思い出の名高座③ 立川志らくの『中村仲蔵』(1)―広瀬和生著『21世紀落語史』【番外編】
90年代、低迷する落語界にあって立川志の輔は着々とファンを増やしていき「落語というエンターテインメントの可能性」を広げていったが、同じ立川流の立川志らくもまた「現代に生きる古典落語の可能性」を広げていた。『21世紀落語史』の中では、「21世紀の志らく」について詳しく触れることができなかったが、実は21世紀にも志らくは進化し続けていた。今回はその中で2009年にネタ下ろしした『中村仲蔵』について当時の日記を辿って記しておきたい。志らくの『中村仲蔵』はこの年、三段階の進化を遂げている。
(1)2009年3月17日(ネタおろし)
新富町・銀座ブロッサムにて「立川志らく独演会“志らくの忠臣蔵”」。志らくは新作落語『吉良の忠臣蔵』と『中村仲蔵』の二席をネタおろしした。以下はこの日の志らく版『中村仲蔵』である。
中村傳九郎の弟子で中村仲蔵。何の門閥も無く稲荷町から叩き上げ、中通りになって毎度「申し上げます」の役ばかり。稽古なんぞ必要ないと内職に精を出していて、そのまま初日を迎えたある芝居。花道から出てきて座頭の四代目市川團十郎に「申し上げます」と言ったはいいが、後が出てこない。志らくはここで、「台詞を忘れることはどんな役者でもあります」と森繁久彌のエピソードを披露。森繁は何と観客に話しかけてトークショーを始めてしまったのだという。では仲蔵はどうしたか。團十郎の許に寄っていき、耳元で「親方、台詞を忘れました」と言う。團十郎は、この件を切っ掛けに仲蔵に目をかけるようになり、「毎日通うのも大変だからうちに居候しろ」と言う。
團十郎のところには後に五代目團十郎となる五歳違いの倅がいて、仲蔵とは気も合い、二人して芸に精進する。「芸キチガイ」とまで言われる仲蔵のことを團十郎は「あいつが舞台の上で『台詞忘れました』って言ったとき、可愛い顔をしていた。舞台の上で他の役者を可愛いと思ったのは初めてだ」と可愛がり、その引き立てによって仲蔵は相中にまで出世した。この理屈抜きに「可愛いから引き立てる」という團十郎の告白は志らく独自の演出だ。
相中になって初めての芝居が、團十郎が不死身の六部、その首を狙う隠密が仲蔵という『鎌髭』。初日の舞台が終わった後、團十郎は弟子の團六を呼んで「鎌を引かれたときに俺がグッと睨んで客が誉めた後、しばらく間を外して『ウワーッ』と歓声が上がったが、あれは何だ?」と訊ねると、「あれは仲蔵さんが、この鎌で切ったのになぜ切れないんだと上から覗き込んだ、その顔が何ともよかったんです」との答え。團六は仲蔵に「親方をしくじったよ。余計なことするの、やめたほうがいいよ」と忠告。翌日、仲蔵がそれに従って覗き込まなかったことを知り、團十郎は楽屋に呼んで説教する。
「今日は何で覗き込まなかったんだ。お客様が喜んでくださってるんだ。やるがいいじゃねぇか」
「いえ、出すぎた真似をして親方の見せ場を取っちゃいけないと……」
「生意気なことを言うなっ! 俺を誰だと思ってる! オメェみたいな若造が何しようがこの團十郎、驚くもんじゃない。いいか仲蔵、芝居ってのは台詞を覚えて段取りどおりにやりゃいいってもんじゃないんだ。良い、悪いを決めるのはお客だ。芝居は生きている。お客の前でやらなきゃ判らないこともあるんだ。もしも俺がオメェに喰われたら、俺が負けねぇように頑張るだけのこと。出すぎた真似をしろ! 芝居の神様ってのはきっと見てるんだよ。役者は妙に力んじゃいけねぇ。肩の力は抜いて、だが真剣勝負だ。喰うか喰われるか。この團十郎を喰ってみろ! 俺を乗り越えてみろ!」
