「強者」の側であることを自覚している東大生たちが、自らの教育体験を振り返る|『東大生、教育格差を学ぶ』書評 坂爪真吾
東大生、教育格差を学ぶ。このタイトルからイメージすると、恵まれた環境で育ってきた東大生が、自分たちとは接点のなかった恵まれない人たち=生まれによって人生の可能性が制限されている人たちのことを机上で学び、まだ見ぬ社会的弱者に思いを馳せ、彼らに対する認識をアップデートする。そんな鼻持ちならない内容をイメージするかもしれない。
しかし、本書はそうした単純な内容ではない。教育格差は、子どもの出身家庭や社会経済的地位(SES)、出身地域、国籍、性別などの初期条件によって生じる格差であるが、東大生と一口に言っても、各人の初期条件は極めて多様である。恵まれた環境で育った人ばかりではないし、自分が家庭や学校で受けてきた教育に対する思いも様々だ。
そうした多様な背景と価値観を持ちながら、自分たちが日本社会の教育格差を象徴する「強者」の側であることを自覚している東大生たちが、自らの教育体験を振り返りながら、教育格差をめぐる様々な論点について、主観と客観を巧みに交差させながら議論する。非常に刺激的な内容である。
本書のキーワードの一つが、「他者の合理性」だ。自分とは生まれも育ちも異なり、理解も共感もできないような行動を取る異質な他者であっても、彼らなりの合理性に基づいて動いている。それを理解することができれば、建設的な対話ができるし、教育格差を緩和するための実践や政策議論も実りあるものになる。
私が代表を務めるNPO法人風テラスでは、東大や一橋などの有名大学の学生がインターンに入り、自分たちとは全く異なる初期条件で育ってきた同世代の女性たち=高校中退や専門学校卒の学歴で、風俗や個人売春で生計を立てている女性たちの支援に関わっている。私自身も、本書の編著者たちと同様、「他者の合理性」を学ぶ場が必須だと考えている。
一方で、異質な他者の合理性を学べるだけの経済的・精神的余裕があるかどうか、学べる機会を得られるどうかもまた、教育格差の一つである。東大生は比較的学びやすい立場にあるが、高校を中退して風俗で生計を立てている同世代の女性たちが、東大生やNPOといった異質な他者の合理性を学ぶ機会は皆無に近い。この非対称性がある限り、「他者の合理性」という言葉は、「恵まれている人たち」専用の自己批判ツールに留まってしまう。
その他にも、エンハンシング効果に関するジレンマ(内発的な動機を見出すためには、外発的な動機づけを最初に与える必要がある)など、教育における個別最適化と社会的な格差是正の間には、数多くの難題が存在している。
複数の変数が絡む難題に対しては、「教育に関する議論は、その人がこれまで受けてきた教育体験や、その中での成功・失敗体験に縛られる」といった前提を自覚しつつ、「努力が全て/環境が全て」といった安易な二元論や感情論に陥ることを避けて、主観と客観を使い分けながら、議論を積み重ねていく必要がある。
教育格差の問題は、「恵まれている人たち」が「恵まれていない人たち」を理解すれば解決する、といった単純な話ではない。「恵まれているから」という理由で東大生の努力を軽視・否定してはいけないし、「恵まれていなかったから」という理由で非行少年の加害行動を容認してもいけない。
また格差解消のための制度設計も、一歩間違えれば、「大学に進学する人生こそが素晴らしい」といった特定の価値観や善意の押し付けになってしまうリスクもある。
しかし、教育格差を放置していれば、私たちの社会は分断され、足元から瓦解する。教育格差をめぐる問題を、学生や教育関係者だけではなく、社会全体の論点にしていくためにも、本書を手にとって、あなたがこれまで受けてきた教育体験を思い出しながら、東大生たちと一緒に議論に参加してほしい。