頭がいいと研究者になれない!? 特別対談 前野 ウルド 浩太郎×水月昭道
道くさ博士とバッタ博士、高学歴ワーキングプア問題を語る①
光文社新書編集部の三宅です。5月に刊行された『「高学歴ワーキングプア」からの脱出』より、著者の水月昭道さんとバッタ博士こと前野ウルド浩太郎さんの対談を、note上で何回かに分けてお届けします。前野さんも、いわゆるポスドクでした。ご著書『バッタを倒しにアフリカへ』のオビには「科学冒険ノンフィクション」とありますが、隠れたテーマのひとつが、博士の就職問題です。非常にユーモラスに書かれていますが、「ポスドクってこんなに大変なんだ……」と戦慄した読者の方も多かったことでしょう。そんな前野さんをお招きして、博士号やポスドクの置かれた状況について、語っていただきました。
※この対談は、2017年9月に収録しました。
ツイッターで大きな話題になり、増刷が決まった水月さんの道くさ研究書です。
前野さんの『バッタを倒しにアフリカへ』。新書と児童書版です。
『バッタを倒しにアフリカへ』は仏教的?
――『バッタを倒しにアフリカへ』を読まれて、水月さんはどのような感想を持たれましたか。
水月 いろいろな読み方ができると思いました。読み手の心に前向きなドライブがかかっていく仕立てが、非常に計算されていてうまいなと。ただ、ここに出てくるのは前野さんそのもののキャラクターではないだろうなとも思いました。本には出てこない苦労が多々あり、涙を流す日々も多かったのではないかなと感じましたね。
それからもうひとつ。僕は僧侶ですので、仏教的な視点で読めるところがたくさんあったんです。
前野 ええ⁉(笑)
水月 「自分の弱みは、実は強みだった」と解釈していく箇所がたくさんありますよね。たとえば無収入というのは、非常に辛いけれども、それを武器にできる。俺は博士号を持っているのに無収入で、アフリカの厳しい環境で研究しているぞという見せ方をすることで、周りの注目も集めることができるし、周りを励ますこともできる。
仏教的な観点というのは、何事もプラスに読み替えていくことなんです。読み替えていくことで、相手にプラスの力が湧くように持っていく。そういう意味では、これは形を変えた仏教書だなと思いましたね。
前野 それはまったく意識していなかったので、不意を突かれました。
水月 仏教者がこの本を読んだら、前野さんは仏教の専門の道を歩んでいるわけじゃないけど、生き方がブッディストそのものだなと捉える人がけっこういると思います。
読み替えることで、厳しい環境も楽しいと思える一瞬が出てくる。一〇〇パーセント楽しくなることはないでしょうが、そこに数パーセントの救いが出てくることで、苦みに少しの甘みが加わる。苦いけれどそこに甘みもあって、そのミックス度がちょうどいいみたいになってくる。これが仏教のエッセンスですね。
前野 なるほど。いろいろな悲惨な出来事も、必ずいいように捉えようと考えていました。そういう仏教的な実践ができていたから、心が折れずに来られたかもしれないですね。
水月 弱みや苦境をプラスに変える技は、どこで身につけられたんですか?
