動してきた頃、新谷はすでに編集部でやりたい放題だった。「四歳下の後輩に負けたら生きていけないからがんばろう」と思ったことを覚えている。

『週刊文春』に新谷が配属されたのは三〇歳と遅かったが、すぐに右トップ(その週でもっとも重要な記事)の書き手をまかされ、二年も経たないうちにエース記者となった。

中心メンバーとして創刊準備から関わったビジュアル雑誌『Title』ではわずか一年で異動を命じられるという挫折を経験したが、三六歳で復帰した『週刊文春』ではデスクとなり、凄腕の特派記者たちを率いて暴れ回った。

現職総理大臣の小泉純一郎が歴史小説家の池宮彰一郞のファンであることを聞きつけると、旧知の飯島勲内閣総理大臣秘書官に頼み込んで、ふたりの対談を実現させた。

「編集者に求められる最大の能力は企画力。いま、週刊文春は何を扱えばいいのかをプランとして出す。プランの元となるのは人脈です。新谷くんは若いうちから人脈形成を心がけ、深い人間関係を築き上げてきた」(花田紀凱)

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親しき仲にもスキャンダル

だがその一方で、小泉内閣の大島理森農水大臣を秘書の金銭授受疑惑で、福田康夫官房長官を年金未納問題で、いずれも辞任に追い込んだ。

当然のように官邸との太いパイプは切れてしまったが、新谷は意に介さなかった。「親しき仲にもスキャンダル」が新谷のモットーだ。人間関係があろうがなかろうが、書くべきことは書く。壊れた関係は、いずれ修復すればいい。閣僚を次々に辞職に追い込む新谷班は〝殺しの軍団〟の異名をとった。
『週刊文春』が総合週刊誌の発行部数トップに立ったのはこの頃、二〇〇四年のことだ。

少し前から、報道される側の人権がより重く、報道の自由がより軽く扱われるようになり、メディアが敗訴した場合には、以前では考えられないほど高額の賠償金の支払いが命じられた。

『週刊文春』が田中眞紀子長女の離婚を報じた際には、東京地裁が販売差し止め仮処分申請を認めたから(二〇〇四年三月。のちに東京高裁によって取り消された)、出版関係者に大きなショックを与えた。

手間とヒマとカネをかけてようやく手に入れたスクープの代償が高額の賠償金では割に合わない。『週刊ポスト』と『週刊現代』は訴訟リスクを避け、スクープを狙う戦場から撤退していった。

一九九〇年代に一世を風靡したヘアヌードもすでに飽きられていたから、両誌の発行部数は急落した。読者は正直だ。

一方、女性読者に配慮してヘアヌードを掲載せず、訴訟を恐れずにスクープを狙い続けた『週刊文春』の部数は踏みとどまった。花田編集長時代のような七〇万部を超える部数ではすでになかったが、他誌の急落によってトップに立ったのだ。

新谷デスクは、週刊誌受難の時代に最前線で戦っていた。

安倍晋三から三回、独占手記をスクープ

文春社員が〝本誌〟と呼ぶ月刊『文藝春秋』に異動すると政治担当となり、安倍晋三からは、総理(第一次)になる直前、在職中、辞職直後と計三回も手記をとっている。

ずっと雑誌の世界で生きてきたから、単行本を作る出版部への異動を命じられた時にはショックを受けたが、売り上げや重版率がすぐに数字で出てくる個人プレーの面白さに気づいて俄然やる気を出し、一年に一六冊も本を作った。

出町譲『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(八万部)や白澤卓二『100歳までボケない101の方法』(三五万部)は大いに話題を呼び、『ヤクザと原発 福島第一潜入記』を書いた鈴木智彦や『父・金正日と私 金正男独占告白』を書いた五味洋治は外国特派員協会に呼ばれ講演を行った。本は作るだけでは売れないと、新聞やテレビや雑誌の知人に頼み、著者と一緒にプロモーションに精を出した。担当した文春新書が合計一〇〇万部以上を売り上げたから、印刷する理想社が大いに喜んで祝宴を開いてくれた。

