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【新連載】心理学的決定論とは何か?―僕という心理実験Ⅱ 妹尾武治

トップの写真:ビッグバン直後に誕生した最初の分子「水素化ヘリウムイオン」が発見された惑星状星雲NCG 7027 © Hubble/NASA/ESA/Judy Schmidt
妹尾武治
作家。
1979年生まれ。千葉県出身、現在は福岡市在住。
2002年、東京大学文学部卒業。
こころについての作品に従事。
2021年3月『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。~心理学的決定論〜』を刊行。
他の著書に『おどろきの心理学』『売れる広告7つの法則』『漫画 人間とは何か? What is Man』(コラム執筆)など。
初回はこちら。

第1章 心理学的決定論とは?②

心理学的決定論の趣旨

意志の遅れ

小学校一年生の時に発売された駄菓子『ねるねるねるね』に感銘を受けた。私は、ねるねるねるね第一世代だ。42歳になった今も、この商品をコンビニで手に取るのは、自分の意志で決めたことだろうか。私にはそのように思えない。小学一年生の時の感動が、今も私の手を動かしているように思えてならない。

私たちには自由意志などない。以下に拙著『世界は決まっており、自分の意思など存在しない。心理学的決定論』を要約する形で解説したい。

我々には自由意志は無く、暴走する脳は止められない。決定論的世界観が正解であり、人間は環境との相互作用によって、刺激に対して全自動的に行動を紡ぎ出されているような存在である。意志決定よりも先に脳が準備電位を発しており、外界からの刺激に対して自動的に脳と体は反応を始めている。意志は事後的に付与される錯覚に過ぎない。

この「意志の遅れ」を始めて報告した科学者はベンジャミン・リベットという人物で、彼以降も追試が成功している。つまり「意志の遅れ」は否定し難い結論と言える。

アメリカ、アトランタのエモリー大学の研究で2012年にジョーナル・オブ・コンシューマー・サイコロジー(消費者心理学術雑誌)に発表された論文が面白い。

被験者にインディーズバンドの曲をたくさん聞かせ、それを主観評価させる。シンプルに星を最大で5個つけさせるのだ。同時にその曲を聴いている際の彼らの脳活動を記録しておく。その後その曲の売れ行きをトレースしておくと、曲の売れ行きと5つ星評価の結果は全く相関しなかった。つまり、インディーズバンドが将来売れるかどうか?は意識上の主観的な評価とは無関係だったということだ。しかし報酬系と呼ばれる脳部位(嬉しいときに活動をする脳の場所)、特に即座核の反応と曲の売れ行きは有意な相関を示した。意識的な「いいね!」(星をつける行為)よりも、無意識的な脳活動(その活動は「喜び・報酬」として捉えられた量である)が、曲の売れ行きと強い関係性を示したのだ。

意識的に評価しようとしても、売れるバンドはわからない。それは人間にはあれこれ“考え”があるためだ。しかし生物としての人間の脳活動、シンプルにその曲を聴いたときにそれを「報酬」だと感じた脳活動の量は、バンドの売れ行きを十分に予測する指標になるのだ。

つまり意志や意識よりも先に「脳は本質を知っている、気がついている」のである。上記はあくまでも一例に過ぎず、同様の結果が過去の脳科学などの実験で、膨大な数積み重なっていることも申し添えたい。

人間は環境から得られる刺激の奴隷であり、全ての行為は環境と脳の相互作用で一つに決まって行く。我々は世界の主役などではない。世界(環境)の操り人形なのだ。

人間はそもそも5つの感覚器(五感)でしか物理世界を切り取ることが出来ない。コウモリのようには(周波数が)極めて高い音は聞こえないし、4色覚の鳥のようには色を知覚できない。蝶には見えている可視光の範囲外の光には、色を見出せない。人間は世界の断片にしか触れることが出来ないのだ。

超弦理論では、世界は11次元であるとされている。我々はわずかに3次元空間に時間を加えた「4次元の世界」しか認識が出来ていない。本当(真実)の「世界」には触れることが出来ず、ホログラムのような虚像を見ているのだ。そもそも物理世界(外界)というものが本当に存在しているのかどうかでさえ、我々にはわからない。

痛みはどこにあるのか?