團十郎の教えは「様式美を守るだけではいけない、創意工夫が大事だ」ということだった。その教えを忠実に守った仲蔵はどんどん人気が出て、今度は團十郎の引き立ても関係なく、お客様の強力な後押しにより、稲荷町の出としては異例の名題に昇進する。仲蔵が名題になった喜びに涙する師匠の傳九郎。團十郎は傳九郎に「その涙はまだ取っといてください。あいつは名題だけじゃない、もっと凄いことをやる男だ」と言う。「残念なのは、私はあいつがどんな役者になるのか見届けられないこと……」
正月の芝居で『曽我』を掛けることになり、仲蔵は工藤祐経を演るに当たって狐の面を被って出てくる演出を考案した。すると立作者の金井三笑が「最初から被って出てきたらおかしい。首からぶら下げて出てきて被り直すほうがいい」と見当違いな指示を出す。それがいかにダメかを志らくは「桃太郎侍が首からお面ぶら下げて出てきたら変でしょ?」と解説する。もちろん仲蔵は三笑の言葉など無視してやんやの喝采。面白くないのは金井三笑。「バレエシューズに画鋲を入れてやろうと思ったが歌舞伎にバレエシューズを履く機会は無い!」(笑)
その金井三笑が遺恨を込めて『仮名手本忠臣蔵』で仲蔵に五段目の斧定九郎の一役を割り振った。こんなドジな役は名題のやる役じゃない、と言って断れば増長していると言われるし、引き受ければ恥知らずと言われる。どちらにしても仲蔵の損……しかしここで仲蔵は團十郎の教えを思い出した。創意工夫だ! とは言っても台詞がほとんど無い。「おーい、とっつぁーん」と「五十両……」、これしかない! さあどうする仲蔵!
妙見様に願掛けをして満願の日、通り雨を避けるべく入った蕎麦屋で出遭った年頃三十二、三のビショ濡れの浪人を見て仲蔵は「これだ!」と閃いた。「斧定九郎は落ちぶれたとはいえ家老の倅、了見は山賊でも身なりまで山賊になる必要はねぇんだ!」 浪人者の着物や帯、髪などを見ながら「いいなぁ……いい……」と近寄る仲蔵。「何だ!」「よろしゅうございますなぁ…」「気持悪いヤツだな! これ(オカマの仕草)か? あまりジロジロ見るな!」 仲蔵は慌てて蕎麦の代を置いてパーッと出ると、そのまま妙見様にお礼参りに。
仲蔵の女房は杵屋喜三郎という長唄三味線の名人の娘。『忠臣蔵』初日の前夜、仲蔵が「おめぇ、この演りかたをどう思う?」と訊ねると「凄いと思います」と即答。「ありがとう。だが良い悪いを決めるのはお客様だ。やり損なったら江戸には居られねぇ、上方で修行し直そうかと思う」「私も役者の女房、覚悟はしています。大丈夫、きっと上手くいくと思うけど、万一の時には私も何とでもしますから、あなたは思ったように、好きなようにやってください。上方へ行くときは、私が傍に居ないほうがいい。きっと私に頼ってダメになる。一人で上方へ行ってください。私は大丈夫だと思うけど、万一の時は、ダメになるあなたを見てたくないから……」
満を持して舞台に飛び出した仲蔵、その斬新な演出はあまりに素晴らしすぎて、通常の弁当幕と思っていた観客は水を打ったようにシーンと静まり返って何の声も掛からない。「栄屋!」とか「大当たり!」「出来ました!」といった声が掛かるかと思っていた仲蔵は愕然とするが、だからといって投げたりはしないところが後の名人。「親方が言ってた。喰うか喰われるかだ。後の勘平を喰っちまおう!」
ここから後の、仲蔵の芝居の描写が圧巻だった。言葉による生き生きとした描写で総てを鮮明に浮かび上がらせるその話術は、志らくの大ネタがなぜ「映画的」だと言われるのかを如実に物語っていた。純粋に話術によって「仲蔵が斧定九郎をいかに演じたか」をリアルに観客の脳裏にイメージさせる志らく。その語り口は実に見事だった。