仕事も遊びも徹底的にやるから、酒の失敗は枚挙に遑がない。

酔っ払って階段から転がり落ちて頭蓋底骨折と髄液漏で死にかけたことも、転んで足を骨折して全治六カ月の診断を受け、一二本のボルトで骨を固定したこともある。

二〇〇九年夏、湘南の海で友人とバーベキューをして急性アルコール中毒になった時には、七歳の息子に「これ以上飲んだら、父ちゃん死んじゃうよ!」と泣かれて、以後酒はきっぱりと断った。

仕事でも遊びでも嵐を呼ぶ男が『週刊文春』の編集長に就任したのは二〇一二年四月のこと。

休みは一日もない。校了と会議の合間を見つけては各分野のキーマンに会いに出かけ、編集長自ら情報収集に励む。

特集記事のタイトルには、編集部員六〇名弱、いや文藝春秋三五〇名の社員たちの生活がかかっているから、編集長は一日中、時には夜を徹して必死に考え続ける。週刊誌の編集長は命を削る仕事、とは経験者の言葉だ。

新谷が編集長に就任した直後の『週刊文春』は、〈小沢一郎 妻からの「離縁状」〉(二〇一二年六月二一日号)と〈巨人原監督が元暴力団員に一億円払っていた!〉(同年六月二八日号)の大スクープのお蔭で二号続けて完売(実売八〇%超)を記録した。

だがその頃、スマートフォンの普及と紙媒体の衰退は急速に進んでいた。通勤電車で新聞や雑誌を広げる乗客は激減し、中学生までもがスマホの画面をフリックしてLINEの返信に精を出していた。

大きな話題を呼び、以前ならば当然完売したであろうASKA(チャゲ&飛鳥)の覚醒剤疑惑独占告白(二〇一三年一〇月一七日号)も、〈全聾の作曲家 佐村河内守はペテン師だった!〉(二〇一四年二月一三日号)も、清原和博の薬物疑惑報道(二〇一四年三月一三日号)も完売には至らなかった。
多忙を極める中、新谷学は二〇一四年四月にさらに新しい仕事を増やした。

『週刊文春デジタル』である。

「編集長になる以前から、紙のメディアがキツくなることはわかっていました。ネットニュース、事故現場の映像、ゲームやドラマ、スポーツ、あらゆる情報がフラット化され、スマートフォンで得られるようになってしまった。世界中で新聞や雑誌の売り上げが落ちている。書店も減り、コンビニの雑誌スペースもどんどん小さくなっている。この先、どれほどがんばっても、紙の雑誌を伸ばしていくことは難しい。そんな中で『週刊文春』が生き残るためにはどうするか。
デジタルというフォーマットで戦っていくしかないんです。
いま、まさに情報の流通革命が進行している。ダーウィンの進化論ではないけれど、変化に適応できたものだけが生き残る。紙で戦えているうちに、会社にまだ体力が残っているうちにデジタルで勝負できる道筋を作る。それが俺の仕事だと思っています。インターネットに無料の情報が無数に溢れる中、カネを払ってまでデジタルの雑誌記事なんか読まないよ、と言われてしまえばそれでおしまい。俺たちは、デジタルでも紙でも、何でもいいから読みたくなるようなコンテンツを作り続けなければならない。困難だけど、だからこそやり甲斐のあるチャレンジなんです」(新谷学)

『週刊文春デジタル』は日本最大級のインターネット動画配信サービス『niconico』の「ニコニコチャンネル」と組んで『週刊文春』の特集記事を配信するというものだ。月額八六四円を支払えば過去五週分を購読できる。『週刊文春』は一部四二〇円だからかなり割安だ。その上、無料で閲覧できるスクープ速報や会員限定の動画も見られる。

配信日は紙の雑誌の発売日と同じ木曜日朝五時だ。

『週刊文春デジタル』は、少しずつ会員数を伸ばしていったが、会社上層部の反応は決していいものではなかった。

「問題とされたのは訴訟リスク。インターネットの世界は閲覧者数が多い分、非常に高額な訴訟もあり得るのではないか。そんな恐ろしいものはやめておこう、という声は常に聞こえてきました」(『週刊文春デジタル』を担当する渡邉庸三)