哲学者のルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは「痛みはどこにあるのか?」という問いかけで有名だ。指の先が切れて痛いと感じる時、痛みはどこにあるのか? 指先なのか、脳の中なのか。素朴実在論に基けば、指先が痛いのだから痛みは指先だと感じるだろう。では、目の前に泣いている少女がいて、その子を見て可哀想だなと感じた時、その「可哀想」はどこにあるのだろうか? 脳の中だろうか。少女そのものにあるのだろうか。少女は指先のメタファーだ。可哀想という感情は痛みのメタファーだ。我々の心は、脳の中に閉じ込められていない。環境との相互作用、身体との相互作用の中にしか心は存在しない。もし心がどこにあるのかをどうしても言語で示せと言われたら、「世界にある」としか言えないだろう。

この構造は、目の前にあるりんごにだって成り立つ。りんごを見る人がいなければ、それはそこにあるのだろうか。りんごはどこにあるのか? 僕の脳と、環境との相互作用の中にしかないような気がする。

優しいという心は、どこにあるのか? 私たちには、行動のない優しさを世界に提示することが難しい。微かな笑みであれ、真っ直ぐな瞳であれ、優しさは行動と身体に媒介されなければ世界に立ち現れないのかもしれない。その時、優しさとはどこにあるのか? 物理世界と脳の相互作用という以外にないのではないか。

だから、モノの世界は絶対ではない。むしろ確実にあるものは自分の心であり、モノの方(物理世界)ではないと考えるべきなのかもしれない。モノと心を反転させる必要性があり、この世界とは自分自身の心のことなのだという意見さえある。これは仏教で言えば「唯識」という考え方になる。世界とは、自分の心があるのみで、神とは自分である可能性がある。夢・量子論・唯識・決定論はほぼ同一のことを別角度から見たものとも言え、世界の中心は自分の心なのだ。意識が実在で、モノがあやふやなもの。そう考えるべきなのだ。我々は環境からの刺激の奴隷である一方で、世界の主「神」である可能性も同時に持った存在なのだ。

クオリア

そもそも、自分にとっての赤の赤さ(クオリア:自分特有の感覚の質感的ななにか)を、他人が有しているかどうかは、人間には数千年以上にわたって解明できていない問である。自分の赤は他人にとっては緑かもしれない。そもそも、他人にクオリアが生起しているかどうかさえわからない(哲学的ゾンビという考え方)。デカルトが「我思うゆえに我あり」と述べてから、もう長すぎる時が流れている。全裸監督、村西とおるが言うところの「お待たせいたしました。お待たせし過ぎたのかもしれません」である。

クオリアのような人間の主観世界(脳の中のブラックボックス)を敢えて問わないというスタンスを取ったのが、心理学における行動主義だった。刺激と反応(つまり行動の変化)、を記録するという方法論でSR(Stimulus and Response)主義とも呼ばれた。

イギリスの天才科学者で思想家のアラン・チューリングが提唱した、”チューリング・マシン”という概念(ある人が、AIのチャットボットとの会話を、終始自然に成立したと感じた場合、その人にとって、そのAIには知性があると考えても良いだろうとする考え方) や、「中国語の部屋」という思考実験(内側の心を想定せずに、外に現れる表現のやり取りだけで心の実在を考え、内側の存在を問わない姿勢)においても、この行動主義の割り切った考え方のコスパの良さ(実効性、実際の生活や現場の経済活動や日常生活における有用性)が浮かび上がって来る。

人間が2千年以上抱えてきた、主観の問題、難しい問題をあえてスルーすることで、かりそめの理解を目指すという方法論は確かに利があった。人間にとって明確に分かる部分に焦点を当てることで、得られる情報を増やしておいて、いつか何かが起こるのを待つような態度を持てたからこそ、人間は数多くの発明、技術と医療の発展を実現させることができた。

AIのブラックボックス

一方AIが躍進する中で、AIのブラックボックスという問題に人類は直面している。AIが膨大な情報を処理する中で、それが下した判断の理由をもはや誰も説明することが出来ないという問題である。AIの判断を人間に理解出来る形に変換すること自体が、AI研究の中で熱い分野になっているほどである(XAI: Explainable Artificial Intelligenceという)。

これは単一の脳細胞は単純明快なのに(もちろんまだまだ精緻に調べることは沢山残ってもいるが)、それが数千億集まって脳になると「なぜ意識が生じるのか」がわからないという、脳のブラックボックス問題と相似形を示している。結局人間には「意識に近似するとブラックボックスが生じてしまう」という問題から逃げることが出来ないのかもしれない。

AIによる画像認識の現状について少し話そう。

2次元の写真画像と人間による教師データ、例えばへちまの画像に「へちまだよ」という正解の言語情報でタグづけた組み合わせを100万以上与える。このAIに新規な画像を見せた時に、それが正しく何の画像かを答えられる割合は9割程度になる。今はそのレベルまで来ている。9割を低いとみるかどうかは、意見が分かれるだろうが、人間だって10割にはならないのだから、十分な高さだと見る意見もある。