前野 小さい頃は太っていて、運動などは同級生たちよりも劣っていたので、別のところで活躍する道を探したのがきっかけだと思います。
あと、幅広く何でもこなすということができないんですね、頭が追いつかなくて。「これ!」という限られたことしかできないので、手持ちの材料でいかにうまい具合にこなすかということを考えて歩んできました。そういうところから、不幸な状況をそのまま嘆き悲しむのではなく、次のステップへ進むためのものとして使ってやれということが習慣になっていたのかもしれません。
『高学歴ワーキングプア』が出た時は周囲がザワザワした
――前野さんは、『高学歴ワーキングプア』をいつ頃読まれたか覚えていらっしゃいますか。
前野 ちょうど自分が博士課程の頃にこういう本が出ているというので、周りの人たちがザワザワしていた記憶がありますね。(本を読んで)やはり博士になっても大変なんだ、気を引き締めていかないといけないなと思いました。
ツイッターでは、『バッタを倒しにアフリカへ』を読んだ若い人たちが、博士になってもなかなか就職できないと知って、博士課程に進まなくなるのではというコメントをもらいました。恐らく、『高学歴ワーキングプア』を読んで、博士号を取ってもワーキングプアになるなら進学はやめておこうと思った人がいるかもしれません。視点を変えると、そこまでやる気のない人たちが人生を台無しにする前に、早めに別の道を探すように促すことができたわけですよね。
――逆に、苦労をする覚悟がないのなら博士課程に進むのはやめておいたほうがいいということでしょうか。
前野 覚悟がないと、たぶん途中で誰かを恨んだり、嘆いたりするので、不幸になる前の人たちを救えたのかもしれませんね。
――水月さんの本を目にされる前から、大変だよという話は周りの方からも聞いていたのでしょうか。
前野 はい。聞いてはいたものの、狭いコミュニティ内の話なので。水月さんの本が出たことによって、みんなが「ああ、やはりそうなのか」と気づいて、何とかせんといかんとなったのではないでしょうか。この問題を、社会的に改めて気づかせてくれたという効果がありましたよね。
――前野さんご自身は、大変だけど、ファーブルみたいになろうという夢は、変わらなかったわけですね。
前野 ですね。そもそもやりたいことを仕事としてやれるのであれば、大変な思いをしなきゃできるわけがないでしょと。だから好きなことをするための、当たり前の苦労だと思っていました。逆に、バッタの研究をして飯を食うなんて夢が軽々しく叶ってしまったら世の中壊れるので。
水月 おっしゃる通りですね。僕はもともと「道草」の研究をやっていました。学会発表で「そんな研究やって何になるの」とある偉い先生から言われてカチンときたんですけどね。でも、最初は誰が聞いてもそういうふうにしか思わないはずなんです。だって、道草なんかしないで家に帰って早く勉強しなさい、習い事に行きなさい、というのが日本の文化、教育ですからね。だけど、「道草」を研究することによって、子どもたちがどんな魅力的な発達環境に身を置いているのか、ということを提示してあげるのも大事なんじゃないかという思いはあったんです。
バッタの研究をやっていると、それ何になるのと、日本だったらたぶん言われる。僕の道草も同じだけど、でも、そんなこと知ったことじゃない、やりたいからやっているんだというところがありますよね。それは自分が生きていくステージ、人生の歩みのなかで捨てられない部分があって、それを大切にしていたらたまたま研究にもつながって、結果も出てきていると。それを僕は「ほとばしり」だと考えています。どうしようもない研究者の性(さが)といいますか、こういうふうにしか生きられないんだという「ほとばしり」ですね。
研究者というのは、俺はここじゃないと生きられないんだから仕方ないと思っている人たちが身を置く場所であり、逆に言うと、他の場所では生きていけない。だから飯が食えないということはあまり大した問題じゃない。もちろん食えないと困るんだけど。
――研究にそれだけのめり込めないのなら、そもそも研究者を目指さないほうがいいということですか。
水月 もちろん職業に対する憧れというのもあるでしょう。博士号を取って大学教授という道に乗れば、社会的ステータスもあるし、いいことがあるんじゃないかとか。あるいは、研究者の家系で目指さざるを得ないとか、いろいろな理由があるとは思います。
ただ、そういう単純な憧れからなるような職業ではないと僕は思います。大学に残って研究者になると、こういうことができる、そこに魅力を感じて突き進んでいく。
とはいえ、飯が食えなくなった場合にどうするかということを並行して考えていかないといけない日が、必ず誰にでもやってくるということですね。
頭がいいと研究者になれない⁉
――研究にのめり込めないんだったら、研究者を目指さないほうが本人のためという面もありますか。
前野 だと思いますね。学生さんでも、研究能力はものすごく高いけれども、やる気がないというか、やってやるという意欲が湧いてこない人などがけっこういると思います。そういう人たちが、この先どうしようかなと悩んでいるのを見たこともあります。