新谷編集長はただひとり「リスクはゼロではないが、可能性も大きい」と、未知の領域に踏み込むべきだと主張した。

紙媒体の衰退は明らかだ。『週刊文春』が生き残る道はデジタルしかない。『週刊文春デジタル』をやめろというのなら、業績を伸ばすための代案を出せ。

若い編集部員たちはもちろん、新谷編集長と『週刊文春デジタル』を強く支持した。尊敬するボスが、俺たちは前人未踏の道を歩もうと言うのだ。ならば自分たちはついていく以外にはない。

しかし、二〇一五年の『週刊文春』は苦しかった。スクープがなかなかとれず、返品率がジリジリと上がっていたからだ。

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編集長、社長室に呼び出される!

事件が起こったのは、一〇月五日月曜日夜のことだった。

祝日の関係で一〇月一五日号は通常より一日早い水曜日発売となり、通常火曜日の最終校了は月曜日に繰り上がっていた。

「はい、校了しました。お疲れさま」

新谷学編集長が、最後まで待機していた記者と担当デスクに声をかけた。
その直後、編集局長の鈴木洋嗣が新谷に向かって言った。

「新谷くん、松井さんが待っているから、社長室に行って下さい」

校了直後で疲労困憊している編集長を、社長が待ち構えているというのだ。いい話であるはずがない。

胸騒ぎがした。

最近は部数も苦戦している。もしかしたら、自分は更迭されるのではないか?

文藝春秋本館四階にある社長室には、応接室と会議室を兼ねた部屋が隣接されている。広いテーブルの角の椅子に座った新谷の前に、松井清人社長が先週号の『週刊文春』のグラビアページを開いて置いた。

「新谷、これをどう思うんだ?」

「はあ、春画ですね」

細川護熙元首相が理事長をつとめる美術館「永青文庫」(東京・文京区)が開催した「SHUNGA 春画展」が大きな話題を集めていた。ちょうど文春新書から車浮代『春画入門』が発売されることもあって、新谷は春画展を大きく扱うことにした。

細川護熙と車浮代から談話をとり、作家の高橋克彦と永井義男、国際日本文化研究センター特任助教の石上阿希が、春画の観賞術や江戸時代の人々が春画をどのように見ていたかを解説した。林真理子には連載エッセイの中で春画展を取り上げてもらい、まんが家の伊藤理佐にも探訪ルポを描いてもらった。

カラーグラビアでも大きく扱った。二匹の蛸が女陰と口を吸う葛飾北斎の「喜能会之故真通」と、男女の性交を陰部まで克明に描いた歌川国貞の「艶紫娯拾余帖」である。

セクション班とグラビア班を横断した充実した企画に仕上がった、と新谷は満足していた。

だが、松井社長の見解は大きく異なっていた。

「読物は何の問題もない。よくできています。ただ、春画をカラーグラビアで掲載し、しかも局部をトリミングして拡大するのは、『週刊文春』のやるべきことではないと思った。一九九〇年代前後、花田紀凱編集長時代の『週刊文春』は黄金時代を迎え、一九五九年の創刊以来、初めて『週刊新潮』を抜いた。快挙でした。でも、発行部数で総合週刊誌トップになった時期は短かった。どれほどスクープを連発し、柔軟で素晴らしい目次を作っても、『週刊ポスト』や『週刊現代』のヘアヌードや袋とじにはどうしても勝てなかったんです。
もちろん営業からは『ウチもヘアヌードをやりましょう!』と何度も言われたけど、花田さんは頑として受け入れなかった。理由は三つありました。ひとつは、女性読者を大切にしたから。ふたつめは、上質なクライアント(広告主)が逃げてしまうから。三つめは、一流の作家やコラムニストが書いてくれなくなるから。これは、花田さんからずっと教えられてきたことです。
『週刊文春』創刊二〇〇〇号(一九九八年十月一五日号)の編集長は僕だった。新聞広告は一面を使わせてくれたんだけど、甲賀瑞穂さんにヌードになってもらって、胸から腰のところまでをボードで隠して、目次の上に『ノーヘアヌード』というキャッチコピーをつけた。『週刊文春』はヘアヌードはやらない、と改めて宣言したんです。
僕は新谷に、『週刊文春』は家に持って帰れる雑誌じゃないといけない。春画のグラビアはふさわしくないと言いました」(松井清人)