この時「では、そのAIは2次元画像を3次元的に見ているのか?」という問いを立ててみよう。実はAI研究者にも、その答えは分からない。ただ少なくとも、3次元構造が把握できていないと正解できない”物体認識”をAIはすでに実現している。しかし、現状人間には「AIがどのように3次元的な情報の分析をしているのか?」は分からない。

それなら、XAI研究のトピックとして、AIが3次元構造を2次元画像からどのように復元しているのか?を人間にわかるような形で調べて、提示するという作業をしてみよう! こうなった時、我々知覚心理学者は驚きを覚える。それはまさに「人間の脳における3次元知覚の研究の歴史」を繰り返しているからだ。人間の脳が、AIに置き換えられただけではないか!

制約条件

もちろん人間とAIには違う部分がある。人間は制約条件で解を絞ることが心理学の歴史の中で明らかにされてきた。例えば、光は上から当たるものだと思い込むことで、あり得る判断の解を絞る。物体は凸面であると思い込む(凹面の顔などない!)ことで、不要な誤解を減らす、のように。

90年代には、AIにもその路線の考え方があったのだが、Residual Neural Network の登場以降の深層学習においては、制約条件はむしろじゃまになっている(中国人若手研究者であるカイミン・フェによって、発案されたResidual Neural Networkは、脳の神経細胞の一つピラミダル・セルの情報伝達の特性に着想を得たと言われている。情報を完全体としてやりとりせず、前後の細胞との差分のみを伝送するという方法で、深層学習におけるトータルの計算量を劇的に節約出来るという発見だった)。今のトレンドは、とにかく学習のデータ数を増やすというアプローチである。制約条件を設定すると、間違った最適解、小さな間違ったエアポケットのようなものに自分から突っ込みがちになるのだ。とにかくより多くのデータを食わせた方が、間違った分岐に入らずに正しく判断できるようになると、今のAI研究者は考えている。

例えば、過去の将棋のAIでは名人たちの棋譜を初期の学習データとして優先的に学習させた。しかし、今は全ての可能性を同列に学習するところから始めた(制約条件を設定しない)AIの方が、名盤とされるものに強く重みをつけた(つまり制約条件を持たされた)AIよりも、最終的にずっと強くなることが分かっている。

制約条件のせいで生じる間違ったエアポケットとは、人間の視覚で言えば「錯視」にあたる。思考、思想で言えば「思い込み」や「偏見」である。差別をなくすためには、より多くのデータを求める態度を人間の中に作ることが必要だ。それを僕たちは「学び」と呼んで来た。AIが人間を超えてしまう瞬間が訪れるとすれば、この点においてこそと思う。

2次元との愛

話を本筋に戻そう。AIに意識が宿ったとしても、そこに本当に意識があるのかどうかを判別する方法や基準を人類は持っていない。一つだけあるのは、行動主義心理学的に対象に我々が「心を見出せるか?」という投影された心の成立の有無の基準だけだろう。

特定の2次元キャラクターへの強い愛を表現したネットスラング“2次元の嫁”のように、第三者が見れば実存しないアニメキャクターであっても、本人がそのキャラクターに十分な人格を見出せるならば、その嫁は実存していると言える。(ちなみに、ここで「嫁」というのはあくまでもネットスラングそのものに準拠している。「彼女」ではなく「嫁」というスラングであることからも、2次元であることが相手を自由自在に支配出来るという男性側の意図を無意識のうちに炙り出している。同時に「嫁」というものがそういった認識を得ていることもまた、面白くもあり怖くもある。)

エヴァンゲリオンの主人公、碇シンジというキャラクターもそれを愛する腐女子も、1000年後の未来から見ると、両者ともに「情報」という形でしか世界に存在していない。例えば、武田信玄の軍師「山本勘助」は現在においてもその実在が確認されていない。本当にいたのか? フィクションとしてのキャラなのか?が数百年後の我々には判断がつかない状態で、彼にまつわる「情報」のみが存在しているのだ。「聖徳太子」についても同じ状態であり、彼の実在性は議論の対象となり続けている。

であれば、実体である「炭素で出来た体」以上に情報こそが「存在」というものの本質であると言えないだろうか? だからこそ、碇シンジも2次元の嫁もあなたも私も確かに存在している。実存の概念を、彼らと僕たちのどこかで線引きしても、人間の恣意性が確認されるだけで、2次元キャラを現実の部外者と呼ぶことなど、決して出来ない。現代の哲学の寵児であるマルクス・ガブリエルの新実在論もそのことを主張している。彼は「何らかの場に立ち現れた情報は、実在する」と主張している。その場は、多くの人が「現実」と呼ぶ物理的な空間であっても、脳の中、空想であっても構わない。