水月 そういう人たちって、得てして頭がかなりいいほうじゃないですか。
前野 たしかに。頭がいいから、自分の先が見えてしまうらしいんですね。自分がこの道に進んだら、こういう苦労をするのかと、余計なものを見すぎて博士課程に行くのをやめた人もけっこういたので。羨ましいほど能力が高いのに、進学しないんだと驚きました。もっとも、別の道に進んでも活躍すると思いますが。
水月 研究者というのは、頭のよさも大事ですけど、熱意やしつこさがないと続かないですね。
前野 大学受験の時、ほとんどの人が鬼のように勉強しますよね。あの努力をそのまま夢を叶えるために投じたら、かなりの人の夢が叶うんじゃないかなと、最近ふと思いました。
水月 入試は、先が見えるから踏ん張れるというところもあるんでしょうね。でも研究者の道に入ると、先が見えないことのほうが多いので、先が見えがちな頭のいい人は、気持ちが萎えていくのでしょうね。
博士号を持っていてよかった
――お二人とも博士号をお持ちですが、やはり持っていてよかったですか。
水月 よかったと思いますね。取りたくても取れない人もいっぱいいますし。前野さんが言っていたように、頭のいい人たちは、そのままやっていれば簡単に取れたはずなのに、取らないでリタイアしている人がいっぱいいるんですよね。だから取れる時に取っておくのが大事ですし、取っておくと次につながることもあるでしょう。
とはいえ、取るまでには、研究だけではなく、いろいろ乗り越えなきゃいけないハードルがある。たとえば、指導教官との関係は必ず良好に保っておかなきゃいけない。前野さんのように、大学の学部と大学院が違うと、学閥もあるような環境のなかでうまく立ち回らないといけない。査読論文も何本か取っておかないといけない。そのためには、学術誌によって受け入れられやすい書き方というのがあって、そういうことも学ばないといけない。こういう面倒なことをクリアしていく必要があるんだけど、頭のいい人は、たぶんどこかで嫌になるんだと思いますね。
――水月さんの場合、博士号を取っても、就職の当てがあったわけではないですよね。
水月 なかったけれど、博士号を取らなかったら、就職はさらに絶望的なので、絶対に逃したらダメだろうと思っていました。逆に、取らなくても生きていける人はいるんですよね。たとえば優秀な成績で旧帝大をストレートで出て、旧帝大の大学院を博士課程単位取得満期退学(所定の博士課程三年間で、単位だけはすべて取ったものの、最終試験に臨むための博士論文の提出には至らない状態のこと。すなわち博士号は取れていない状態)で修了して、いろいろなお声がかりでスッと就職が決まる人もいますね。それは頭のいい人に限ったことで、そういう生き方ができない人のほうが圧倒的に多い。僕なんか全然できないので、博士号を取るしかない。
――苦労はあるけれど、取らないよりは取っておいたほうがいいと。
水月 取らないなら、最初から博士課程に進んじゃいけないとすら思っていましたね。いまでも思っていますけれど。だから若い研究者が博士課程に進学したら、死んでも取れと僕は言っています。
――理系だと、データがうまく取れなくて、博士論文が書けないということもあるんですか。
前野 はい、普通にありますね。
――そうすると、運の要素も大きいですね。
前野 運もありますし、やる気の部分も大きいと思います。まず、博論のテーマ選びを何にするかで、けっこう変わってきますね。
――テーマは、指導教官のアドバイスで決めるのでしょうか。
前野 アドバイスもありますし、自分で選ぶこともあります。何に取り組むかという運もあると思います。たとえば指導教官が手掛けるプロジェクトの一員となれば、いい成果が出やすくなります。ただ、そういう場合、先生から与えられたテーマなので、成果はあがるものの、研究テーマを生み出す能力には磨きがかかりにくくなるように思います。そのため、就職できても伸び悩むこともあるのかなと思いますね。
――やはり壁にぶち当たって、自分で考えて解決策を見つけるということを繰り返さないといけないものでしょうか。
前野 そうですね。若いうちにいろいろな苦労をしておいたほうが、年を取ってからの突破力が身についているような気がします。いまの苦労は、将来、何か大変な問題にぶつかった時に、うまくすり抜けていくための練習だと思っています。
――前野さんは、実際に苦労されている時期も、ひとつずつ解決していくことで、将来何かの力になると考えていたのですか。
前野 なるだろうなと思っていましたね。自分で実験を考えていろいろやっても、失敗したり中途半端なデータで終わったりした時は、将来、この経験をもとに、よりいいことをしようと思っていました。新しいことをする時って、けっこういろいろ小さなトラブルに見舞われるんですよね。そういう時、昔失敗したことを思い出して、これこれこうなるから気をつけていこうと注意します。昔の苦労が生きますね。
水月 まさに「道草」の効用です。
(続く)