観客は驚いて言葉が出ず「うううう」と唸るばかり。それをネガティヴに受け取る仲蔵。「唸ってばかりいやがる」 仲蔵が史上初めて考案した「血を吐いて死ぬ」演技も、それを生まれて初めて観た客は「うわわわぁ! ち、血!」と驚愕の声をあげるばかり、それが仲蔵の耳には笑い声に聞こえてしまった。
定九郎があまりに良すぎて、勘平が出てきても誰も気づかない。ざわつく中、仲蔵が楽屋に引き上げるが、役者仲間も何と言って誉めていいのか判らない。誤解した仲蔵は女房に「やり損なった」と報告。「いいと思ったんですけど……よく言いますよね、時代が追いついていない、とか」「俺はもう死にてぇや」「オマエさんは日本一の役者になる人、死ぬなんて言わないで。芝居の神様が聞いてますよ。生きるって言ってちょうだい!」
旅支度をする仲蔵。「そうだ、おきし、酒を飲もうか」「ダメよ」「何で」「夢になるといけないから」「そりゃ『芝浜』だよ!」
表へ出ると、ちょうど芝居がハネて、帰ってくる客がぞろぞろと。「今日の定九郎……」「ああ、大した役者だな」と感激している人達の声が「大したことねぇ」と仲蔵は聞こえる。だが、江戸橋の手前の床屋の前を通ったとき、「今日はどうだった? 由良之助は」「由良之助? 今日は定九郎だよ! あれは凄かった! 何しろ血を吐くんだよ!」「血?」「ああ……じっちゃん、言ってやってくれよ」「どうして相中のやる定九郎を栄屋がやるのか、これでわかった。今まで、どうして定九郎はあんなドジな山賊のなりなのか不思議でしょうがなかったんだが、これで謎解きが出来たよ。さすがは栄屋だ」「へえ、じっちゃんは辛口で有名な町内の井筒監督って言われてるのに珍しいね」「栄屋は名人だ、あの栄屋の定九郎を見なきゃ『忠臣蔵』は語れねぇ!」
「ありがてぇなあ、たった二人でもわかってくれた。そうだ、これをおきしに教えてやろう」と家に戻る。それを聞いて涙を流して喜ぶおきし。「嬉しい! ねぇ、おまえさん、お酒飲む?」「やめよう、夢になるといけねぇ」 するとそこに團六が。「師匠が呼んでるよ。しくじったよ」 慌てて師匠の傳伝九郎の許へ駆けつける仲蔵。
「おお仲蔵! 五段目、見たよ。あれはどうした?」 それを聞いて小言だと思い込む仲蔵。
「この脇差は紀州様から頂いたものだ」
「これで死ねってナゾですか」
「何だって?」
「確かにやり損なった……でもたった二人だけ、誉めてくれた人が……」
「何言ってるんだ、みんな誉めていたよ。大変な評判だ。今じゃ皆、お前の定九郎を観たいって……勧進元も、この芝居は何日続くか判らないほどだって言ってる」
「師匠! じゃあ……」
「役者仲間もお前の話で持ちきりだ。あの團十郎が腰を抜かして誉めていたよ! あんなの初めて見た。仲蔵、私はお前みたいな弟子を持って幸せだ。この先何十年、いや何百年と、芝居というものが続く限り、五段目はお前の型で演じられることになるだろう」
感涙に咽ぶ師弟。「その刀はうちの家宝だ。それをお前にやろうと思って呼んだのに……オマエ、その刀どうするつもりだった?」「はい、四段目で判官が、六段目では勘平が腹を切りますから、五段目で定九郎が腹を切ろうと思いました」 志らくオリジナルのサゲである。
圓生や正蔵の『中村仲蔵』をベースにした、古典の美学を存分に感じさせる一席でありながら、志らくの個性が全編に満ち溢れている。團十郎の語る「芝居は生きている」という芸談が印象的だ。芸とは、芸人とは、芝居とは、師弟とは……。様々な示唆に富む志らく版『中村仲蔵』、今後の志らくの大きな飛躍の可能性を感じさせた。
(2)に続く