「イマジネーションの力を信じろ。」
多くの映像作家・小説家・演劇人はこう叫び続けてきた。

2次元の愛の対象とは性的な関係を結べないのではないか? 話し合いによる合意形成など、愛と呼べるものが本当に存在するのか? 2次元の存在は誰かが情報の更新をしない場合、永遠に変化を起こさない対象となるので、意図せずとも変わり続ける我々人間とは、やはり愛が形成し得ないのではないか? こういった意見が聞こえて来る。少なくとも多くの人にとって「2次元存在との愛」は、依然として違和感を覚えるものだろう。この違和感についての私からの回答は「従来の人間同士の愛とは異なる新しい形の愛が形成されうる」というものになる。だが、その新しい形の愛は、従来の愛との共通点もある。それは相手を情報として自己の脳に保存するという点だ。そしてそれこそが愛の本質だと思う。

意識とは、情報とその統合

アメリカの神経科学者のジュリオ・トノーニによれば、意識とは情報とその統合のことであり、万物に様々なレベルの意識が宿っている。

例えば、人間は赤く(情報1)、ずっしりした重みで(情報2)、甘い匂いがする(情報3)物体をりんご(統合された新しい情報)として認識する。この過程が意識だとトノーニは言う。統合をどう定義するかは研究者間で意見が分かれるが、私は情報そのものが意識だと思っているし、情報の変換も意識だと思っている。例えば、山に太陽光が降り注ぐことで、山の地面の温度が上昇する。光が熱に変換される。これを持って山に意識があると言えると主張したい。つまり、万物にはレベルの違いこそあれ、意識が宿っていると主張したい。

アインシュタインの光速度不変の法則のような、物理法則は世界の始まりから存在していたと考えるのが普通である。であれば、もし意識を記述出来る万物の自然法則が見出せるならば、その法則はビッグバンから存在するはずである。 犬や猫は言うまでもなくハラハラと散る枯葉にさえ、なんらかの意識は宿っているはずだ。そして意識は架空の存在にも、脳の中のイメージにさえも宿るだろう。マルクス・ガブリエルの新実在論と、心理学的決定論は良い合致を見せるし、実在(つまり意識)とは物理的なものに縛られず、意味の場に現れるもの全てなのだ。

アートの世界でも、男性用便器を「泉」として提示したマルセル・デュシャン以降の現代アートでは「モノ」に焦点を当てず、そのモノに託された「思想」つまり「情報」こそが本体であるという考え方が主流になっている。この世は情報が統べる世界であり、情報こそが生命であり意識である、と。(最近では、NYに巨大な人工の滝を作ったオラファー・エリアソンや、自然光を巧みに取り入れて移り変わる時空間を知覚させる作家、ジェームズ・タレルのような、現物としての面白さの重要性に回帰する現代芸術作家も多いことは追記しておく。)

ちなみに、有吉弘行のあだ名芸も、人物の外側ではなく、本質としての情報を端的に表現するという意味で現代アートのしていることと同じであろう。みのもんたを「油トカゲ」と評した例は、美しくさえある。

ダン・ブラウンの文学作品『オリジン』においては、世界の情報量を増やす(エントロピーを増やす)ための存在、「情報の攪拌者」こそが「生命」だと主張されている。命は情報であり、情報をコピーしたり増やしたりすることが宿命づけられている。

ハードプロブレム

光の速度が一定であることは、この世界というゲームを処理しているゲーミングPCの処理速度を反映しているのかもしれない。マシンの処理速度は、まだ限界に来ていない。この処理速度の限界に達するまで情報を増やすことを生命は目指しているのかもしれない。1秒後の世界を作るために1秒以上の計算処理が必要になった時、世界には何が起こるのだろうか。全ての生命が、その限界を目指すように仕組まれているのだろうか。それが神の意志なのか?

そもそも神とはなんなのか。もし自分が神であるならば、なぜそれに気がつけないのか。自分の選択に後悔や自由(という嘘)を感じる仕組みは何故あるのか? まだまだ深遠な解けない問題は多い。

オーストラリアの哲学者、デビッド・チャーマーズは、こういった人類にとって根源的な謎「私とは何か?」「意識とは何か?」「モノと心の関係性」ひいては「生きる意味」を、1995年にハードプロブレム(難しい問題)と名づけ、真に解くべき問いであると高らかに宣言した。私達人間は、この問題と戦って戦死するしかないのだろうか?(続く)




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