新谷は訝しんだ。

春画をトリミングして性交シーンをアップにしたことは、確かに少々品がなかったかもしれない。だが、春画は大英博物館でも展覧会が開かれ、九万人の観客を集めた芸術作品だ。永青文庫の春画展にも、女性客が大挙して訪れている。ヘアヌード写真とは根本的に異なるものだ。

『週刊文春』の伝統は尊重するし、社長の意見も理解できる。だが、さほど重大な問題とも思えない。もしかしたら春画はただの口実で、何か裏があるのではないか?

新谷がそう考えていた時に、松井が突然言った。

「お前、ちょっと休め。三カ月くらいだ」

新谷は驚愕した。編集長の更迭はよくある話だが、三カ月間の休養など聞いたことがない。

冗談ではない。必死に戦っている部下を残して、自分ひとりが厳しい戦場を去るなどあり得ない。『週刊文春』はいま、厳しい状況下にある。『週刊文春デジタル』もまだ軌道に乗っていない。船が沈没するのであれば、船長はマストに身体を縛りつけ、船と一緒に海の藻屑と消えるに決まっている。

少々古風なところのある編集長は、社長に必死に訴えかけた。

「松井さん、ちょっと待って下さい。いまは部数的にはきついけど、かなり楽しみな、いい手応えのあるネタを仕込んでいるところなんです。ぜひ俺にそれをやらせて下さい」

だが、松井社長が自分の考えを改めることはなかった。

「春画ばかりでなく、最近のいくつかの記事には、明らかにブレーキが利いていなかった。部数が落ちて新谷は焦っている。このまま機関車みたいに突っ走っていくと危ない。純粋にそう感じたんです。新谷は極めて優秀な編集長。これからも長く続けてほしい。だからこそ、ここで休ませた方がいいと思った。新谷には一度頭をからっぽにしてくれ、焦ることは何もないんだからと言いました。それが俺の、噓偽りのない気持ちです」

明日から三カ月間は会社に出なくていい。編集長不在の間は、常務取締役の木俣正剛と編集局長の鈴木洋嗣が代行する。

新谷は、社長の指示に従うほかなかった。

部屋の外で待っていた元編集長のふたりに最低限の引き継ぎを行い、デスクたちには「三カ月間の休養を命じられた、迷惑をかけて申し訳ない」とメールで伝えた。彼らも突然の休養処分の理由がのみ込めないようだった。すべての編集部員に、直接休養処分の経緯を説明して謝罪したかったが、明日から会社に出るなと命じられた以上は不可能だ。

これから自分はどうすればいいのだろう?
誰かに話を聞いてほしかった。
少しでもヒントをもらいたかった。
だが、社内に相談できる人間はほとんどいなかった。
では、社外にいるのか?
週刊誌編集長の孤独を知る人間が。
周囲から批判され、処分を受けて苦しんだ経験を持つ人間が。
そんな人間を、新谷はひとりしか知らなかった。
新谷学は、花田紀凱に電話を入れた。

柳澤健 (やなぎさわ・たけし)
1960年東京都生まれ。ノンフィクションライター。
慶應義塾大学法学部卒業後、空調機メーカーを経て株式会社文藝春秋に入社。花田紀凱編集長体制の『週刊文春』や設楽敦生編集長体制の『スポーツ・グラフィック ナンバー』編集部などに在籍し、2003年に独立。
2007年刊行のデビュー作『1976年のアントニオ猪木』は高い評価を得た。主な著書に『1985年のクラッシュ・ギャルズ』『日本レスリングの物語』『1964年のジャイアント馬場』『1984年のUWF』『1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代』がある。
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