貴重な「聞き書き」
デニーには『ちょっとひといき』(琉球出版社)という著書がある。発行日は2002年8月。デニーが沖縄市議会選挙で史上最高得票当選したのがその年の9月だから、その直前に出版されたことになる。本書の中でデニーは政治家の道を選択したことについての思いや、叶えたいことについて語っている。政治家を志して始動する時期に聞き書きというかたちでまとめられたものだろう。
この本には、1995年からスタートしたRBCラジオ「ふれ愛パレット」でデニーとコンビを組んだ當眞さゆりが聞き手となったパートが挿入されている。なぜか私は沖縄県内の古書店でも見かけたことはないが、デニーの幼い日々から若き日に至るまでの写真が掲載されていて、興味深い。それを参考にしながら、当時の風景を再現してみる。
遊説の出発地に選んだのは……
デニーが預けられて暮らしていた知花家の近所には米兵相手のバーが並んでいた。表向きの店構えはコンクリートだったが、屋根はトタン屋根だった。デニーが住んでいた知花家も木造建てセメント瓦で、台所はトタンの屋根だった。トタン屋根に雨が降る音、台風の激しい雨風がトタン屋根を叩きつける音は、デニーの記憶の原風景をなしているようだ。板ぶき壁の隙間から風が吹き込んでくるときの寒さ。冬の時期に体を暖めた火鉢の木炭の臭い。木炭がはぜる音。隣近所はみんな木造の家が多かった。
2018年、衆議院議員だった玉城デニーが、在任半ばで亡くなった翁長雄志知事の遺志を継ぐかたちで知事選に立候補したとき、遊説の出発地に、2019年に84歳で亡くなった産みの母・玉城ヨシが生まれ育った伊江島を選んでいる。伊江島では上陸してきたアメリカ軍と日本軍との間で壮絶な戦闘が繰り広げられ、集団自決などで1500人あまりの住民が犠牲になったという。まさに地獄絵図のような戦闘があったことが沖縄戦史の中で特筆されている場所だ。
デニーが産みの母の戦争体験を私に語ってくれた。
小・中・高校時代――育まれた自己肯定感
デニーは、与那城村教育区立与那城小学校から与勝事務組合立与勝第二中学校へと進む。私があるとき、「デニーさんにとって記憶の原点になっているような光景はなんですか?」と質問したとき、すぐに語ったのは中学時代のことだった。
知花カツと、カツの長男の知花正則と暮らしていた小学校時代、デニーはカツから励まされた言葉を何度も反芻するように話す。カツから言われた言葉が、デニー自身の自己肯定感につながっていったという自覚が強いからだろう。
当時、子どもがいじめられたり差別されたときに励ますとしたら、強い気持ちを持ってやりかえしにいけという親が多かったのではないだろうか。
自分の中では答えは見つけきれなかった青春期のデニーは、なぜ(米軍の)父を追わなかったのか、なぜその後連絡を取らなかったのか、なぜ父からの手紙を焼き捨てたのか……こみ上げてくる疑問を玉城ヨシにぶつけたことがある。
しかし、ヨシはほとんど語らなかった。「もういいよ、昔のことなのに」と答えるだけだった。デニー少年から見ると、それ以上質問してきたら怒るよという無言の圧を感じた。
高校に入ってからデニーが差別を受けることがなくなっていったのは、心と体の成長が偏見を許さないようになったからなのか、年齢ゆえの分別がつくようになったからなのか。あるいはそこには、デニーが強く影響を受けた、ロック時代の平和と平等の理念も関わっていたのかもしれない。
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